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列の途中 第23話 守るもの、繋ぐもの ――『大丈夫、もう帰る』

実習生の三週間は、結果として大過なく終わった。

体調を崩すことも、重大な事故が起こることもなかった。

予定していた評価と介入は一通り経験した。

最終日の発表も無事に終えることができた。

もっとも、順風満帆だったかと言われれば、そうでもない。

迷いもあったし、判断に時間がかかった場面もあった。

そして何より、症例レポートは――ほとんど朝倉と宮田が書いた。

最終日の発表前、実習生の手は少し震えていた。

それでも最後まで立ち、言葉を詰まらせながらも、自分の口で患者のことを話し切った。

発表が終わったあとに見せた、力の抜けたような表情を、朝倉は覚えていた。

あの顔を見て、今回はそれで十分だと思えた。

それで、よかった。

実習とは、学生がすべてを一人でやり切る場ではない。

安全を守り、考え方を支え、最後までやり遂げる経験を共に作る場だ。

少なくとも、朝倉と宮田は「預かる」ということの重さを、少しだけ理解した。

そして、その経験は静かに終わった。

特別な拍手も、感動的な別れもなく。

ただ、日常の中に吸い込まれるように。


4月。

朝礼の空気は、いつもと変わらなかった。

主任が申し送りを読み上げ、新人がメモを取り、看護師が病棟からの依頼を伝える。

いつも通りの朝。

最後に、主任が言った。

「他に連絡事項は?」

一瞬の沈黙。

朝倉は、少しだけ息を吸って手を挙げた。

視線が集まる。

「私事で恐縮ですが――先日、結婚しました」

静かな空気。

次の瞬間、「おお」と誰かが小さく声を出し、拍手がぽつぽつと広がった。

主任が、軽くうなずく。

「おめでとう」

短い言葉。でも、ちゃんと届く。

朝倉は頭を下げた。

「ありがとうございます。今後とも、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」

形式的な言葉の中に、確かな覚悟があった。

主任が言った。

「生活、守れよ」

一拍置いた短い言葉に、朝倉は静かにうなずいた。

朝礼が終わり、人が動き出す。日常が再び回り始めるそのとき、後ろから声がした。

「朝倉さん」

振り向くと、宮田が立っていた。

「おめでとうございます」

「ありがとう」

朝倉が笑うと、宮田は少し間を置いて「すごいですね」と言った。

朝倉は首を横に振る。

「普通だよ」

本当に、普通のことだった。でも、守るものが増えた。

それだけは、確かだった。


午前、リハビリ室で宮田がカルテを見ながら立ち止まっていた。

眉が少しだけ寄っている。

それに気づいた朝倉が声をかけた。

「どうした?」

「膝の患者さんです。曲がらなくて……」

宮田の言葉は短かったが、重かった。

朝倉はカルテをのぞき込む。

TKA術後。術後三週。屈曲八十五度

そこから動かない。

「痛みは?」

「強くはないです」

「腫れは?」

「引いてきてます。」

「四頭筋は?」

「触ってます」

「膝蓋骨は?」

「動かしてます。」

宮田は真面目に答える。

ちゃんとやっている。

でも、止まっている。

朝倉はゆっくりと言った。

「ちょっと見せて」


病室では、患者がベッドに座っていた。

穏やかな表情だが、膝を見ると少しだけ力が入っている。

宮田が手を当て、ゆっくりと屈曲を誘導するが、やはり九十度手前で止まる。

患者の顔が曇り、太腿に力が乗る。

防御性収縮だ。

「一回、止めよう」

朝倉は宮田を制し、患者に向き直った。

「怖いですか?」

「バキッといきそうで……」

小さな、本音の言葉。朝倉はうなずいた。

「そうですよね」

否定せず、まず受け止める。

朝倉は椅子を持ってきて、患者の前に座った。

足が少し浮く高さ。

朝倉は自分の足を患者の大腿の下に入れ、もう片方の足で下腿を支えた。

両手が自由になる、安定した姿勢。

「まず、任せられる姿勢を作る」

静かな声で言いながら、朝倉は太腿にそっと触れた。

大腿四頭筋は硬く、弾力が少ない。

次に鵞足部、さらに腓腹筋の起始部。

組織が動かない。

「膝だけじゃない。周りも、硬いですね」

ゆっくりと指を入れ、組織を動かしていく。

そして、患者に言った。

「少しだけ、一緒にやりましょう」

押さない。引かない。

ただ、組織を横断や圧迫しながら待つ。

呼吸が落ち着き、太腿の力が抜けた瞬間。

朝倉はほんの少しだけ屈曲を促した。

九十度。

静かに、越えた。

「曲がった……」

患者が目を見開く。息を止めていた宮田に、朝倉は言った。

「曲げたんじゃない。曲がれる状態を作ったんだ」

宮田はゆっくりとうなずいた。

朝倉は、患者の太腿にそっと手を置いた。

「焦ると、防御が勝つ。任せられると思ってもらえないと、体は動かない」

短い言葉。

それはかつて、自分がこの病棟で何度も教わってきたことだった。


午後のリハビリ室で、宮田がぽつりと言った。

「朝倉さん、すごいですね」

朝倉は首を振った。

「時間がかかっただけだよ」

それが、本当のことだった。


夕方、帰り道。

スマートフォンが震えた。

妻からのメッセージ。

『今日、少し遅くなる?』

朝倉は立ち止まり、少し考えてから返信した。

『大丈夫。もう帰る』

スマートフォンをしまい、歩き出す。夜の空気は、少しだけ暖かかった。

守るものが増えた。

明日もまた、誰かの体を預かる。

でも、不思議と足取りは軽かった。


次回、第24話「続く列」

守るもの、繋ぐもの。

歩くこと、生活できること。

全て含め列は続いていく。

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