列の途中 第27話 仕組みと器 ――「あの人がいなくても、回る」には
木曜の午後。
宮田は病棟のデイルームで、担当患者の姿勢作りに苦戦していた。
脳出血後、右片麻痺。八十代。
強い円背がある。
標準型の車椅子に座らせているが、時間が経つと麻痺側へ傾いていく。
骨盤が前へ滑り、ずり落ちそうな姿勢になってしまう。
宮田は背中や腰の隙間に、バスタオルを丸めて詰めた。
一時的に姿勢は良くなる。
しかし、十分もすればまた崩れてしまう。
「タオルは、時間が経つとズレるんじゃない?」
背後から声がした。田中だった。
手には、モジュール型の車椅子を押していた。
「こっちに乗ってもらってみて」
言われるままに、宮田は患者を新しい車椅子へ移した。
田中は患者の背中に手を入れた。
「円背があるのに、背もたれが真っ直ぐだと、背中が押し出されて骨盤が後傾する。それが滑る原因だ」
田中は背もたれの裏側に回り、マジックテープのベルトを剥がした。
背張り調整機能だった。
胸椎のカーブに合わせて、上部のベルトを大きく弛ませる。
逆に、骨盤を支える下部のベルトはしっかりと張った。
「背中の丸みを逃がして、骨盤は立てる」
次に、田中は座面の下を覗き込んだ。
「麻痺による体幹の傾きがあるなら、座面の高さを左右で調整して下から支える。滑りを防ぐために、座面全体も少しだけ後ろへ傾ける」
数分間の調整だった。
田中が患者の正面に回った。
「どうですか」
患者は、少し驚いたような顔をした。
「なんだか、体がピタッとしてる。楽だね」
先ほどまで傾いていた体幹が、真っ直ぐに起きている。
視線が上がり、表情も明るく見えた。
宮田は、息を飲んだ。
「急性期だと、車椅子の調整までやること少ないよな」
田中が車椅子のブレーキを確認しながら言った。
「はい。離床が優先ですし、容態も毎日変わるので、タオルで一時的に対応することが多かったです」
「それが急性期の正解かもな。でも、ここは長いんだよ。」
田中は患者から少し離れ、宮田に向き直った。
「回復期では、患者の生活の中心はベッドじゃない。車椅子だ」
宮田は、患者を見た。
安定した姿勢で、配られたお茶を飲んでいる。
むせる様子もない。
「姿勢が崩れれば、誤嚥のリスクが上がる。疲れればリハビリに集中できない。車椅子は移動手段じゃない。生活の器だ」
田中はそれだけ言うと、ナースステーションへ向かっていった。
宮田は、その背中を見送った。
器。普段は比喩のようなことを言わない田中が口にした。
急性期には急性期の。回復期には回復期の、深い技術がある。
田中はそれを、誰にひけらかすこともなく、一人で静かに積み上げてきたのだ。
その日の夜。
駅前の大衆居酒屋。
店内の喧騒とは裏腹に、三人のテーブルだけは妙に落ち着いていた。
生ビールが三つ並ぶ。
乾杯は短かった。
一口飲んで、朝倉さんがジョッキを置いた。
「それで、宮田、どうしたの?」
宮田は、この数日間で溜まっていたものを吐き出した。
装具の歩行練習で新人が困っていたこと。
内田さんが「気づかせるため」と手出しを止めたこと。
DVTの患者に対し、一律に「安静」と指示が出そうになっていたこと。
そして、今日の午後に田中から見せられた車椅子シーティングのこと。
「新人が育たないのも問題ですが、一番は患者さんが不利益を被ることです。それが我慢できない」
宮田は少しだけ声を張った。
「今日の車椅子の件で、痛感しました。正しい技術があれば、患者さんの生活は劇的に変わる。でも、それを共有する仕組みがない」
朝倉さんは聞きながら、黙って頷いていた。
田中は枝豆の皮を小皿に出しながら聞いていた。
急かさない。否定もしない。
宮田が話し終えて息を吐くと、田中が先に口を開いた。
「内田さんたちは、悪くないよ」
宮田は少し驚いて田中を見た。
「でも、実際に間違った指導を」
「悪意じゃないんだ」
田中は淡々としていた。
「育ち方がそうなってるだけだ。先輩から放置されて、背中を見て覚えろと言われて育った。だから、放置が正しい教育だと思い込んでる」
「……」
「急性期みたいに、一週間で退院や転院になる緊迫感もない。今日できなくても明日がある。そういう環境が積み重なって、今の『放置文化』ができてる」
朝倉さんが、手元のコースターを指でなぞりながら言った。
「つまり、個人の性格や能力の問題じゃない。回復期という『環境』のルールが、昔からアップデートされてないってことだな」
朝倉さんのその一言で、宮田の中でモヤモヤしていたものが、少しだけ形を持った。
愚痴ではなく、組織の課題として輪郭が見えた。
朝倉さんが田中を見た。
「田中は回復期で、ずっとどうしてた」
「自分でなんとかしたよ。」
田中は短く言った。
「先輩は教えてくれない。聞いても曖昧な答えしか返ってこない。だから自分で調べた。患者の反応を見て、文献を読んで、自分で試して。結果的に今の技術はついた」
少し間があった。
「たまに、病院内全体の勉強会には顔出してたけどな。相馬さんとか、野口さんとかが喋ってるやつ」
田中はジョッキを回しながら続けた。
「回復期と違う視点が欲しくて」
ジョッキの氷が溶ける音がした。
「でも、それを後輩全員に求めるのは間違ってる」
田中の声が、少しだけ低くなった。
「俺はたまたま、一人で調べ続けるのが苦にならない性格だった。そうじゃない奴は潰れるか、辞めていった。それに、当時は独身で時間があったからな」
田中はジョッキを置いて、短く息を吐いた。
「今は子どももいるしなー。昔みたいに、夜遅くまで残って、遠くの勉強会に行ってみたいな時間なんてない。本すら投げられるから電子書籍を隙間読みだよ」
田中がプライベートを口にするのは初めて聞いた。
宮田は黙って聞いていた。
一人で地道な積み重ねをしてきた田中の、孤独と重みを感じた。
朝倉さんが言った。
「田中は生き残った。でも、これから入ってくる新人に同じサバイバルを強いるわけにはいかない」
朝倉さんは宮田に視線を戻した。
「じゃあ、宮田。どうする」
宮田は考えた。
内田さんたちを変えるのは難しい。
田中さんのように全員が独学できるわけでもない。
答えが出ずにいると、田中がビールを一口飲んでから言った。
「仕組みを作るしかない」
「仕組み、ですか」
「ああ。個人の善意やプライベートな時間を削ることに頼らない教育の仕組みだ。チェックリストでも、マニュアルでもいい」
田中はジョッキを置いた。
「誰が教えても、誰が見ても、最低限の安全と技術が担保される状態にする。属人的なものを排除するんだ」
朝倉さんが頷いた。
「確かに。それ聞いてると、文句を言うより、ルールを上書きした方が早い気がするね」
朝倉さんが宮田を見た。
「宮田、なんかできそう?」
「やってみます」
即座に言った。
田中が続けた。
「俺も一回、始めるなら勉強会に顔出すよ。いきなり一人でアレに立ち向かうのは大変だろ」
「田中さんがですか」
宮田は驚いた。田中はそういう表立った動きを嫌う人だと思っていた。
「別の角度からも圧をかけてみようと思ってな。」
さらっとした言い方だった。
でも、宮田にはその言葉の重さが分かった。
この人は義務でやるつもりはない。
でも、宮田が動くなら、自分も動く。
そういうことだった。
「地道な作業だけどな」
田中が言った。
「分かってます」
宮田が答えると、朝倉さんが少しだけ笑った。
「よし。じゃあ、この話はここまででいいかな」
朝倉さんは残っていたビールを飲み干した。
「そういえば、相馬さんも最近、大学から話が来てるらしい」
田中が少し顔を上げた。
「やっぱ辞めちゃうのか」
「らしい。まだ正式には決まってないみたいだけどな」
田中は少し黙った。
それから、また枝豆に手を伸ばした。
「そうか」
それだけだった。
宮田には、その短い言葉の中に何かがあるような気がしたが、何かまでは分からなかった。
ただ、病院の中の時間が、動き始めていることだけは感じていた。
次回、第28話「変わっていく」
作っても、変わらない。
では、どうすればいいのか。
答えは、思わぬところから来た。
