列の途中 第5話 横になってれば満点―筋トレの理由
大腿骨転子部骨折――太ももの付け根あたりの骨折――。
実習の時にも、担当したことがある。
脱臼のリスクもない。
やることは、だいたい決まっている。
筋力をつけて、立って、歩けるようにする。
少なくとも、最初の頃の朝倉は、そう考えていた。
患者は、川村ヨシ、78歳。
転倒による大腿骨転子部骨折。
骨接合術後、五日目。
朝倉は、ベッドサイドで熱心にリハビリを行っていた。
「はい、川村さん。横向きで、足を上に開いてください」
「よいしょ……こうかい」
「そうです。いいですね。筋力、しっかりついてきてますよ」
カルテには、丁寧に評価を記載した。
お尻や太もも周りの筋力テストは、十分な点数だった。
重力に逆らって、しっかり足を保持できている。
仰向けの状態で、膝を伸ばしたまま足を持ち上げる動きも問題ない。
筋肉は動いている。
力もある。
これなら、今日から平行棒での歩行練習もスムーズに進むはずだ。
朝倉は自信を持って言った。
「じゃあ、立って歩いてみましょうか」
川村は少し不安そうだったが、朝倉に支えられて平行棒の中に立った。
「右足に体重を乗せて、左足を出します」
川村が、手術した右足にぐっと体重をかけた。
その瞬間。
「痛っ!」
川村の顔が歪み、腰が大きく引けた。
右の骨盤が外側にガクッと逃げ、体全体が平行棒に崩れかかる。
朝倉は慌てて支えた。
「大丈夫ですか。傷口が痛みますか?」
川村は顔をしかめたまま、足の付け根の前側をさすった。
「傷口じゃないんだよ。ここ。この前の方が、足をつくとズキッとするんだ」
朝倉は混乱した。
傷口は外側だ。前が痛む理由が分からない。
それに、なんだ今の崩れ方は。
お尻の筋力は十分にあったはずだ。ベッドの上では、あんなにしっかり足を上げていたのに。
「もう一回、ゆっくり体重をかけてみましょうか」
「……怖いよ。また痛くなりそうで」
川村の足は、床から数ミリ浮いたまま、もう降りようとしなかった。
朝倉はどうしていいか分からず、立ち尽くした。
「少し、代わります」
背後から声がした。
相馬だった。
いつから見ていたのか分からないが、静かに平行棒の横に入ってくる。
相馬は、川村の姿勢を崩さないように支えながら、痛みを訴えた足の付け根に軽く触れた。
「川村さん、痛いのはこのあたりですね」
「そう、そこが突っ張るみたいに痛いんだ」
相馬は朝倉をちらりと見た。
「朝倉くん」
「はい」
「筋肉の滑りが悪いんです」
相馬は川村の痛む場所に、優しく、しかし的確な圧をかけた。
「川村さん、私がここを押さえておきます。痛くない範囲で、少しだけ膝を曲げ伸ばししてみてください」
川村が恐る恐る動かす。
「……あれ? 痛くない」
数回繰り返した後、相馬は手を離した。
痛みの訴えは、消えていた。
朝倉は思わず聞いた。
「相馬さん、今、何をしたんですか。ただ揉んだわけじゃ……」
相馬は静かに答えた。
「滑りやすくしたんです」
「滑り……?」
「筋肉には、柔らかさや強さの他に『滑りやすさ』も必要です」
相馬は分かりやすく言葉を選んだ。
「手術のあと、筋肉と周りの組織がくっついてしまうことがあります。すると、動いた時に筋肉がスムーズに逃げられず、挟まって痛みが出る。押さえながら動かしてもらうことで、癒着をはがして滑りを良くしたんです」
朝倉は息を呑んだ。
可動域。柔軟性。
それだけではない。「滑る」という視点が完全に抜けていた。
「よし。次は歩きましょう」
相馬は、川村の手術した側の骨盤に手を回した。
「朝倉くん。ベッドの上と、体重がかかった状態は、違います」
相馬の手が、川村の股関節の外側を包み込むようにホールドする。
骨盤を内に押し当てるように、ぐっと圧をかけた。
「川村さん。私が外側からしっかり支えます。ゆっくり体重を乗せてみてください」
「……はい」
川村が右足に体重を乗せる。
さっきのように、外側にガクッと崩れることはなかった。
朝倉は驚いて聞いた。
「どうして崩れないんですか」
相馬は前を見たまま答えた。
「お尻の横にある筋肉の役割が、寝ている時と立っている時で違うからです」
相馬が、自分の手で支えている部分を軽く示す。
「寝ている時は『足を上げる』筋肉ですが、歩く時は『体重を支えて骨盤を水平に保つ』筋肉になります。力があっても、その使い方を身体が忘れていれば崩れます」
少し間。
「だから今、私が手で筋肉の代わりをして、支えられるという安心感を先に覚えさせているんです」
川村は驚いた顔で前を見た。
「あ……踏ん張れる。さっきみたいに怖くない」
「今、しっかり支えられていますね。その感覚で、左足を出しましょう」
一歩。
また一歩。
川村は、さっきまでの怯えが嘘のように、安定したリズムで歩き始めた。
相馬が、介助の手を少しずつ緩めていく。
川村の足は、もう崩れなかった。
自分で支える感覚を、身体が思い出し始めていた。
「……すごいです」
朝倉が思わずつぶやくと、相馬は歩行介助を続けながら、短く言った。
「筋力だけ戻っても、歩けません」
少し間。
「滑るか。体重を支えられるか。それも必要です」
その言葉が、朝倉の胸にすとんと落ちた。
筋肉の数字だけじゃない。
骨。関節。皮膚。滑走。そして、重力の中での連動。
ベッドの上の満点は、床の上では赤点になることもある。
理学療法士が見るべきものは、自分が思っていたより、はるかに立体的で複雑だった。
廊下に出たところで、朝倉が言った。
「学校では、こういうこと……習わなかったと思います」
相馬は少し考えてから、答えた。
「習わないというより、教えにくいんでしょうね」
少し間。
「滑走性は、数字で出ない。ベッドの上で測れない。だから、カリキュラムに入れようとすると、どこに置くかが難しい」
「じゃあ、どこで覚えるんですか」
「現場です」
相馬は、それだけ言った。
「患者さんが教えてくれます。動かない、痛い、怖い——その声を、ちゃんと聞いていれば」
少し間。
「朝倉くん。さっき川村さんが『前が痛い』と言った時、あなたはちゃんと聞いていた」
「でも、分からなかったです」
「分からなくていい。最初は」
相馬は歩きながら言った。
「聞けることと、分かることは、別のことです。聞けることの方が、先に必要です」
その日の夕方。
朝倉はカルテを開き、記載する内容を変えた。
筋力テストの数字だけでなく、体重をかけた時の骨盤の反応、足の付け根の滑りやすさの評価を書き加える。
痛みのない軌道を探ること。
自分の手で、安心という安定を作ること。
簡単な仕事ではない。
でも。
この仕事の本当の面白さに、少しだけ触れた気がした。
この時の朝倉は、まだ知らなかった。
歩けるようになることが、
必ずしも「元の生活に戻れる」ことではないという現実を。
数値は問題なかった。手順も踏んでいた。
それでも、起きた。
