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列の途中 第9話 任せる、ということ――膝ロックの解除の先

翌日。

朝倉は、いつもより少し早くリハ室に入った。

昨日の言葉が、頭から離れなかった。

「いつまでロックしておきますか」

答えはまだ出ていない。だが、避けて通れないことだけは分かっていた。

その日の歩行練習。

いつも通り、長下肢装具を装着する。

金属支柱。膝継手。ベルト固定。

最後に、膝のロック。

朝倉の手が、そこで止まった。

患者が気づいた。

「……どうしました?」

朝倉は少し考えてから言った。

「今日は、少しだけ動きを試してみたいと思っています」

患者は、静かにうなずいた。

「怖いですか?」

朝倉は正直に答えた。

「少し、怖いです」

患者は小さく笑った。

「私もです」


その時だった。背後から声がした。

「一緒に見ますよ」

相馬だった。

少し離れた位置に立っていた。

だが、何かあればすぐに手が届く距離だった。

朝倉は、ほんの少し肩の力が抜けた。

「今日は、ロックを外してみようと思っています」

相馬は患者の姿勢を見て、足の位置を見て、それから言った。

「いいと思います。ただし、最初は崩れます」

朝倉は息を飲んだ。

「崩れることを前提に、立ち位置を決めましょう。支える準備ができていれば、崩れても問題ありません」

朝倉はうなずいた。

膝継手。ロック。外す。

カチッ。

外れる音だった。

患者を立たせる。最初は何も起きなかった。体重が乗る。体幹が揺れる。

膝は、かろうじて保たれている。

一歩。

その瞬間。

ガクッ。

膝が落ちた。身体が前に崩れる。

朝倉は反射的に骨盤を支えた。

止まった。

患者の呼吸が荒くなる。朝倉の心臓も速くなっていた。

相馬が静かに言った。

「大丈夫です。いまのは、正常な崩れ方です」

朝倉は、少しだけ息を吐いた。

「完全に抜けている崩れ方ではありません。支えようとしています」

朝倉は患者の膝を見た。

確かに。完全に力が抜けたわけではなかった。

一瞬、耐えようとしていた。

「もう一度、いきましょう」

患者は、静かにうなずいた。

二歩目。さっきより少し粘った。三歩目。ほんのわずか、膝が止まった。

その瞬間。

朝倉は、手を少しだけ遅らせた。

完全には支えない。だが、落ちる前には支える。

その距離を、初めて意識した。

短い距離だった。

だが確かに。

患者は、自分の膝で支えようとしていた。

歩行を終えたあと、患者は少し息を整えてから言った。

「さっきより……自分で立ってる感じがしました」

朝倉は何も言えなかった。ただ、うなずいた。

相馬が静かに言った。

「いまの感覚が大事です。最初は不安定になりますが、そこからしか始まりません」


それから数日後、別の変化が現れた。

歩き始めて数歩目。

患者の足が、以前より明らかに前に出にくかった。

足首が、どこかで引っかかっている感じがする。

朝倉は立ち止まった。

足関節の硬さか。それとも上で支えられないから下で固めているのか。

教わったはずだった。でも、目の前の足を見ながらいざ判断しようとすると、どちらでもあり、どちらでもない気がした。

とりあえず、足首を少し動かしてみる。硬い。

でも、完全に固まっているわけでもない。

股関節を少し意識させてみる。変わらない。

結局、その日は判断を保留して歩行を短めに切り上げた。

患者には「今日は少し疲れが出やすい日かもしれないので」と言った。

嘘ではなかった。でも全部でもなかった。


夕方、相馬が戻ってきたところで朝倉は声をかけた。

「今日、足関節の硬さが気になったんですが、足首そのものなのか、上の問題なのか、判断できなくて」

相馬は少し考えてから聞いた。「股関節を安定させた状態で、足首の硬さは変わりましたか」

「……試したんですが、あまり変わらなかったと思います」

「だとすると、末梢側の問題が強い可能性が高いですね。ただ、一回で決めなくていいです。次は体幹から整えてから見てみましょう」

それだけだった。

答えをもらった。でも、今回は少し違う感じがあった。

自分で見て、自分で判断しようとして、詰まった。だから質問になった。

前は、相馬の言葉をそのまま受け取っていた。今日は、自分の疑問を持って聞きに行った。

その差が、朝倉には少しだけ分かった。


ある日、歩行練習のあとに相馬が言った。

「少し、歩行以外も入れましょうか」

プラットフォームの上に患者を寝かせる。

朝倉は、装具歩行のことばかり考えていた自分に、その時初めて気づいた。

相馬は患者の両膝を立てながら言った。

「歩いているだけでは足りないことがあります。特に痙縮が出てきた時は、歩行の形だけ追うと、かえって代償が強くなることがあるので」

相馬はまず、ブリッジを見せた。

「非麻痺側ばかりで持ち上げないようにします。麻痺側も参加させたいので、ここを少し支えます」

麻痺側の下肢に軽く入力を入れ、骨盤が一気に逃げないように整える。

患者が腰を持ち上げる。

ぎこちないが、両側で踏ん張ろうとしているのが分かる。

「痙縮を"ただ硬い"で済ませない方がいいです。末梢そのものが硬くなっているのか、全身が不安定で中枢側の過敏性が出ているのかで、見方が変わります」

朝倉はその言葉を反芻した。

末梢の硬さか、中枢の過敏性か。

歩きにくい、固い、それだけでまとめていた自分に気づく。

それと、と続けながら相馬は次に寝返りを見せた。

「寝返りも、丸太みたいにゴロンと回すのではなくて、体幹の回旋を引き出したいんです」

肩甲帯と骨盤帯がずれるように、少しずつ誘導する。患者の身体がねじれる。寝返りの質が変わる。

「足先だけ見ていると、すぐ痙縮に引っ張られます。股関節や体幹から整えた方が、結果として足が出やすくなることも多いです」

そのあと、以前見せてもらった促通的なキッキングも入れた。

足底に手を当て、押し返す方向を感じさせる。

踏ん張る。押す。

わずかに伸展が入る。

歩行だけではなかった。

歩行の土台になる引き出しが、プラットフォームの上にいくつもあった。


ある日、朝倉が歩行の中で足関節の硬さを気にしていると、相馬が言った。

「そこも整理した方がいいですね。どこからの硬さなのか。」

その言葉で、朝倉は自分の視野がいかに狭かったかを思い知った。

歩行練習をしている。装具も使っている。距離も出ている。

だから進んでいるつもりだった。

でも実際には、ただ歩いているだけではダメだった。

歩行の前に整えること、歩行の中で抑える代償、歩行以外で作る土台。

それら全部が必要だった。


その頃から、家族がリハビリを見に来るようになった。

最初に来たのは、妻だった。小柄な女性で、丁寧に頭を下げた。

「いつもありがとうございます」

その日は、歩行練習を見てもらった。

装具をつける。立つ。歩く。

患者は、ゆっくりだが確実に前に進んだ。数歩。止まる。

妻の目に、涙が浮かんでいた。

「歩いてる……もう歩けないかと思っていました」

朝倉は言葉を選んだ。

「まだ練習の途中ですが、少しずつ力は出てきています」

妻は何度もうなずいた。

だが、そのあと静かに聞いた。

「家では……どうなりますか?」

朝倉は、一瞬答えに詰まった。

ここから先は、歩けるかどうかではなく、生活できるかどうかの話になる。


数日後、退院に向けたカンファレンスが開かれた。

医師、看護師、相馬、MSW、そして朝倉。

資料が机の上に並ぶ。

自宅の間取り、階段、トイレ、玄関の段差。

MSWが静かに説明した。

「訪問看護、訪問リハビリ、住宅改修を同時に進めます。手すりの設置と、寝室の一階移動を優先しましょう」

相馬が続けた。

「屋内歩行は短距離なら可能です。ただし、疲労時の膝折れリスクは残ります。夜間は特に注意が必要です」

事実だけが、淡々と並んでいく。

その時、朝倉は理解した。

退院は、歩けるから決まるものではない。

支えが組めたから決まる。


カンファレンスの数日後、相馬が朝倉に声をかけた。

「野口主任と話して、回復期でも担当を続けてもらえるよう調整しました」

朝倉は、すぐには意味が飲み込めなかった。

「新人のうちに、一人の患者さんを急性期から回復期まで通して見ておくのは悪くない」

相馬はそれだけ言った。

特別扱いのような言い方はしなかった。

でも、そうでないとも言わなかった。

朝倉は黙ってうなずいた。嬉しいより先に、重さの方が来た。

その後も、相馬と朝倉はぎりぎりまで練習を続けた。

歩行だけでなく、起き上がり、方向転換、トイレを想定した立ち座り。

痙縮が強くなる日は、あえて歩行量を落として、体幹や股関節まわりの調整に時間を使った。

だが、十分だとは思えなかった。

距離は出てきた。支持性も少しずつ出てきた。

それでも、家で本当に持つのかは分からない。

もっとできることがあったのではないか。

足の痙縮をもう少し整理できたのではないか。

ブリッジや回旋の質を、もっと上げられたのではないか。

そう思いながら、時間だけが過ぎていった。


そして、期限が来た。

退院の日。

患者は装具をつけ、病棟の廊下をゆっくり歩いていた。

以前より安定している。だが、まだ完全ではない。

玄関前で、患者が振り返った。

「ここまで来られたのは、みんなのおかげです」

妻が深く頭を下げた。

「本当にありがとうございました」

朝倉は何も言えなかった。ただ、小さく会釈した。

患者は続けた。

「最初は、ベッドから起きることも無理だと思っていました」

少し笑う。

「でも、歩くところまで来られた。十分です」

十分。

その言葉が、朝倉には少しだけ苦かった。

本当にそうだろうか。

もっとやれたのではないか。帰ってから転ばないだろうか。夜のトイレは大丈夫だろうか。痙縮がもっと強くなったらどうするのか。

感謝されるほど、心配が増えた。

その時、相馬が静かに言った。

「ここからが本番です」

短かった。だが、重かった。

患者は車に乗り込んだ。ドアが閉まる。車が、ゆっくり動き出す。

朝倉は、その後ろ姿を見送った。

——帰れた。なんとか。帰れた。

気がつくと、白衣の袖を、無意識に引っ張っていた。

そのまま朝倉は、しばらく動けなかった。


達成感ではなかった。不安でもなかった。

ただ、この人のことを、もう直接は確認できないという事実だけが、静かに残った。

先輩たちの支援で、必要なサービスもつながった。家にも戻れた。患者も、家族も、感謝していた。

歩けるようになった。それでも、生活がもつかは分からない。

ここから先は、自分の手は届かない。

訪問リハビリのスタッフに、家族に、そして何より患者本人に、この脆い身体を「任せる」しかないのだ。

それは、終わりではなかった。始まりだった。


次回、第10話「つながった人、つながらなかった人」

「任せる」しかない。

その先が、どうなるのかを——朝倉は、まだ知らなかった。

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