列の途中 第25話 回復期の空気 ――「当たり前」の違い
三月の最終日。
宮田は、急性期病棟での最後の申し送りを終えた。
ナースステーションでカルテを閉じる。
「引き継ぎ、終わりました」
宮田が声をかけると、隣の席の朝倉が手を止めて振り返った。
朝倉の目の下には、少しクマがあった。
二月に待望の第一子が生まれ、寝不足の毎日が続いているらしい。
それでも、表情はどこか穏やかだった。
「4年間、お疲れ」
「ありがとうございます」
宮田は、病棟を見渡した。
心電図モニターの規則的な電子音。慌ただしく行き交う看護師たち。点滴のルート確認の声。
ここが、自分の原点だった。
朝倉さんの隣で育ち、相馬さんの背中を遠くから見てきた。
「回復期は、ここより時間が長いんだろうな」
朝倉が、コーヒーの紙コップを手に取りながら言った。
「患者さんと向き合う時間が、ですか」
「それもある。でも、答えが出るまでの時間が長いんじゃないかな」
宮田は、その言葉を黙って聞いた。
まだ、実感は湧かなかった。
「困ったら、いつでも連絡してよ。回復期のことも聞きたいしな。」
朝倉はそれだけ言って、また画面に向き直った。
宮田は、その背中に深く頭を下げた。
四月。
宮田は、新しい病棟の更衣室で白衣に袖を通した。
急性期から回復期への異動。
辞令が出たのは二月の末だった。
驚きはなかった。
むしろ、いずれそうなると思っていた。次のステージへ、という感覚は自分の中にもあった。
ただ。
回復期の病棟に足を踏み入れた瞬間、空気が違うと思った。
急性期の朝は、張り詰めている。
誰もが少しだけ前のめりで動いている。
ここは違った。
穏やかだった。
悪い意味ではない。でも、何かが緩んでいる感じがあった。
リハビリ室に入ると、数人のスタッフが準備をしていた。
宮田より年上が多い。
経験年数は様々だが、全体的に落ち着いていた。
「宮田さんね。よろしく」
ベテランらしい女性スタッフが軽く手を上げた。
内田という名前だった。
経験十年以上。この病棟では古株らしかった。
「よろしくお願いします」
宮田は頭を下げた。
同じ回復期には田中もいた。
大学の一年先輩で、学生時代からよく知っている。
回復期に来てすぐ、自分で学んで技術を積み上げて、病棟の中心的なスタッフになっている様だった。
「おー。宮田。よろしくなー。」
午前中、田中がリハビリ室の端で声をかけてきた。
「はい。よろしくお願いします」
「気を使うなって」
「いや、職場ですし。」
田中は少し笑った。
「まあ、好きにしろ。分からないことあったら聞けよ。」
その言葉は、軽かった。
お昼前。
宮田は、リハビリ室のパソコンで引き継いだ担当患者のカルテを確認していた。
脳梗塞後、三週間。
左片麻痺。装具は検討中。ADLは部分介助。
カルテの記録は、淡々としていた。
介入記録は短い。
評価値は並んでいる。
でも、患者が何を困っているか、退院後にどうなりたいのか、そういうことはほとんど書いていなかった。
急性期ならもう少し書く、と宮田は思ったが、口には出さなかった。
午後。
リハビリ室の端で、新人が立ち往生していた。
二十二歳くらいの女性。まだ不慣れなのかぎこちない。
患者を車椅子からプラットフォームへ移乗しようとしている。
患者の体重が思ったより重かったか、新人も、患者も姿勢が崩れている。
患者は不安そうに手すりを握っている。
宮田は、反射的に立ち上がった。
「手伝います」
一歩踏み出したところで、声がかかった。
「大丈夫よ」
内田さんだった。
コーヒーを持ちながら、宮田を制するように手を上げる。
「自分で経験させた方がいい」
宮田は足を止めた。
「でも、患者さんが」
「そのために見守ってるから大丈夫。困ったら声かけるようにも言ってあるし」
穏やかに、しかしはっきりと言った。
宮田は、新人の方を見た。
新人は何とか移乗を終えたが、患者の姿勢が崩れている。それを直すために、また手間取っている。
崩れた姿勢を直すより、崩れないように移乗する方が患者の負担が少ない。
理学療法士の負担も少なく患者の身体機能改善にも繋がる。
そう思ったが。
宮田は黙って、自分の席に戻った。
夕方、更衣室で着替えながら、宮田は朝倉にラインを送った。
【今日から回復期。やっぱ、違いますね】
すぐに返信が来た。
【そうなの?】
宮田は少し考えてから打った。
【新人が困ってたけど、止められました。見守るって言われて】
【見守ることと放置することって、どう違うんでしょう】
既読がついた。
しばらく間があって、少し長めの返信が来た。
【みんな指導では悩むんだな。】
【部署が違えば文化も違う。分かってきたと思っても新しいところは難しいな】
宮田は画面を見つめた。
分かってきた、か。
まだ、分かっていなかった。
でも。
明日も、行く。
その言葉は、いつでも届くわけではない。
同じ言葉が、違う重さを持つことがある。
