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列の途中 第13話 誰かの地図 ――どちらに向かうか

四月も半ばを過ぎた頃。

朝倉は自分が何度目かの相談をしていることに気づいた。

「相馬さん、すみません。この患者さんなんですが」

「はい」

「立位で血圧が少し下がっていて、離床を進めていいか迷っていて」

相馬はマウスを止め、椅子を少し回してカルテをのぞき込んだ。

いくつか確認し、短く答えを返す。

朝倉はうなずいて席に戻った。

三日前も聞いた。

一昨日も聞いた。

昨日も聞いた。

答えはいつも的確で、朝倉はそのたびに動けた。

でも、次の日になるとまた同じように迷う。

そしてまた、相馬のところへ向かっていた。


五月に入って、新しい担当患者がついた。

村上、六十七歳。脳梗塞後、左片麻痺。

発症から二週間が経っていた。

身体機能の回復は順調で、歩行練習まで進んでいた。

問題は、車いすに乗る時に起きた。

村上は、体重を右側に強く傾けたまま動こうとしなかった。

朝倉が左へ誘導しようとすると、右腕と右足で床や柵を強く押す。

さらに右へ傾こうとする。

力で戻そうとすると、余計に押し返してくる。

「村上さん、もう少し左に重心を移しましょう」

「こっちだろ」

村上は真顔でそう言った。

傾いているのに、本人には傾いているという感覚がない。

垂直に戻そうとするこちらの動きを、倒されそうな脅威と感じているようだった。

朝倉は汗をかきながら支え続けた。

でも村上の姿勢は変わらない。

十分、二十分と時間が過ぎた。 その日の介入は何も変わらないまま終わった。

病室を出たあと、廊下の壁に少しもたれた。

何をやっているんだ、という感覚だけが残った。


記録室に戻ると、相馬がいた。

朝倉は少し迷った。 また聞くのか、という気持ちが一瞬あった。

でも結局、歩み寄った。

「相馬さん。村上さんのことなんですが」

「はい」

「立位で右に傾いたまま、左に戻せなくて。誘導しようとすると、余計に押し返してきて」

相馬は少し考えてから聞いた。

「何をしようとしていましたか」

「真っすぐ立ってもらおうとしていました」

「村上さんにとって、それはどういう感覚だと思いますか」

朝倉は黙った。

相馬は続けた。

「その方は今、傾いた状態が真っすぐだと感じています。そこへ外から力を加えて戻そうとすると、倒されると感じるんです」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

「力で戻すことをやめます」

相馬は静かに言った。

「脳が誤った垂直を信じているなら、正しい垂直を体に経験させるしかない」

「押すのではなく、患者さん自身が動きたくなる状況を作るんです」

翌日の午後、相馬と一緒に病室へ入った。

相馬は村上の前に椅子を置き、輪投げの輪を数個テーブルに並べた。

「村上さん、これを棒に通してもらえますか」

村上は少し怪訝な顔をしたが、棒に手を伸ばした。

その瞬間、体が自然に前へ、そして少しだけ左へ動いた。

輪を取りに行くという目的が、垂直への意識を一時的に消した。

朝倉は息を止めて見ていた。

「そうです、上手いですね」

相馬は言った。

村上はもう一度、輪に手を伸ばした。

また、少し左へ動く。

押し返すことがない。

傾きへの恐怖が、目的に向かう意識に置き換えられていた。


数分後、病室を出た。

「力を使わなかったですね」と朝倉は言った。

相馬はうなずいた。

「力で戻せるのは、その瞬間だけです」

「患者さんの脳が変わらなければ、また同じことが起きます」

少し間があった。

「朝倉くんがやろうとしていたことは間違っていません。でも、何と戦っていたかが少しずれていた」

朝倉は黙って聞いた。

「筋力や関節の問題。それ以外に、脳の中の誤った地図と戦わなければならない時がある」

「その時に、力は使えません」

記録室に戻って、朝倉はしばらくパソコンの前で動かなかった。

今日で何度目だろう。

相馬に聞いて、答えをもらって、動けた。

それ自体は悪くない。

でも今日、朝倉は初めて気づいたことがあった。

相馬の答えは毎回的確だった。

でも、なぜそうなのかを自分の言葉で説明できたことが、一度もなかった。

頼ることと、学ぶことは、違うのかもしれない。


その日の夕方。

主任の野口が記録室に入ってきた。

コーヒーを飲みながら、周囲を見回す。

そして朝倉の隣に来て声をかけた。

「どうだ、二年目」

「相変わらずです」

野口は軽く笑った。

「そんなもんだ」

少し間を置いてから、視線を前に向けたまま続けた。

「相馬に、よく聞いてるな」

朝倉の手が止まった。

「……はい」

「悪いことじゃない」

と野口は言った。

「でもな」

ゆっくりと言葉を続ける。

「頼られる方も、大変なんだよ」

朝倉は何も言えなかった。

野口は立ち上がり、軽く肩をたたいた。

「急に変わらなくていい。続けてれば、そのうち分かる」

それだけ言って、別の机へ歩いていった。

朝倉はしばらく、キーボードに手を置いたまま動かなかった。

頼りすぎている。 頭の中で、その言葉が静かに残った。

これまで、前に進んできたと思っていた。

しかし、ずっと、誰かの地図を借りて歩いていたのかもしれない。


その夜、スマートフォンが震えた。

大学の同期グループの通知だった。

【金曜、久しぶりに集まらない?】

ムードメーカーの田中が声をかける。

田中は大学時代から成績も良く、要領が良かった。

今は隣の回復期病棟で、最先端の研究にも関わっていると聞く。

何人かがすぐに返信している。

『行く行く!』

『最近きついから愚痴らせて』

朝倉は少し迷った。

疲れている。仕事もある。

それに、今の自分に田中のような輝かしい話ができる気がしなかった。

それでも、【行くわ】と短く打って送信した。

二年目。

まだ何もできていない。

でも、逃げずにここにいる。

そしてどうやら、ただ答えをもらうだけではいけないらしい。


次回、第14話  距離

新人ではない。

でもまだ、地図を借りている。

貸す側、借りる側の距離はいかほどか。


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