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列の途中 第4話 子ども扱いするな ――情報量と敬意と

午後の病棟は、午前より少し空気が重い。

昼食後の眠気と、点滴交換の慌ただしさと、コールの増える時間帯が重なるせいかもしれない。

ナースステーション前を通った時、看護師の山口が小声で言った。

「305の森口さん、また少し混乱強いです」

その名前に、朝倉は足を止めた。

今日の新規ではない。

午前中に一度カルテだけ確認していた患者だった。

森口キヨ、87歳。肺炎加療中。認知症あり。夜間不穏。

起居動作や離床の可否を見てほしいという依頼が、主治医からリハ室に入っていた。

朝倉はカルテ画面を思い出す。

元々軽度の認知機能低下があり、入院後に環境変化で混乱増悪。

食事や服薬にもムラ。

夜間のコール頻回。

「ここはどこ」「家に帰る」と繰り返している。

相馬が横を通りかかった。

「森口さんのところ、行ってきます」

相馬は少しだけ朝倉を見た。

「ひとりで行ってみますか、朝倉くん」

「……はい。まず自分で入ってみます」

相馬は静かにうなずいた。

「わかりました。無理そうなら呼んでください」

それだけ言って、別の病室へ向かった。

朝倉は305号室の前で立ち止まった。

以前の失敗を思い出す。

長くしない。

説明しすぎない。

まずは安心させる。

頭では分かっている。

でも、認知症や混乱がある患者に、どこまで言葉を崩していいのかはまだ自信がなかった。

ノックをして、カーテンを開ける。

「こんにちは」

ベッド上の女性が、びくっと肩を震わせた。

白髪の細い髪、痩せた肩、布団を握る指先。

目は開いているが、焦点が定まりきっていない。

「誰……?」

朝倉はベッドサイドに近づいた。

「理学療法士の朝倉です。先生に言われて、お体の様子を見に来ました」

女性の表情がこわばる。

「先生……? いや、私は帰るんです。ここにいたら怒られる」

声に怯えが混じっていた。

朝倉は少しかがみ込んだ。

「大丈夫です。ここは病院で、お体を治すために——」

言い終わる前に、森口さんは首を振った。

「病院じゃない、こんなとこ知らない。あんた誰、何しに来たの」

声が少し大きくなる。

朝倉はとっさに続けた。

「今、肺炎の治療で入院されていて、点滴も入っています。今日は離床の評価を——」

森口さんの呼吸が明らかに速くなった。

「わからない、わからない、もういい、帰る!」

布団をどけようとする。

点滴ラインが引っ張られ、朝倉は慌てて手を添えた。

「危ないので、少し待ってください」

その言葉すら、もう相手に届いていない感じがした。

そこへ、廊下を通りかかった山口がカーテン越しに顔を出した。

「森口さーん、大丈夫ですよー、いい子にしてましょうねー」

その声に、朝倉は一瞬だけ違和感を覚えた。

森口さんは泣きそうな顔で看護師を見たが、落ち着いたというより、ただ黙っただけに見えた。

山口は朝倉に小声で言う。

「この人、こういう感じで。あんまり理屈で説明しても無理です」

「……はい」

山口が去ったあと、朝倉はベッドサイドに立ち尽くした。

理屈で説明しても無理。

たしかにそうなのかもしれない。

でも、さっきの「いい子にしてましょうね」にも、何か引っかかる。

森口さんは視線をそらしたまま、小さく言った。

「帰りたい……」

朝倉は結局、それ以上踏み込めなかった。

「今日は無理しません。また来ます」

そう言って病室を出たが、何もできなかった感じだけが強く残った。

ナースステーション脇の流し台で手を洗っていると、相馬が戻ってきた。

「どうでしたか」

朝倉は少し言葉を選んだ。

「混乱が強くて……余計に不安にさせた気がします」

相馬は手短に聞いた。

「病院だと説明しましたか」

「はい」

「肺炎だということも」

「はい」

「大人として、敬語で」

「はい」

相馬は小さく息を吐いた。

「少し早かったかもしれませんね」

朝倉は顔を上げる。

「早かった、ですか」

「その方にとって、いま一番困っているのは、肺炎ではないんです」

相馬は壁にもたれた。

「ここがどこかわからない。知らない人が来た。怖い。まずはそこです」

朝倉は黙る。

「そこに病院です、肺炎です、点滴です、評価です、と情報を足していくと、余計につらくなることがあります」

「でも、説明しないと失礼かと……」

相馬はそこで、いつもより少し長く朝倉を見た。

「朝倉くん」

「はい」

「混乱している方に必要なのは、正確な説明より先に、安心なんです」

言い切る声だった。

「しかも、相手は子どもではありません」

相馬は続けた。

「ここは大事なので、よく覚えておいてほしいんです」

朝倉は思わず姿勢を正した。

「混乱していても、大人です。人生があって、家族があって、ここまでずっと生きてきた人です」

相馬は珍しく、あまり言葉を切らずに話していた。

「なのに現場では、すぐに子ども扱いが始まってしまうことがある。『いい子にしてましょうね』とか、『だめですよー』とか」

少し間を置く。

「ああいう関わり方で落ち着く方がいるのも事実です。だから、全部を否定するつもりはありません」

それから静かに続けた。

「ただ、私はあまり好みません」

朝倉は、その言い方が少し意外だった。

理屈だけではなく、はっきり「好みません」と言ったからだ。

「たとえ理解が追いついていなくても、その人は大人です。大人としての扱いを雑にすると、閉じてしまうことがあります」

相馬は腕を組んだ。

「ただし、情報量は減らします」

「……短く、ですか」

「そうです。短く、温かく」

朝倉はその言葉を繰り返した。

短く、温かく。

相馬は病室の方を軽く示した。

「一度、見ていてください」

305号室。

相馬はノックして、静かにカーテンを開けた。

「こんにちは」

朝倉がさっき聞いたのと同じ挨拶なのに、少しだけ温度が違って聞こえた。

森口さんがびくっとして相馬を見る。

相馬はベッドから少し離れた位置で立ち止まり、すぐには近づかなかった。

「様子を見に来たよ」

それだけ言う。

森口さんは不安そうな目で見返す。

「……帰らないと」

相馬はすぐに否定しなかった。

「そうだよね」

声は低く、落ち着いていた。

「びっくりするよね」

森口さんの表情が少しだけ緩む。

「そう……ここ、嫌だよ」

「そうだよね」

相馬はゆっくり一歩だけ近づいた。

「苦しかったり、痛かったりはしない?」

森口さんは少し考えてから、言った。

「それは大丈夫」

「そっか。よかった。」

相馬はうなずく。

「寝ててもなんだし、ちょっと起きてみない?」

森口さんは数秒黙っていたが、やがて小さくうなずいた。

朝倉は息を呑んだ。

さっき自分があれだけ説明しても入れなかったのに、

相馬は敬語も使わず、ほとんど説明らしい説明をしていない。

でも、雑ではない。

むしろ、必要なことだけがまっすぐ届いている感じがした。

端坐位までは軽介助。

座位では呼吸苦の変化を見ながら短時間のみ。

相馬はずっと短い声かけだけを続けた。

「大丈夫」

「大変だったし、ゆっくりで大丈夫」

「ここを持って」

「はい、それで大丈夫」

評価が終わって再びベッドへ戻すと、森口さんは少し疲れた顔で、それでもさっきほどの怯えはなかった。

「ありがとう」

その言葉を、朝倉ははっきり聞いた。

病室を出たあと、相馬はすぐ歩き出さず、廊下の端で立ち止まった。

「どうでしたか。少しわかりましたか」

朝倉は正直に答えた。

「……半分くらいです」

相馬は珍しく小さく笑った。

「十分だと思います」

それから、自分の言葉を探すように少しだけ天井を見た。

「子供扱いも避けたい。しかし、正しい敬語もまた、『見知らぬ他人が来た』という警戒心を強める壁になることもあります。」

朝倉は少し考えた。では、どうすればいいのか。タメ口と敬語の間に、正解はあるのか。

相馬は続けた。

「大人同士でも、関係性によって親しい言葉を使うことはあります。大事なのは、そこにある『大人としての距離感』を壊さないことです。」

その言葉が、きれいに入ってきた。

敬語が壁になるときもある。でも、敬意は残す。

相馬はさらに続けた。

「病院です、肺炎です、入院です、というのは、こちらにとっての事実です。でも、相手はいま、その事実を処理できる状態ではないかもしれない」

「はい」

「だったら、先に感情に合わせるんです。怖いよね、嫌だよね、びっくりしてるんだよね、というふうに」

相馬は指を折っていく。

「そのあとで、必要最低限だけ動作につなぐ。少し座れるか見たい。きつかったらやめる。そういう順番です」

夕方、森口さんの娘が病室に来たタイミングで、朝倉は思い切って声をかけた。

「少しお時間よろしいでしょうか」

娘は少し緊張した顔でうなずく。

朝倉はなるべく簡潔に話した。

「お母さま、環境が急に変わって混乱が強くなっています。丁寧な説明を長くすると、かえって情報量が多くなってしまい、不安が強まることがあります」

娘は真剣に聞いていた。

「……頭ではわかっているんです。でも、母があんな風になってしまって、周りからもそう扱われているのを見ると、少し悲しくて……」

「お母様がこれまで生きてこられた人生に、私たちは敬意を持っています。だからこそ、こちらではあえて短くてわかりやすい言葉を選び、安心感を優先して関わることがあります。失礼を意図したものではなく、状態に合わせた対応です」

娘は少し黙ってから、ホッとした様に言った。

「そういう理由があるなら、安心しました。さっき少しくだけた感じで話してくださっていたので、むしろ母もその方が落ち着いて見えました」

朝倉は胸の中で小さく息を吐いた。

病室を出ると、相馬が廊下の角からこちらを見ていた。

「お話しできましたか」

「……はい。何とか」

「それで十分だと思います」

朝倉はその言葉に、前回までとは違う重みを感じた。

短くする。

でも雑にしない。

敬意は残す。

家族には意図を説明する。

抱えなくていい線も知る。

今日覚えたことは、たぶんどれも派手ではない。

でも、こういうものが積み重なって、目の前の患者と関われるようになるのだと思った。

削るのは情報量で、敬意じゃない。


――その時の朝倉はまだ、知らなかった。

臨床には、短い言葉で届く場面もあれば、どれだけ言葉を尽くしても届かない場面もある。

それでも、相手を一人の大人として見続けること。

その意味を、朝倉はこれから少しずつ知っていく。


次回、第5話「横になっていれば、満点」

ベッドの上では動けると思った。

立った瞬間、全部が崩れた。

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