列の途中 第21話 方向 ――治すとは違う道
十一月。
病棟。
朝倉は患者の歩行を見ていた。
学会のあとから、加納とは何度か会っていた。
派手な関係ではなかった。
休みが合えば出かけて、合わなければ短く連絡を交わす。
それでも、不思議と話は途切れなかった。
ゆっくり、小刻み、すくみ足。
一歩が出ない。
「……ここで止まるんですよ」
患者の妻が不安そうに言った。
廊下の角、方向転換の手前。
決まってここで足がすくみ、一歩が出なくなる。
朝倉は黙って観察していた。
足の運び、体幹の傾き、視線の位置、そして呼吸のリズム。
「じゃあ、ここに目印を置いてみましょうか」
床を指し、ビニールテープを一本、横に貼る。
「このテープを、またぐようにして足を出してみてください」
患者がテープに視線を落とす。
少しだけ体が前に動き、そして、魔法が解けたようにすっと一歩が出た。
妻が小さく息を飲んだ。
「……出た」
朝倉は何も言わなかった。
ただ静かに、うなずいた。
リハビリ室。昼。
進行か、廃用か。
朝倉は記録を書きながら、それが疾患の進行によるものか、あるいは動かないことによる廃用なのかを考えていた。
去年は、病気のせいだと思っていた。
進行性疾患だから悪くなるのは仕方ない。
そう自分に言い聞かせていた。
でも、今は違う。
動いていないからこそ悪くなるという可能性が、見えるようになった。
朝倉はキーボードを打つ手を止めた。
自分の向き合っている方向は正しいのか。
ふと、昔の自分を思い出した。
歩行距離が伸び、患者が喜び、自分も嬉しい。
でも病棟では寝ていて、数週間後には歩けなくなる。
そんな光景を何度か見てきた。
朝倉は静かに息を吐いた。
治すのではなく、守る。
目指す方向は一つじゃない。
夕方。病室。
リハビリが終わり、患者がベッドに座っていた。
穏やかな空気。
「朝倉さん。」
妻が言った。
「私たちね、職場結婚なんです」
朝倉は少し驚いた。
「そうなんですか」
妻はうなずいた。
「この人、昔はよく喋る人だったんですよ」
患者が少しだけ笑った。
「今でもしゃべってるよ。」
小さな声。
妻も笑った。
「そうですね」
「若い頃は、夜勤のあとに、よく二人でご飯を食べに行ってました。
お金もなかったし、時間もなかった。
でも、楽しかったですね」
病室の空気が少しだけ温かくなる。
病気になっても、年を取っても、二人の関係は続いているのだと、ふと思った。
帰り道。夜。
スマートフォンが震えた。
メッセージ、加納からだ。
『明日、何時にする?』
朝倉は少し立ち止まって返信する。
『9時でいい?』
すぐに返ってくる。
『了解、チケット取ってある』
朝倉は少しだけ笑った。
今度はディズニーか、と。
空を見上げる。
冷たい空気だが、悪くない。
数日後の昼休み。
相馬がパソコンの前に座っていた。
画面には患者一覧。
いつもの静かな姿。
朝倉は少し迷ってから声をかけた。
「相馬さん」
交際が始まってから数か月。
驚くほど穏やかに、二人の話は少し先の生活へ進み始めていた。
相馬は顔を上げた。
「はい」
朝倉は視線を落とし、ほんの少しだけ言葉を選んだ。
「……一つ、聞いてもいいですか。
指輪って、どんなのがいいんでしょうか」
静寂。
相馬は一瞬だけ目を細め、そして小さく笑った。
「早いですね」
朝倉は少しだけ苦笑した。
「そうですね」
相馬は椅子に少しもたれた。
「奥さんは、シンプルなのがいいって言ってました」
朝倉は静かに聞いていた。
相馬は続けた。
「高いものじゃなくていい。毎日つけられるものがいい。
それが一番です」
少しの間を置いて、相馬の声の調子が少し変わった。
「朝倉君、迷うなら一緒に見に行けばいい。本人が気に入るのが一番だから」
敬語ではない。
「うちもなかなか決まらなくて、気づいたら店員に『閉店です』って言われたよ。」
朝倉は思わず笑った。
相馬も少しだけ笑う。
そのまま何事もなかったように、相馬はキーボードに手を戻した。
会話は終わった。
でも朝倉の胸の中には、小さな感覚が残っていた。
結婚、家庭、生活。
それらは遠いものではなく、現実として続いていくものだ。
夕方の病室。
患者がゆっくり立ち上がり、妻が横で見守っている。
二人の距離、自然な呼吸、長い時間。
朝倉は静かに思った。
治すのではなく、守るのだ。
その言葉が、ようやく自分の中で形になり始めていた。
夜。
自宅。
朝倉はソファに座っていた。
今日の患者は少しだけ、でも確かに進んだ。
朝倉はゆっくり息を吐いた。
治せないことはある。
でも、守れることはある。
その違いが、ようやく分かり始めていた。
窓の外、冬の夜。
朝倉は静かに立ち上がった。
明日も仕事がある。
そして、生活も続いていく。
仕事、生活。
続きながら、前に進む。
前からの引き継ぎ、後ろへの引継ぎ。
