列の途中 第2話 疲れるんだよ、あんたの話し方―丁寧に話しただけなのに
朝倉恒一は、朝のカンファレンスが終わったあと、廊下を歩いていた。
今日から担当する、自分の患者情報の書いたメモに目を落とした。
金沢トシエ、83歳——
大腿骨頸部骨折――股関節近くの骨折、術後2日目。
脳卒中のような重い麻痺ではない。
術後早期で痛みはあるだろうが、状態としては比較的分かりやすい。
離床、痛みの確認、起き上がり、起立の可否。
やるべきことは整理しやすい。
今日はちゃんと入れるはずだ。
そんな感覚が少しあった。
病棟へ向かう途中、朝倉は頭の中で初回の挨拶を繰り返していた。
本日担当させていただきます。
主治医の先生の指示で状態を確認に参りました。
お痛みの具合はいかがでしょうか。
丁寧に。感じよく。失礼なく。
病室前に立つと、朝倉は軽く息を吐いてノックした。
「失礼します」
カーテンを開ける。
ベッド上には、小柄な高齢女性がいた。
上半身は少し起きている。顔つきはしっかりしていて、目もよく動く。
テレビはついていたが、朝倉が入ると消音にされた。
「本日より担当させていただきます、理学療法士の朝倉と申します」
女性は少し眉を寄せた。
朝倉は続ける。
「主治医の先生より、術後の状態確認と、離床の可否について評価を行うよう指示を受けて参りました。少しお身体の様子を拝見してもよろしいでしょうか」
女性は黙ったまま、朝倉を見た。
反応が薄い。
聞き取れていないのか、警戒しているのか、判断がつかない。
朝倉は少し声量を上げた。
「お痛みの程度はいかがでしょうか。安静時痛と、動作時痛について確認させていただければと」
女性の眉間のしわが深くなった。
「……あんた」
「はい」
「何言ってるか、まどろっこしいんだよ」
朝倉は一瞬固まった。
女性は続ける。
「痛いかって聞きたいなら、そう言えばいいだろ」
病室の空気がすっと冷える感じがした。
「申し訳ありません。では、痛みはありますか」
言い直すと、女性は少しだけ鼻を鳴らした。
「あるよ。そりゃ切ってるんだから」
「そうですよね……失礼しました」
朝倉は椅子を引いてベッドサイドに近づいた。
「では、少しお身体を起こしたり、足の動きを見たりしてもよろしいでしょうか」
女性は明らかに面倒そうな顔をした。
「また長い」
朝倉の胸の奥がじわっと熱くなる。
焦りと、恥ずかしさと、どう立て直せばいいか分からない感覚が一気に来た。
「……少し動けるか見せてもらっていいですか」
やっと短く言い直したが、もう遅かった。
女性は視線をテレビに戻し、はっきりと言った。
「疲れるんだよ、あんたの話し方」
「今日はいい。帰って」
朝倉は言葉を失った。
拒否。
実習中にも見たことはあった。
だが、自分が真正面から受けると、こんなにも身体が硬くなるのかと思った。
「……分かりました。無理にはしません。また様子を見て伺います」
それだけ何とか言って病室を出た。
カーテンを閉めたあと、廊下の空気がやけに冷たく感じた。
記録室に戻ると、誰も朝倉に何も聞かなかった。
みんな忙しい。
誰か一人の初回がうまくいかなかったことくらいで、病棟は止まらない。
それが逆につらかった。
朝倉はパソコンを開いたまま、数分ほとんど何も打てなかった。
丁寧に話しただけなのに。
失礼のないようにしただけなのに。
何が悪かったんだ。
そう思う一方で、患者の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
疲れるんだよ、あんたの話し方。
「朝倉くん」
落ち着いた声がして、朝倉は顔を上げた。
相馬が給湯室から紙コップを持って戻ってきたところだった。
「……はい」
「拒否されましたか」
「はい」
相馬は朝倉の向かいに座った。
「どのように入ったのか、教えてもらってもいいかな」
朝倉は、なるべく正確に再現した。
本日より担当させていただきます、理学療法士の朝倉と申します。
主治医の指示で状態確認と離床可否の評価を──
相馬は途中で静かにうなずいた。
「少し長かったかもしれませんね」
その一言が、胸に刺さった。
「でも、失礼がないようにと思って」
「失礼ではなかったと思います」
相馬は穏やかに言った。
「ただ、入れてはいなかったのかもしれない」
朝倉は黙る。
相馬は紙コップを机に置いた。
「新人の頃は、皆さん一度は通るところだと思います」
「……はい」
「丁寧にしようとすると、どうしても情報量が多くなりやすいんです」
朝倉は思わず言い返しそうになった。
情報が多い方が親切ではないか。
ちゃんと説明する方が誠実ではないか。
その表情が出ていたのか、相馬は少しだけ先回りするように言った。
「正しい言葉と、届く言葉は、必ずしも同じではないんです」
朝倉は何も言えなかった。
「初回の患者さんは、内容より先に警戒していることが多いです」
「警戒……」
「誰だろう。何をしに来たのだろう。痛いことをされるのではないか。どれくらい時間がかかるのだろう。そういうことで頭がいっぱいになっていることが少なくありません」
相馬は淡々と続けた。
「そこに、長くて硬い説明が来ると、それだけで疲れてしまうんです」
「……」
「礼儀はもちろん大事です」
少し間。
「ただ、最初の5分は、礼儀そのものより、安心してもらうことの方が優先される場合が多いと思っています」
その言葉を、朝倉はゆっくり飲み込んだ。
最初の5分。
介入時間20分のうちの、たった5分。
でも確かに、あの数分で全部崩れた。
「では、どう言えばいいのでしょうか」
相馬は少しだけ考えてから答えた。
「短くで十分です」
「短く……」
「こんにちは。先生に言われて、様子を見に来ました。痛くないですか」
相馬は区切るように言った。
「まずはこれでいいと思います」
「……それだけですか」
「最初は、それで十分なことが多いです」
朝倉は思わず苦笑した。
自分が頭の中で組み立てていた挨拶文が、急にひどく重たく見えた。
相馬は立ち上がる。
「このあと新規の患者さんに入るので、もしよければ一緒に見ますか」
「え?」
「実際に見た方が、たぶん分かりやすいと思うので」
病室は、午前中の金沢さんの部屋とは反対側の端だった。
中にいたのは、七十代後半くらいの男性。
肺炎で入院中とカルテに書いてあった。痩せていて、少し不機嫌そうな顔をしている。
朝倉は相馬の半歩後ろに立った。
相馬はノックして、カーテンを開けると、迷いなく病室に入った。
「こんにちは」
声は大きすぎず、でもよく通った。
「先生に様子を見てきてほしいと言われて来ました。リハビリの相馬です」
男性はちらっと相馬を見る。
相馬は続ける。
「しんどくないですか」
たったそれだけだった。
男性は一拍おいてから言った。
「……しんどいよ」
「そうですよね」
相馬はすぐ椅子を引いて、ベッドの高さに目線を近づけた。
「今日は無理しません。少し座れそうなら見せてもらいたいです。きつそうなら、すぐやめます」
男性は少しだけ表情を緩めた。
「少しなら」
相馬はうなずく。
「ありがとうございます」
短い。
でも、雑ではない。
むしろ朝倉がさっきやった長い説明より、相手の気持ちに直接触れている感じがあった。
評価はスムーズだった。
呼吸状態を見て、起き上がりに少し介助が必要か確認し、無理のない範囲で端坐位まで。
患者が眉をしかめれば、すぐに止める。
必要な説明はしているのに、どれも短い。
病室を出たあと、朝倉は思わず言った。
「……全然違いました」
相馬は歩きながら、穏やかに返した。
「何が違って見えましたか」
「患者さんの反応が」
「そうですね」
相馬は少しだけ笑った。
「簡単に見えたかもしれませんが、簡単にしているんです」
廊下の窓から昼の光が差していた。
「初回で詰め込みすぎないことは、やはり大事だと思います」
朝倉は黙って聞いていた。
「一回で全部分かろうとしなくていいんです。次に繋がれば、それで十分なことも多いですから」
その言葉で、朝倉は午前中の自分を思い出した。
痛み、離床可否、評価、関係づくり、失礼のなさ。
全部一度でやろうとして、全部中途半端になった。
「最初に必要なのは、評価そのものではないのかもしれません」
相馬が言う。
「入っていい人間だと思ってもらうことです」
午後、朝倉はもう一度、金沢トシエの病室の前に立っていた。
正直、胃が痛かった。
もう拒否されたくなかった。
でも、このまま終わらせる方がもっと嫌だった。
ノックをする。
「失礼します」
カーテンを開けると、金沢さんはまたテレビを見ていた。
こちらに気づくと、少しだけ顔をしかめる。
朝倉は、頭の中で用意していた文章を捨てた。
「こんにちは。朝、来た朝倉です」
金沢さんは黙っている。
「先生に、様子を見てきてって言われて来ました」
少し間を置く。
「痛いですよね」
金沢さんが、ふっと朝倉を見た。
「……痛いよ」
「ですよね」
朝倉は一歩だけ近づいた。
「今日は無理しません。少し座れそうなら見せてもらいたいです。きつかったら、すぐやめます」
金沢さんはしばらく朝倉の顔を見ていた。
午前より警戒は薄いが、まだ完全には解けていない。
「……長くないならいいよ」
朝倉は思わず笑いそうになったのをこらえた。
「長くしません」
「ほんとかね」
「ほんとです」
金沢さんは小さく鼻を鳴らした。
「じゃあ少しだけ」
それだけで、午前よりずっと大きな前進だった。
痛みの確認をしながらゆっくり端坐位へ。
表情の変化を見て、無理そうならすぐ戻す。
介入そのものはほんの数分だったが、午前の失敗を思えば十分すぎる成果だった。
病室を出たあと、朝倉はナースステーション脇の壁にもたれて、ゆっくり息を吐いた。
たった数分。
たった数語。
それだけで、空気が変わる。
記録室に戻ると、相馬がカルテ入力をしていた。
朝倉が席に着くと、相馬は画面を見たまま言った。
「入れましたか」
「……少しだけ」
「それで十分だと思います」
朝倉はパソコンを立ち上げながら言った。
「丁寧って、難しいですね」
相馬は少しだけキーボードを打つ手を止めた。
「丁寧さは、形ではないんです」
それだけ言って、また入力に戻る。
朝倉はその言葉を頭の中で繰り返した。
形じゃない。
長い敬語でも、きれいな説明でもなく、
相手が受け取れる形にすること。
それが本当の意味での丁寧さなのかもしれない。
画面の介入記録欄に、朝倉はいつもより短い言葉で記録を打ち始めた。
初回介入。短時間接触。疼痛に配慮し端坐位評価実施。拒否感軽減あり。次回介入へ繋げる。
最後の一文を書いたところで、朝倉は少しだけ手を止めた。
次回介入へ繋げる。
午前中の自分なら、そんな書き方を“評価不足の言い訳”みたいに感じていたかもしれない。
でも今は違った。
次に繋ぐこと。
それ自体が、今日はちゃんとやれたことなのだと、少しだけ思えた。
相手に伝わるようにして渡す。
しかし――
「名前、覚えましたか」
別の位置からは、朝倉もまた、渡される側だった。
