列の途中 第26話 困ったら聞いて ――何を言うか、誰が言うか
一週間が過ぎた。
宮田は、回復期の日常に少しずつ慣れてきていた。
急性期と違うのは、時間の流れだけではなかった。患者との関係の長さが違う。
急性期では一週間もすれば転院か退院になることが多かったが、ここでは同じ患者と毎日会う。
一ヶ月、二ヶ月、ときにそれ以上。
関係が深くなる分、患者の変化が細かく見えてきた。
それは、悪くなかった。
ただ。
新人の問題は、変わっていなかった。
その日の午後、宮田は廊下で新人の動きを見ていた。
脳梗塞後の患者の歩行練習。
短下肢装具を使っている。
患者は装具側の足の出しが弱く、代償で体幹が大きく傾いている。
新人は患者の横に立って声をかけているが、傾きへの対応ができていない。
骨盤を支えるか、声かけの内容を変えるか。
宮田は内田さんのいる方を見た。
別の患者対応中だった。
新人が振り向いた。目が合う。
助けを求めている?
宮田は近づいた。
「少し一緒に見ていいですか」
新人はうなずいた。宮田は患者の反対側に立った。
「今、体幹が傾いているのは装具側の足の踏ん張りが弱いからだと思います。ここに手を添えて、骨盤が逃げないように支えてみてください」
新人は言われた通りにやった。患者の傾きが、少しだけ減った。
「あ」と新人が小さく言った。
「感じましたか」
「はい、骨盤が安定すると足が出やすくなる気がします」
「そうです。装具は膝下は固定できますが、骨盤は固定できないので、最初はここを補助してあげると患者さんも怖くなくなります」
歩行練習が終わったあと、内田さんが近づいてきた。
声は穏やかだった。
「宮田さん」
「はい」
「さっきのこと、あの子には自分で気づかせたかったんだけどな」
宮田は少し黙った。
「気づくまで、どのくらい待つつもりでしたか」
聞き方は穏やかにしたつもりだった。
でも、内田さんは少しだけ表情を固くした。
「それはケースバイケースよ。経験積ませるのも大事だから」
「患者さんの負担はどう考えていますか」
「安全は確保してるから」
「骨盤が流れたまま歩行練習を続けると、代償パターンが定着しませんか」
言いすぎたかもしれない、と思った。
でも、口が動いていた。
内田さんは一瞬、言葉に詰まった。
それから、少し笑った。
「急性期から来た人は、せかせかしてるのよね」
宮田は何か言おうとした。
でも、内田さんはもう別の患者の方へ歩き出していた。
追いかける言葉が、見つからなかった。
それ以上でも、それ以下でもない、という背中だった。
怒っているわけではない様だった。
でも、これは、どうすればいいんだろう。
個人の問題ではないと感じた。
そのやりとりから数日後、午後のリハビリ室。
宮田は記録を書きながら、少し離れた場所の会話を聞いていた。
新人が、カルテを開いたまま立っていた。
担当患者は、下腿の腫脹があり、昨日のエコーで血栓が見つかっていた。
「この方、今日は歩行やめた方がいいですか」
内田さんが、手を止めずに答えた。
「血栓は基本安静よ。昔からそうだから。動かして、飛んだら怖いでしょ。そんな感じで、困ったら聞いて。」
新人は、真面目な顔でうなずいた。
「じゃあ、ベッド上だけにしておきます」
宮田の手が止まった。今の言い方は、引っかかった。
抗凝固療法は始まっているのか。血栓の部位はどこか。主治医の指示はどうなっているのか。
そこを見ないまま、一律に安静と判断している。
言おうか迷った。
でも、また空気を悪くするだけかもしれない。
——それでも、患者は今日も明日も、1ヶ月、もしかするともっとずっと長く、ここにいる。
そのまま席を立てなかった。
夕方。
廊下で、新人が一人でカルテを見ていた。
田中が通りかかって、足を止めた。
「さっきの血栓の人?」
新人が顔を上げた。
「はい。今日はベッド上だけって聞いて」
田中はカルテを少し見た。
「抗凝固、入ってるなー」
「はい」
「カルテに主治医の離床制限書いてある?」
新人はページを見た。
「……特に書いてないです」
田中は、少しだけ黙った。それから、声を落として言った。
「昔は安静寄りだったんだよねー。でも今は、抗凝固が入ってて状態が安定してれば、歩かせる方向にガイドラインも変わってる」
新人は少し驚いた顔をした。
「そうなんですか」
「まーでも、何でも歩かせていいわけじゃないけどね。血栓の部位、症状、呼吸状態、主治医の方針。そこを見て決める」
田中は言い切らなかった。
教え込むというより、道筋を置く話し方だった。
「一律に安静、も危ないし。逆に一律に歩行、も危ない」
新人は、小さくうなずいた。
「……確認してみます」
「それがいいんじゃない?」
田中はそこで終わるかと思ったが、少しだけ続けた。
「あと、困ったら聞いて。知らないのは別に悪くないよ。」
少し間。
「更新されてないままやる方が、危ないから」
新人はもう一度うなずいた。
少し離れた場所で、そのやり取りを宮田は聞いていた。
正面から否定しない。
でも、必要なことは渡す。
こういう動き方もあるんだ、と宮田は思った。
リハビリ室の片付けをしていると、田中が隣に来た。
「こないだの内田さんとのやり取り、見てたよ」
「あ、すみません。余計なことしましたか」
「いや、お前は正しいと思う」
田中は淡々と言った。
「ただ、あの人たちに正面から言っても動かないんだよ。俺も最初そうだった」
「どうしたんですか」
「諦めて自分で勉強した」
短い答えだった。宮田は田中を見た。
「それじゃ、解決してないですよね」
田中は少し考えてから言った。
「そうだな」
「じゃあ、どうしたらいいと思いますか」
「俺も分かんないんだよなー。でも、朝倉に相談してみたら。そういえばあいつ、こういうの整理するのうまいよね」
「田中さんだって」
宮田は口にしてから、自分が何を言いたいのか少し分からなかった。
「さっきの血栓の人ですけど」
田中は鞄を持ったまま振り向いた。
「ああ」
「ああいう言い方もあるんだなって」
田中は少しだけ笑った。
「あれは、正面からやると、反発されるからな」
「角を立てずに変えていくの、うまいじゃないですか」
田中は少し考えた。
「変わる速度は遅い。でも、ゼロじゃない」
それから、視線を少しだけ落として続けた。
「場を壊さずに残せるものもある、とは思うよ」
宮田は黙った。
田中はそのまま歩き出した。
「お前は、お前のやり方で動けばいい」
短く、それだけ言った。
介助のことも、血栓のことも。
たぶん、同じだった。
誰か一人のせいではない。
でも、放っておけば、そのまま続いていく。
その夜、宮田はまた朝倉にラインを入れた。
【ベテランの方に止められました。また、患者さんへの影響を言ったら、急性期は急いでるって言われました】
返信は少し遅かった。
【木曜、田中と三人で飯でも食うか。来れるか】
宮田は即座に返した。
【行きます】
変えられない人がいる。
変えられない文化がある。
それでも、宮田は何かをしたかった。
