列の途中 第28話 変わっていく ――放置文化に、教育システムを
それから二週間。
宮田は、A4一枚のチェックリストを作った。
難しいことは何も書いていない。
歩行練習前の確認事項。短下肢装具の適合チェック。骨盤・体幹の代償の見方。声かけのタイミング。困ったときの相談の流れ。
上司に提出すると、「いいんじゃない」と言われた。
却下ではなかった。でも、積極的な支持でもなかった。
「使ってみてください、と言っていいですか」
宮田が聞くと、上司は少し考えてから頷いた。
「構わないけど、強制はしないで」
「はい」
宮田は、印刷したリストをリハビリ室のカルテ置き場と、新人たちのデスクに数枚ずつ置いた。
しかし、現実は甘くなかった。
数日が過ぎても、リストを使っている様子はなかった。
ある日の午後、宮田は新人がリストを見ずに、足早に患者を車椅子へ移しているのを見た。
後で理由を聞くと、新人は気まずそうに視線を落とした。
「あの、リストを確認していると時間がかかっちゃって……内田さんたちが待っていると思うと、つい焦ってしまって」
リストがあることで、逆に新人にプレッシャーをかけている。
急性期の「急ぎ」とは違う、回復期の「空気」に流されている。
宮田は、言葉を失った。
仕組みを作っても、それを使う環境が整っていなければ、ただの紙切れだ。
その翌日のことだった。
リハビリ室の隅で、新人が脳出血後の患者の歩行練習を始めようとしていた。
いつものように、内田さんが少し離れたところから腕を組んで見守っている。
新人は患者に短下肢装具を着けさせ、立ち上がりの準備に入った。
その時、新人の動きがふと止まった。
白衣のポケットから、四つ折りにされた紙を取り出した。
宮田が作ったチェックリストだった。
新人は手元の紙と、患者の足元を交互に見た。そして、患者の足元にしゃがみ込んだ。
「少し待ってください。装具の継手を確認します」
装具の足首の関節部分。
そこを固定するためのピンが、片方だけ完全に抜け落ちていた。
もしそのまま体重をかけていたら、足首が急激に曲がり、確実に膝折れを起こして転倒していた。
「……ピン、入ってませんでした。病棟で外れたのかもしれません」
新人がピンを差し込み、カチッと固定する音がリハビリ室に響いた。
内田さんが、腕を組んだまま無言でその足元を見ていた。
新人は振り返り、不安そうに内田さんを見た。
「あの、すみません、確認で時間とっちゃって……」
「謝らなくていい」
内田さんの声は、少しだけ固かった。
「そのまま立たせてたら、危ないからね。よく気づいた」
新人はホッとしたように息を吐き、歩行練習を始めた。
宮田は少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。
夕方。
宮田が記録を書いていると、内田さんが横を通り過ぎた。
歩みを止めず、前を見たまま、小さな声で言った。
「あのチェックリスト、更衣室のロッカーにも貼っといて。ポケットに入れ忘れる子がいそうだから」
宮田はペンを止め、顔を上げた。
「はい」
内田さんはそのまま振り返らずに、ナースステーションへ向かっていった。
翌週。
田中が回復期の勉強会に顔を出した。
同じ病棟のスタッフではあるが、こういう場に自分から出てくるタイプではなかった。それだけで、少し空気が変わった。
宮田が短下肢装具の基礎を説明した。
田中は聞きながら、時々短く補足した。
「足先が引っかかる時って、装具どうこう以外に、体幹から来てることも多いから、足元だけ見てると見逃すことがある」
「退院後に装具を外すタイミングは施設によって判断が違うから、退院先のリハスタッフと事前に話しとくといい」
口数は多くなかった。でも、一言一言が的確だった。
内田さんが、少しだけ眉をひそめて小さく言った。
「退院先との連携って……結局、私たちが電話する仕事が増えるのよね」
田中は淡々と答えた。
「最初は、そうですね。でも、実際やってると、後からサマリーの解釈で揉めるより、直接聞いた方が早いこと多いですよ」
内田さんは、少しだけ口をつぐんだ。
それから、小さくため息をついた。
「……まあ、確かにそうよね。なかなか電話一本ってわけにもいかないけどねー」
完全に納得したわけではなさそうだった。
勉強会が終わったあと。
田中が宮田に小声で言った。
「内田さん、あっさり引いたな」
「田中さんが言ったからですよ。信頼されてるんじゃないですか」
宮田が言うと、田中は少しだけ驚いたような顔をした。
「……そうなのか」
「気づいてなかったんですか」
「俺はただ、勝手にやってるだけだと思ってたからな」
田中は少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「こんなことなら、もっと早く口を出せばよかったな」
宮田は少し笑った。
「何言ってるんですか。田中さんずっとやってるじゃないですか」
田中は上着を手に取った。
「……ありがとな」
「え?」
「お前が動かなかったら、俺も、ずっと」
田中はそれだけ言うと、足早に出ていった。
宮田は、その背中を見送った。
急には変わらない。
摩擦もある。
でも、前に進んだ気がした。
その夜、朝倉さんから短いラインが来た。
【相馬さんから話があった。大学の件、本格的になってきたみたい】
宮田は画面を見た。
それから、打った。
【そうなんですね。田中さん、何か思ってそうでした】
少し間があって、返信が来た。
【あいつは自分で決める。それがあいつだから】
急性期と回復期の間で、人が動いていく。
相馬さんが去るかもしれない。
田中さんが何かを考えている。
朝倉さんはどうなんだろう。
宮田は窓の外を見た。
春の夜は、まだ少し肌寒かった。
でも、悪くない空気だった。
その夜、朝倉にラインが届いた。
相馬さんから、話があると。
覚悟していたはずの言葉が、思ったより重かった。
