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列の途中​ 第17話 調べても、まだ足りない ――情報と、目の前の人

八月。

午前のリハビリ室で、朝倉は患者の足をゆっくり背屈させていた。

また止まる。

昨日と同じ場所で、奥に詰まる。背屈は0°。

ほんのわずか、それ以上は動かない。

朝倉は手を離した。


午後、記録室に戻ると相馬が静かにキーボードを打っていた。

朝倉は少しだけ間を置いてから声をかけた。

「相馬さん。足関節の軟部組織って、どうやって深く調べればいいですか。スマホや教科書じゃ、限界があって」

相馬の手が止まった。数秒の沈黙のあと、静かに言った。

「分からないことは、悪いことではありません。調べ方を知らないことが、問題です」

朝倉は小さくうなずいた。

「近くの大学図書館を使ってください。専門的な解剖書や一次情報に当たることです」

「……学生じゃなくても、使えるんですか」

「申請すれば使えます。むしろ、使ってください」

相馬はいつもの淡々とした口調で続けた。

「我々の仕事は、公益に資するものです。

大学側も地域の医療のために門戸を開いています。

そこにある知を利用しないのは、

環境を用意している大学にも、目の前の患者にも申し訳ないことです」

朝倉は、はっとして顔を上げた。

相馬は再びモニターに向き直りながら言った。

「図を見て、位置を覚え、そして、触ってください」


夕方、大学図書館。

宮田も自分の担当する大腿骨頸部骨折の症例のために、股関節周辺の解剖書を広げていた。

「ありました、朝倉さんのも」

宮田が分厚い専門書を机に置いた。

『足関節の機能解剖』

朝倉はページをめくった。

骨、靭帯、腱、神経、脂肪体、支帯。

詳細な断面図が並ぶ。

「……こんなにあるんですね」

自分の本と朝倉の本を見比べながら、宮田が素直に言った。

朝倉はページを指でなぞった。

距骨下脂肪体、屈筋支帯、踵骨周囲脂肪体。名前が並ぶ。

(ここか)

朝倉はゆっくり息を吐いた。

「覚えよう」

宮田は自分の解剖書に視線を戻し、力強くうなずいた。

「はい」


翌日、病室。

朝倉はこれまでよりもゆっくり触れていた。

皮膚から始めて、皮下、深部へ。

滑らせて、待って、逃がして、もう一度動かす。

わずかに動いた。

背屈0°から、2°。

「……昨日より、少し楽です」

患者が小さく言った。朝倉は何も言わなかった。

ただ、手の中の変化を確かに感じていた。


だが三日後、また止まった。

背屈3°、それ以上は動かない。

(頭打ちかな)

夕方、記録室でしばらく立ったままでいたあと、朝倉は相馬の席へ向かった。

「相馬さん。……申し訳ないんですが、もう一度相談してもいいですか」

相馬はすぐに答えた。

「もちろんです」


翌週の午後、病室で相馬が患者の足に静かに触れた。

朝倉はその手を見ていた。

強くなく、速くもない。

ただ迷いがない。

数分後、相馬は手を離した。

「悪くないと思います」

朝倉は少しだけ息を吐いた。だが相馬は続けた。

「ただ、リハビリの時間だけでは足りないんですよね。」

と相馬は静かに言った。

「患者さんが私たちの介入で動いている時間は一日二十分です。残りの二十三時間四十分は動いていません」

朝倉は言葉を失った。

「自主練が必要です。筋トレだけではありません。滑走性を保つストレッチ、安全な範囲での荷重。生活の中で動かす時間を増やしてください」

朝倉は静かにうなずいた。


夕方、リハビリ室で主任の野口がコーヒーを飲んでいた。

「どうだった」

「……いやー、まだまだです」

主任は少し笑った。

「いいじゃないか」

朝倉が顔を上げると、野口は続けた。

「もうそこまで調べて、そこまで触って、そこまで悩んでるなら、症例報告でも出してみろ」

朝倉は固まった。

「書けるだろ。足りなかったこと、工夫したこと、悩んだこと。全部、症例だ」

しばらく動けなかった。

それから、胸の中でゆっくりと何かが落ち着いた。

書ける。初めてそう思った。

まだ完全ではない。

でも、もう何も知らない新人ではない。

朝倉は少しだけ背筋を伸ばした。


その夜。

アパートに帰り、シャワーを浴びてベッドに寝転がると、スマホが振動した。

田中からだった。

​【で、こないだの飲みから、加納とはどうなったんだよ】

​朝倉は苦笑して画面を見つめた。

先月、田中を含めた大学時代の同級生数人で集まって飲んだ時。

そこで朝倉は、別の病院で働いている加納とたまたま席が隣になり、互いの職場の愚痴や臨床の話で妙に意気投合してしまった。

それを田中は見逃していなかったらしい。

​【そんなんじゃないから。普通に仕事の話しただけ】

​すぐに既読がつき、返信が来る。

​【真面目すぎんだろその返し。ちなみにあいつ、休日は水族館巡りするのが趣味らしいよ】

【週末、誘ってみちゃえば?】

​立て続けに送られてくるお節介なメッセージに、朝倉はため息をつきながら文字を打った。

​【今は無理。主任から症例報告出してみろって言われて、それどころじゃない】

​しばらく間が空いた。

​【お、ついにやるか。相馬さんの指導入ってるなら書けるだろ】

【息抜きも必要だぞ。頑張れよ】

​朝倉は【サンキュ】とだけ返し、スマホを伏せた。

​天井を見上げる。

足関節の解剖図。相馬のハンドリング。主任の言葉。患者の顔。

そして、水族館の映像が、少しだけ頭をよぎる。

​忙しい。

けれど、決して悪くない充実感だった。


次回、第18話「一週間」

取り戻せない時間が、ある。

それを知るのに、一週間もかからなかった。

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