列の途中 第24話 列は続く ――父は、また歩けますか
六月。
新しい年度が始まり、リハビリ室には活気が戻っていた。
朝倉は、少し離れた場所からカルテを打っていた。
視線の先では、二年目になった宮田が、今年入った新人に説明をしている。
「ここは、無理に動かさなくていい」
宮田の声は、かつての焦燥が消え、落ち着きを帯びていた。
「患者さんが怖がってる時は、まず姿勢を安定させて。任せられる状態を作るのが先だから」
朝倉は、画面に視線を戻した。
自分が出る幕はない。必要なときだけ、そっと背中を押せばいい。
かつて相馬の背中に躊躇っていた宮田は、もういない。
現場の判断軸は、確実に次の世代へと受け継がれていた。
九月。
残暑の残る午前。
朝倉はカルテ画面を見つめていた。
新規依頼。
脳梗塞。七十四歳。左片麻痺。発症三日目。
既往に高血圧と糖尿病。意識清明。失語なし。
右下肢の支持性は保たれているが、左膝伸展はほぼできない。
(急がない)
朝倉は自分に言い聞かせる。
以前なら、
「早く立たせたい」
「早く歩かせたい」
その思いが先に出ていた。
今は違った。
まず、崩さない。そこから積み上げる。
病室の前に立つと、家族の声が聞こえた。
「そんなに悪いの? 本当に?」
女性の声だった。カーテン越しに聞こえる、押し殺したような不安。
朝倉はノックをした。
「失礼します。理学療法士の朝倉です」
ベッド上の男性が、こちらを見た。
顔色は悪くない。
だが左側の腕は、布団の上でほとんど動いていない。
その横に、娘らしい女性が立っていた。
目の下に、薄く疲れが出ている。
朝倉はベッドサイドに近づき、まず患者本人へ視線を向けた。
「今日は、お身体の様子を見せていただけますか」
男性は小さくうなずいた。
短時間の評価。
端坐位は保持可能。
血圧は安定。
呼吸苦なし。
ただ、左半身は支えきれない。
無理をすれば、崩れる。疲労も見える。
朝倉はすぐにベッドへ戻した。
その時だった。
娘が、静かに言った。
「すみません」
朝倉は顔を上げた。
次の言葉は、予想できていた。
「父は、また歩けますか」
その問いは、何度聞いても同じ重さを持っていた。
病室の空気が、少しだけ止まる。
患者本人も、家族も、こちらを見ている。
朝倉は、すぐに答えなかった。
数秒。
呼吸を一つ。
それから、ゆっくりと言った。
「主治医の先生も言っていた様に、歩く練習はしていきます。」
娘の目が、わずかに動いた。
朝倉は続ける。
「ただ、今はまだ発症して間もない時期で、体も不安定です。
ここで無理をすると、かえって回復を遅らせてしまうことがあります」
言葉は短く。
でも、逃げない。
朝倉は、椅子を少し近づけて座った。
目線を合わせる。
「ですので、目標を二つ持って進めたいと思っています」
娘が、少し首をかしげた。
「二つ……?」
朝倉はうなずいた。
「一つ目は、早く歩けるようになることです」
はっきり言った。
逃げない目標。
「これは、全力で目指します」
少し間を置く。
そして続けた。
「もう一つは、もし歩けるようになるのに時間がかかる場合でも、生活が崩れないように準備しておく。」
娘の表情が、わずかに変わった。
拒絶でも、絶望でもない。
理解しようとする顔。
朝倉は続けた。
「例えば――
安全に移乗できること、
トイレに行けること
家で過ごせること」
一つずつ。
ゆっくり。
「どちらの道になっても、困らないように準備します」
病室が静かになった。
娘は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さくうなずいた。
「……お願いします」
それは、期待でも、諦めでもない。
委ねるという言葉に近かった。
午後。
記録室でカルテを入力していると、背後から声がした。
「朝倉」
振り向くと、主任の野口が立っていた。
紙コップのコーヒーを持っている。
「さっきの家族対応、見てた」
朝倉は少し驚いた。
「聞こえてましたか」
野口は小さく笑った。
「たまにはスタッフの仕事ぶりも見ないとな」
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「いい説明するじゃないか」
短い言葉だった。
だが、重みがあった。
朝倉は一瞬、言葉を失った。
野口は続けた。
「希望も残してたし、逃げてもいなかった」
朝倉は黙って聞いていた。
「昔のお前なら、迷いに迷って患者や家族にも伝わっただろうな」
野口はそう言った。
「歩けます、って言い切るか」
一拍。
「まだ分かりません、って引くか」
朝倉は苦笑した。
たしかに、そうだった。
野口はコーヒーを一口飲んで言った。
「今は、両方持ててる」
それだけだった。
褒めすぎない。
でも、はっきり認める。
その言い方が、野口らしかった。
夕方。
朝倉はもう一度、病室を訪れた。
患者はベッド上で座っていた。
表情は、朝より落ち着いている。
朝倉は言った。
「今日はここまでにしましょう」
無理をしない。急がない。崩さない。
患者は小さくうなずいた。
「朝倉君、だっけ?」
朝倉は顔を上げた。男性が言った。
「さっきの話。」
声はゆっくりだった。
でも、はっきりしていた。
「歩けるようにするって、言ってくれたな」
朝倉はうなずいた。
「はい」
男性は続けた。
「もう一つも、いいと思った」
朝倉は言葉を待った。
男性は小さく息を吐いた。
「もし歩けなくても、生活ができるようにするってやつだ」
朝倉は静かにうなずいた。
男性は少し笑った。
「ちゃんと考えてくれてるんだな」
その言葉は、感謝でも、期待でもなく、信頼に近かった。
病室を出ると、廊下の窓から夕日が差していた。
オレンジ色の光が床に伸びている。
朝倉は少しだけ立ち止まった。
最初にこの仕事を始めた頃。
歩かせることが、すべてだと思っていた。
十月。
秋晴れの週末。
郊外の大きな公園では、相馬の家族とのバーベキューが開かれていた。
春に第三子が生まれ、現在、育休中で少し日焼けした相馬は、Tシャツにデニムという軽装で、網の前でトングを振るっていた。
「朝倉君、焼きすぎ。火の通り道を作って」
相馬の口調は、仕事の時よりもずっと多弁で、柔らかかった。
「すみません」
少し離れた場所で、二人の妻が笑い合っている。
相馬の足元では、上の子どもたちが騒がしく駆け回っていた。
「パパー。でっかい虫!」
「よし、任せろ。どこだ!」
相馬はトングを朝倉に預けると、子どもたちと一緒に芝生を走っていった。その後ろ姿は、完全に一人の「父親」だった。
ここには滑走性もリスク管理もない。
あるのは、騒がしくて、愛おしい休日だけだった。
夕方。
荷物を車に積み込み、別れの挨拶を交わす。
「朝倉君」
相馬が、ふと足を止めて振り返った。
夕日を背にしたその目は、静かに朝倉を見つめていた。
「ちゃんと帰ってる?」
現場を離れ、三人の子育てに追われている相馬から、今日一日、仕事の話は一切出なかった。
朝倉は、まっすぐにうなずいた。
「はい」
相馬は、ふっと目を細めて笑った。
「それでいい」
帰り道。
助手席で、妻が自分の少しだけふくらみ始めたお腹に、そっと手を当てた。
「ねえ。明日も仕事?」
「うん」
「そっか。無理しないでね。もうすぐ、パパになるんだから」
信号が青に変わる。
アクセルを踏む。車が、ゆっくりと前に進み出す。
朝倉は、少しだけ強くハンドルを握った。
相馬が育休に入り、病棟で自分が背負うものも大きくなった。
そして、後輩たちも。
気づけば、自分も守られる側ではなくなっていた。
最近の宮田の顔を思い出す。
焦りが消え、自分の足で立ち始めた頼もしい顔。
もう、ただ教わるだけの顔ではなかった。
患者の前で迷いながらも、自分の判断で立ち止まり、自分の言葉で説明しようとしている。
朝倉には、それが分かっていた。
あいつも遠からず、この急性期を離れて、次の場所へ行く日が来るのだろう。
列は続く。
人が去り、人が来て、それぞれが次のステージへ進んでいく。
明日も、仕事がある。 朝倉は前を向いた。
自分もまた、その列の途中で、しっかりと歩き続けるだけだった。
まだ、答えは出ていない。
宮田は、次の場所へ向かう。
場所が違えば問題も違う。
新たな列に、どう並ぶか。
