列の途中 第16話 まだわかってない――できる、つもりだった
七月。
朝倉は、申し送り表の新しい名前に目を止めた。
右足関節果部骨折、術後三日目。四十代男性、建設関係の仕事。
事故の内容はシンプルだった。
作業中、側溝の蓋がずれて足が挟まった。
それだけだ。
大きな外傷ではなく、頭も打っていない。内臓も無事。
いわゆる「よくある怪我」だった。
朝倉は少しだけ息を吐いた。
急性期の足関節骨折を最初から担当するのは、これが初めてだった。
午前。
病室に入ると、患者はベッドの上で少し申し訳なさそうに笑った。
「情けないですよね。ちょっとした不注意で、こんなことになるなんて」
朝倉がカルテを開く前に患者が言った。
朝倉は首を振った。
「よくある事故ですよ」
「でも、早く仕事戻らないと」
その言葉に、朝倉の胸の奥がわずかに重くなった。
まず確認する。
創部、腫脹、熱感、疼痛。
問題はない。
固定も安定している。
医師の指示は明確だった。
まずは完全免荷、可動域練習は可能。
「少し動かしていきますね」
朝倉は患者の足に手を添えた。患者は小さくうなずいた。
ゆっくりと背屈を試みる。
すぐに止まった。
わずかな角度で動きが止まる。
もう一度やっても同じ場所だった。
伸びないというより、奥で詰まる感じがした。
アキレス腱の前あたり、本来柔らかいはずの場所に妙な抵抗がある。
もう一度ゆっくり動かす。
今度は、角度がつく前に奥のどこかが引っかかる。
表面でも筋肉でもない。
もっと深い場所で、何かが動いていない。
患者が少し顔をしかめた。
「先生、ここが……」
患者の指が触れたのは、内くるぶしの少し後ろだった。
「この辺が、突っ張る感じがします」
「分かりました」と朝倉は答えた。
でも内心では答えが出ていなかった。
何が突っ張っているのか、言葉にならない。
松葉杖の練習に移った。患者は明らかに緊張していた。
「右足は、床につけないように」
「はい」
一歩目で体がぐらつく。
杖が前に出すぎて、上半身が後ろに傾く。朝倉はすぐ前から支えた。
「大丈夫です。ゆっくりでいきましょう」
もう一歩。
今度は杖が遅れてバランスが崩れる。
朝倉はまた、とっさに体を支えた。
怖がっている、とはっきり分かった。
転ぶことではない。
仕事に戻れなくなることが怖いのだ。
「これ、ちゃんと治りますか」
患者が小さく言った。
朝倉は一瞬だけ言葉を失った。
「治りますよ」と簡単には言えなかった。
脳血管の麻痺とは違う。
骨はくっつく。
でも、この突っ張りを取らなければ、この人は足を引きずったまま現場に戻ることになる。
「……治るように、少しずつ動かしていきましょう」
自分の言葉の頼りなさを自覚しながら言った。
それが今の自分に言える精一杯だった。
夕方、記録室でパソコンの前に座ると、手が止まった。
画面に表示された数字が目に入る。足関節背屈、0°。
名前は知っている。
皮膚、皮下組織、腱、靭帯、関節包、脂肪。
でも位置を、触れる順番を、滑らせ方を、本当の意味ではまだ分かっていない。
その事実が、胸の奥に静かに落ちた。
そしてもう一つの思いが浮かぶ。
もしこの人の足が硬いまま残ったら。
歩きにくさが残ったら。
仕事に戻れなかったら。
「リハビリが悪かったんじゃないか」
責められる恐怖ではない。
本当に、自分だけのせいかもしれないという恐怖だった。
これまでは、プランAができない理由は患者や家族の側にもあった。
血圧、疼痛、病態。
だからプランBに切り替える。
それが正しい判断だと思っていた。
でも今回は違う。
プランAができない理由が、自分の側にあるかもしれない。
帰り道。
朝倉は、スマートフォンを取り出した。
足関節の解剖。
検索画面を開く。
画像が並ぶ。
骨。靭帯。腱。神経。
でも、どれも現場の手触りにはならない。
朝倉は、メモを開いた。
・足関節 解剖
・軟部組織
・滑走
・免荷期 可動域
・松葉杖 指導
指が、止まらなかった。
しばらく歩きながら打ち続けて、ふと顔を上げた。
ドラッグストアの前だった。
なんとなく、入った。
アイスのコーナーへ向かう。
いつものシリーズを探した。
なかった。
棚を端から端まで見た。
やはりなかった。
別のメーカーの、似たようなやつが代わりに並んでいた。
――終売
朝倉はしばらくその棚を見ていた。
仕事も調べ物も上手くいかない。
帰り道に寄ったドラッグストアで、いつものアイスまでなかった。
――なんだかなー
でも。
別のアイスは、あった。
買えないわけじゃない。
朝倉は、それを手に取った。
レジに向かう。
思い通りじゃなくても、手は動かせる。
店を出た。
夜の空気が、少し蒸し暑かった。
アイスの袋を持ったまま、歩き出した。
努力はしている。
手も動かしている。
それでも届かない壁がある。
――その時、どうするか。
