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列の途中 第10話 つながった人、つながらなかった人 ――それでも、列に並んでいる人がいた

朝倉は、空になったベッドを見ていた。

午前中までそこにいた患者は、回復期へ転院した。

ここでの役割は終わった。

​朝倉は思った。

ちゃんとつなげただろうか。

​この病棟にいると、退院や転院は毎日のようにある。

そのたびに、関わりは途切れる。

無事につながったのか。

本当に生活に届いたのか。

それを知ることは、意外と少ない。


​数日後。

外来。

検査入院の患者を迎えに行くように言われ、朝倉は待合室へ向かった。

受付の表示板を確認する。

​田村健一 74歳

既往歴の欄に、見覚えのある文字があった。

脳梗塞(9ヶ月前)

​朝倉は、足を止めた。

名前を見て、すぐには思い出せなかった。

だが、待合室で立ち上がった男性を見た瞬間、つながった。

​春。

まだ朝倉が配属されたばかりの頃。

相馬が担当していて、自分は横で見学していた患者だった。

​田村は、装具をつけていた。

左下肢装具。軽い跛行。体幹の傾き。

歩容はきれいではない。

でも、歩いていた。

​待合室の椅子から立ち上がり、朝倉の方へゆっくり歩いてくる。

あの時、病棟の中で見ていた歩行より、ずっと生活に近い歩き方だった。

​「……ああ、相馬さんについてた新人さんか」

田村が少し笑った。朝倉も会釈した。

「覚えています。バランス練習、一生懸命頑張ってましたよね」

「そうそう」

​田村はうなずいた。

「なんとかやってるよ」

朝倉は自然に聞いた。

「生活はどうですか」

​田村は少し考えてから答えた。

「時間はかかるけどな」

少し笑う。

「買い物も行けるし、風呂も入れる」

少し間。

「前みたいじゃないけど」

そして。

「暮らせてる」

​その一言に、朝倉は少し安心した。

歩き方はぎこちない。体幹の傾きもある。装具も必要だ。

でも。

暮らせている。

田村の麻痺側の肘に、小さなスーパーの袋がかかっていた。

それは、十分に大きなことだった。

​つながった人もいる。

朝倉はそう思った。


​翌日。

救急搬送の受け入れがあった。

リハ科にも情報が回る。

その中に、見覚えのある名前があった。

​森下亮介 42歳

​朝倉はカルテを見て、しばらく動けなかった。

四月。

まだ自分が見学ばかりしていた頃。

相馬が担当していた、若い脳出血の患者だった。

​当時、身体機能の回復は比較的良かった。

歩けていた。

食事も取れていた。

自宅退院まで持っていった症例だった。

​朝倉は、その後を知らなかった。

​病室に入る。

森下はベッド上に座っていた。

身体だけ見れば、重症ではない。

麻痺も軽い。歩行も可能。

しかし、表情が違った。

​視線が落ち着かない。返答に間がある。感情の起伏が読みにくい。

朝倉は慎重に声をかけた。

​「こんにちは。リハビリの朝倉です」

​森下は一度こちらを見た。

だが、すぐに視線を逸らした。

「……またか」

低い声だった。

​カルテを読む。

今回の入院は肺炎。施設からの搬送。現在は抗菌薬治療中。

​施設。

その文字が、頭の中に引っかかった。

去年は、確かに家へ帰ったはずだった。

​その日の午後。

病棟で、相馬に聞いた。

​「森下さん……去年、自宅退院でしたよね」

相馬は少しだけ黙ってから、うなずいた。

「はい。そうでした」

​朝倉は続けた。

「でも、今回……施設からですよね」

相馬は短く息を吐いた。

「退院後、少しずつ崩れたようです」

​それ以上を待つように、朝倉は黙った。

相馬は、言葉を選びながら続けた。

​「身体機能はある程度戻りました。歩けてもいました」

「ただ、易怒性が強かったんですよね。ちょっとしたことで、抑えがきかなくなる」

朝倉は顔を上げた。

「易怒性……」

「はい。家庭内でのトラブルが増えたと聞いています」

​短い説明だった。

だが十分だった。相馬は続ける。

​「奥様との関係も悪化して、最終的には離婚になったそうです」

朝倉は何も言えなかった。

「そのあと、生活保護になって、現在の施設に入所されています」

相馬は、少しの間、目を伏せた。

「退院時に、奥様にもケアマネにも伝えていたんですが」

「それでも、在宅は難しかったようです」

​病室の空気を思い出す。

身体は動く。歩ける。

でも、生活は崩れていた。

​数日後。

肺炎は落ち着いた。

リハビリ中の森下は、歩くこと自体はできた。

​ある日、ベッドサイドで靴を履き替える時のことだった。

森下の踵が、靴の縁に少しだけ引っかかった。

本当に、ただそれだけのことだった。

​「ああ、くそっ!」

突然、森下が靴を床に蹴り飛ばした。

壁にぶつかり、大きな音が響く。

朝倉は思わず身体を固くした。

​森下の顔は瞬時に赤黒く染まり、目には異常なほどの怒気が宿っていた。

「なんだこの靴は! お前がちゃんと置かないからだろうが!」

フロアの空気が凍りつく。

理不尽な怒声だった。

​朝倉が「すみません」と靴を拾おうとすると、「触るな!」とさらに激しく怒鳴られた。

だが、その数分後。

森下は憑き物が落ちたように、またぼんやりとした無表情に戻っていた。

​朝倉は、冷えた汗を感じながら理解した。

これでは、無理だ。

​どれだけ足が動いても。

どれだけひとりでトイレに行けても。

この唐突で激しい怒りの爆発を、家の中で毎日、妻がひとりで受け止め続けるなんて。

家族が壊れるのも、当然だった。

​身体だけなら、家に帰れそうに見える瞬間もあった。

でも、朝倉はもう分かっていた。

それだけでは足りない。

​退院先は、再び施設になった。

森下はぼんやり前を見ていた。

怒っているわけでもない。悲しんでいるわけでもない。

ただ、生活から少しずつ切れていった人の顔だった。

​施設職員が迎えに来る。

手続きの説明。看護師の申し送り。短い挨拶。

​朝倉は、その場に立っていた。

易怒性のことは、相馬がきちんと伝えていたはずだった。

それでも、こうなった。

何もできなかった、という感覚だけが残った。


​夕方。

外来。

受付前には、数人の患者が並んでいた。

その列の中に、ひとりの男性がいた。

見知らぬ人だった。

でも、朝倉にはもう、知らない人には見えなかった。

​装具。代償。体幹の傾き。足をぶん回すような歩き方。

不安定だった。

でも、立っていた。

順番を待っている。

​一瞬、バランスを崩す。

でも、踏み直す。

その姿を見て朝倉は思った。

これも回復だ。

完璧ではない。きれいでもない。

でも、自分の足で立って、列に並んでいる。

​そこにたどり着いた人がいる。

一方で。

歩けても、家に帰れなかった人もいる。

​つながった人もいた。

つながらなかった人もいた。

同じ病気でも。同じリハビリでも。同じように努力しても。

行き先は違った。

​それでも。

列に並んでいる人がいた。

​その事実だけは、朝倉の中に静かに残った。


次回、第11話「とりあえず抑制」

つながらなかった人――

その理由は、身体の外にあった。

では、病院の中にある理由で、つながれなくなるとしたら。

朝倉は初めて、自分の名前で評価を書く。

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