全てを失い、ミャンマーで坊主になった銀行員が、社会に戻ってたどり着いた場所『本業は自分』
夜明けのゴールデンロック
一週間前まで、私は、ネクタイを締めて、満員の山手線に揺られていた。
それが今、坊主頭に法衣をまとい、ミャンマーの聖地で冷たい岩の上に座っている。
四十過ぎの私は、すべてを失った。
坊主頭からかぶった大きな布の間を通して、ほんの少しだけ、あたたかい空気が顔をなでた。
夜明けだ。
深く落ちていた瞑想の意識が、徐々に現実の空気に触れて上ってくる。
遠くを見ると、日の出前の暗闇の遠い空に薄いオレンジ色が少しずつ広がりはじめ、ゴールデンロックの輪郭が金色に浮かび上がっていた。
ミャンマーの聖地、ゴールデンロック。標高1100メートルの山頂に、黄金の巨岩が立つ場所だ。
2004年。かつて銀行員だった私は、ミャンマーで僧侶になり、この聖地に来ていた。
このとき私の中で、40年以上動かなかった何かが、初めて動いた。
その話を、もう少しだけ、させてほしい。これで終わりではないからだ。
それでも、息をしている
外交官だった父について、私は幼いころ南米で暮らした。
顔は純日本顔なのに、帰国後の小学校では「ブラジル人」と呼ばれ、いじめられた。それでも、子供ながらの必死の処世術で、あまり上手くもない野球とテニスで、居場所を見つけて、どこに行っても上手く立ち回る術を身に着けた。
推薦で、私立大学に入り、ポルトガル語を専攻した。南米留学中は、単位も取らず、ブラジルやメキシコを一人で放浪した。アマゾン河を船で1週間下り、ユカタン半島で泊めてもらった小屋では、寝ている顔のすぐ上にタランチュラがいた。スマホもグーグルマップもない時代だった。
俺は、どこでも一人で生きていける。
そんな若い自信をつけて、当時は、それだけで、自立していると思っていた。
海外にでて日本と南米に関わる仕事がしたいという漠然とした動機で、日本を代表する国際銀行の東京銀行に就職が決まった。トップではないものの、少なくとも、人生の勝ち組には入ったと思っていた。
ブラジルで外国為替ディーラーをし、ODAで途上国のインフラ整備に関わり、結婚して、娘が生まれ、玉川学園の猫の額ほどの土地にマイホームも建てた。外から見れば申し分のない人生だったと思う。
銀行業務が一通り分かってきた、30代の頃だった。
得体の知れない無力感が、ふとしたときに顔を出すようになった。向き合うと、自分が無くなりそうで、怖かった。だから、見ないようにした。
虚無だった。
忘れるように、がむしゃらに働いた。それでも、そいつは、どこにでもついてきた。グルメ雑誌にのっているレストランにも、家族の温泉旅行にも、ついてきた。
何のために生きているんだろう。その問いが、いつも頭の中を、ぐるぐる回っていた。
家庭でも、ちょっとしたことでイライラするようになった。妻との溝が、深まっていった。
そんなとき、東京銀行と三菱銀行の合併が決まった。海外で働きたくて選んだ銀行だったのに、その先が見えなくなった。
妻にさらに不満をぶつけて喧嘩が絶えなくなった。ある日家に帰ると、机の上にメモが置いてあり、妻と娘が、いなくなっていた。
また少ししたら帰ってくるだろう、こんなテレビドラマの台本のようなことが、本当にあるんだと、他人事のように思っていた。
しかし、どれだけ連絡しても、妻の気持ちは戻らず、やがて家庭裁判所から通知が届き、生まれて初めての挫折に向けて、事は淡々と進んでいった。そして、当然のように、離婚が成立した。
小学生になったばかりの娘と自由に会えなくなって、身体の一部をもぎ取られたように感じた。
もうどうでもよくなった。15年勤めた銀行を辞めた。家族の思い出がある家も一刻も手放したかった。年収は1000万円を超えていたものの、バブル崩壊後で、売ってもローンは返しきれず、退職金も持ち株もすべて返済にあてたので、手元にはほとんど何も残らなかった。
挫折の辛さを補うように、自己啓発や精神世界、宗教の本を読み漁り、自分を変えるワークショップに通った。
そこで、元ファッション業界の、ある女性と知り合った。そして、彼女が立ち上げたばかりのヒーリングの会社を手伝うことになった。二人だけの会社で、事務所は若者が憧れるおしゃれな街にあった。
彼女とレストランに行くと、何も言わなくても一番いい席に通された。灰色の銀行員生活とは何もかもが対照的で、眩しかった。舞い上がった私は、髪を金色に染め、シルバーアクセサリーを身に着け、葉巻をくわえて大型バイクに乗った。
今思うと、絵にかいたようなアホだ。だが、その時はこれこそやりたかったことだと、自分に言い聞かせていた。そうすることで、娘と離れた苦しさから、目をそらせたからだ。
案の定、その暮らしも長くは続かなかった。会社は借金で回らなくなり、私は消費者金融に手を出した。やがて、その女性からも別れを切り出され、何もかもが、またいっぺんに崩れた。その時も、誰もが結末を予想できる転落だった。
41歳。二度目のゼロだった。いや、ゼロですらない。残ったのは、私個人の借金だけでマイナスだった。
借金を返すために、警備員になった。駅のトイレで制服に着替え、工事現場に立った。一日中立ち続け、家に帰って顔を洗うと、タオルが真っ黒になった。ヘルメットを目深にかぶって、人目を避けていた。競争や比較の社会を渡る術は知っていても、世間の現実の荒波は知らないお坊ちゃん育ちの私には、相当こたえた。
どこでも一人で生きていけると思っていた自信は、もう、どこにもなかった。
ある日、ベッドから起き上がれなかった。
冷や汗が出て、浅く小さな息をするのさえ、苦しかった。
布団にくるまり、いっそこのまま、息が止まればいいと思った。
それでも、自分から死ぬことはできなかった。
自分の意志とは関係なく、呼吸は続いていた。ふと、自分の呼吸に意識が向いた。
それでも、息をしている。
その事実に気がついたとき、自分の意志では及ばない、大きな何かの中にいるように感じた。
その時、心のいちばん奥から、雫のような、ごく小さな感謝が湧いてきた。ありがたくて、涙が出てきて、ただ泣けてきた。
その小さな雫のような感謝が、それ以上深みに落ちることを支えてくれて、生きるほうへとわずかに顔を向けることができた。
それでも、息をしている。
この事実が、今も、私の生の原点になっている。
お前の人生をボコボコにしてやる
ヘルメットの警備員の仕事から、ICカードを首から下げる大手外資系企業の派遣社員に移り、2年かけてようやく借金を返済できた。それでも、虚無はまだ、ことあるごとに顔を出した。相変わらず自己啓発やスピリチュアルの本を読み漁っていた。
ある日、積んであった一冊の青いカバーの本を手に取った。ヒーリング会社のあの女性がくれた本だったが、まだ一度も開いていなかった。ガユーナ・セアロという、日本人のミャンマー僧侶の本だった。
開いたページの最初に、「自分を愛してあげなさい」とあった。教義もノウハウも説かない。他人と比べるな、体験することが大事だと書いてある。今まで読んだ、どの本とも違った。
もう、この方以外にはいない。何が何でも会いたいと思った。
翌月、岐阜で開かれたセアロ師の講話会で、15分間の面談の機会を得た。部屋に入ると、首の太い初老の僧侶が、えんじ色の法衣を着て、分厚い黄色の座布団の上に胡坐をかいて座っていた。
「どうした?」
優しい目に見つめられた瞬間、まだ何も話していないのに、涙がとめどなく溢れた。
ようやく、会えた。
事前に考えてきたことは、頭からすべて飛んでしまった。ひとつだけ、鮮明に覚えていることがあった。
「お前、ミャンマーで坊主になってみるか」
と言われたことだ。
その場では返事ができなかった。面談のあと、偶然、師と再び廊下で会ったとき、師は笑顔で言った。
「弱虫。お前がミャンマーに来たら、お前の今までの人生をボコボコにしてやるからな」
先ほどの聖者のような優しい目から一転して、どこかの組長かと思うほど、目は、怖かった。
でも、その言葉が、決定打になった。
師は希望者に、ミャンマーで1か月ほどの僧侶体験をする機会を設けていた。僧院で暮らし、奉仕にも加わる。私は、参加すると決めた。
2004年10月。むせ返るような暑さのヤンゴンの空港に降り立った。手荷物は、下着とTシャツ一枚だけだ。僧侶は、下着もつけないから何も持って来なくていいと言われていた。数日後、僧院で得度し、ミャンマーの坊主になった。43歳の時だった。
セアロ師は、寺を持たず、宗教団体も作らない。自立を促すことを信条としていた。日本やアメリカでは自分を本気で生きることを説き、ミャンマーやカンボジアでは、NPOの形で、貧しい村や孤児院を支援していた。僧侶体験は、その奉仕に僧侶として加わるものだった。
ふつう、上座部仏教の僧は、奉仕をしない。施しを受け、人々に功徳を積ませる側だ。200以上の戒律を守り、感情を出さず、嗜好品も控えると聞いていた。
だが、セアロ師は、まるで違った。大きな声で笑う。「美味しい」と言って食事をする。コーヒーのあとには、タバコをうまそうに吸われる。そして、誰よりも動き、率先して奉仕をされた。
あるとき、恐る恐る師に聞いてみた。
「なぜ、僧侶でありながら、自ら動いて奉仕をされるのですか?」
師は答えた。
「私は宗教をしない。ルールを作るのが仏教ではない。生き方そのものを教えるのが、元々の教えだ。心がどれだけ美しいか、強いか、ピュアか。そこだよ」
そして、少し間をおいて言われた。
「私は、奉仕をしている自分が好きなんだよ」
そのときの師の、やさしい顔の中に、並々ならぬものを感じた。
師の後ろを歩くと、道行く人が、地面に額をつけて、新米の私にまで手を合わせた。
「やめてくれ。俺は、ついこの間まで、ネクタイを締めたサラリーマンだったんだ」
拝まれるような人間では、まるでない。
毎日が、奉仕だった。市場で物資を仕入れ、数百の手提げ袋に小分けし、バスに積んで、村や孤児院へ届ける。朝から晩まで、クタクタになるまで動いた。
僧院の中庭をほうきで掃いている時だった。ふと気がつくと、セアロ師が後ろに立っておられた。瞑想をしているか、と問われた。前の晩に、寝る前に少しだけ瞑想したことを思い出し、「あっ、……はい」と答えた。肉を忘れて座れば、私が私に答えてくれる、と教わった。
「坊主はな、どこにいても私であるという意識とはどういうものだろうか、というところからその道に入ったものだ。何かを得るためではないよ」
次の日の夜、私はずっと聞きたかったことを、師にぶつけた。
「魂で生きるには、どうしたらいいんですか」
師の返事は「誰か、ハンマーを持ってきて、まさきの頭をかち割ってやれ」だった。
私は「お願いします」と、まだ青い坊主頭を前に出した。
ある日、セアロ師の支援を受けたために、キリスト教の孤児院の院長が、異動させられるかもしれない、との知らせを耳にした。私は腹が立って、その気持ちを師にぶつけた。
すると、師はやわらかく微笑んで言った。
「お前は、まだまだだねぇ。そうしないと生きていけない人もいるんだよ」
耳が赤くなった。自分の正しさにこだわっていたものが、すっと、ゆるんだ。
別の日、自分がどう生きたいのかも、まだわからないことを師に話すと、師は言った。
「分からんでええんだよ。分からんから生きてるんだ。分からんから味わうんだよ。体験して、体験して、体験するんだ」
答えが欲しかった私は、結局、体験するしかないのかと、ため息が出た。それ以来、ただ、目の前の支援を、くたくたになるまでやった。夜は、静かに座った。
少しでも気を抜くと、師から容赦なく叱られた。それでも、ありがたかった。魂で生きたいという私の願いに、師は本気で叱ってくれた。
動いて、座って、また動く。そうしているうちに、頭で考えることをしなくなっていた。
支援の日々も、終わりに近づいていた。
自分でよし
私たち一行は、ゴールデンロックの山頂近くに、数日の宿を取った。
ある朝、まだ暗いうちに、外に出た。吐く息が白い。法衣の上に、もう一枚はおる。巨岩を見渡せる岩に座り、坊主頭から布をかぶって、目を閉じた。
これまでの場面が、浮かんでは消えていく。やがて、それもなくなり、大きな静寂に包まれた。
布の間から、ほんのり、あたたかい空気が入ってくる。
夜明けだ。
布から顔を出すと、遠い空の薄いオレンジ色が暗闇に広がり、ゴールデンロックの輪郭が、金色に輝き始めていた。反対側の空には、まだ星と白い月があった。
その時だ。
わけもなく、涙が流れた。
「これでいい」と言われているようで、自分の中で、何かが腹に落ちた。
自分でよし。
初めて、そう思えた。
40年以上、ずっと自分が好きになれなかった私が、この時初めて自分でいいんだ、と思えた。
その日の午後、師に明け方のことを話すと、師は言った。
「涙はね、過去の経験から出るものと、魂がひとまわり大きくなった時に出るものがあるんだよ」
別の日に、孤児院で、子どもたちにキャンディーを配っていた時だった。子どもが一人ずつ、両手でシャツの裾をつまんでひろげたところに、大袋から一握りのキャンディーを入れる。次の子が来る。一握り。また、一握り。
繰り返すたびに、手に、確かなものを感じた。
銀行で大きなお金を扱っていたころ、その背後には、いつも損得や思惑があった。手の中のキャンディーにはそれがない。なのに、あの大金よりも、ずっと重かった。
見返りのない奉仕。
これが、自分のしたかったことだった。
坊主の心で社会を生きる
1か月の僧侶体験を終え、日本に帰った。胸には、師の言葉が残っていた。
「正しいことをするんだ。自分が生きるのに必要なことだけを、目いっぱい自分でしているかどうか、それだけだ」
大手外資系の会社から、正社員にならないかと打診をもらった。だが、魂で生きる道を味わってしまった私には、もう、もとの自分には戻れなかった。
フランス料理の人生よりも、不安定しかない梅干し弁当の人生を選んだ。
セアロ師のNPOの事務局が、東京から石川県の山あいの限界集落に移ったことを機に、私もそこで暮らすことになった。持ち物は、赤いショルダーバッグ一つと、寝袋だけだった。
NPOの事務を手伝い、畑を耕し、家ではムカデと格闘した。坊主頭にアジア風のパンツ姿の私を、村人たちは、はじめ怪訝そうに見ていた。それでも、雪かきや橋の修復を手伝ううちに、信頼を得ていった。
ある日、40を過ぎても貯金がほとんどゼロだった不安を師に打ち明けると、笑って言われた。
「食えなくなったら、食わなければいいだけだろ」
そんなこと、できるわけがない……。
そう思いそうになった。でも、なぜか、その直後、その言葉が深く腹に落ちた。
1年半後、NPOの拠点が山から街に移ることになったとき、師から「お前は一緒に行けないよ」と言われた。
あぁ、やっぱり落第か。そう思った。と、同時に、愛想笑いもできないくらいのボコボコがもうなくなるんだと、少しほっとした。
村を出るとき、師から白い封筒を渡された。僧侶になったとき、なけなしの貯金をすべてお布施として渡したあの封筒で、封は開けられていなかった。受け取れませんと断ったが、「持っていけ」と強く渡された。
その時、持ち物は、まだ、来たときと同じ赤いバッグ一つだけだった。師から渡されたお金で、職を探す間の家賃と生活費を賄うことができた。
その後、金沢のスーパー銭湯で働くことが決まり、一年半ほど経ったある日、本屋で、ゲストハウスの本がふと目にとまった。オーナーが自分の手で改装した、小さな宿のページで、手が止まった。
「これだ!」
宿なんて、やったこともない。自分でDIYもできなかった。それでも、なぜか、ピンときた。
「ゲストハウスをやろう」
ぐずぐずしていると、わずかな貯金が底をつく。やるなら、今しかない。
スーパー銭湯にすぐ辞表を出し、金沢駅近くの築140年の古民家を借りた。仲間も手伝ってくれて、皆で改装した。そうして、思い立ってから、半年。金沢で、初めてのゲストハウス「ポンギー」をオープンした。48歳のときだった。
相部屋2部屋、個室1部屋、最大収容人数10名の小さな宿だ。洗面台は、中古の業務用のシンクで、相部屋には、まだエアコンもついていなかった。
「ポンギー」はミャンマー語で、僧侶という意味だ。ミャンマーでセアロ師から学んだ、あの心のまま生きたかった。損得を抜きにして、自分を本気で生きる。その思いを込めた名前だ。
師に挨拶に伺った時、師がいつも旅の道連れにしている、金色の歩く仏像を、ふいに手渡された。ウォーキング仏陀と呼ばれる像だった。
「これは、私だよ。お前がこの道を外れたら、返してもらうからな」
師は、そう言って微笑んだ。
頭が真っ白になった。気がつくと、その仏像を私が両手で持っていた。嬉しかった。それと同時に、この道を歩く覚悟を問われている重さに、手が震えた。
私は、正式な坊主ではない。法衣も、もう着ていない。それでも、この手の中の仏陀とともに、坊主の心で、この社会を生き抜こう。
そう、思った。
本業は、自分だ
オープンして1週間たっても、客は一人も来なかった。改装で忙しく、ホームページを作る暇もなかったのだから、無理もない。貯金は、あと数か月で底をつく。
今度、ゼロになったら、ミャンマーの僧院に戻って、もう一度、坊主になればいい。心のどこかで、本気で、そう考えていた。
師に会ったとき、何げなくそのことを口にしたら、即座に、返事が返ってきた。
「だめだ!」
逃げ道は、完全に断たれた。
その夜、客のいない宿に、一人で座っていた。がらんとした談話室は、しんと静まり返り、掛け時計の針の音だけがしていた。
あの仏像を預かり、道を外れるな、と覚悟を問われたばかりだったのに、私はまだ、逃げ道を探していた。坊主に戻るという、いちばんきれいな逃げ道を。
情けなかった。
ふいに、身体が、熱くなった。
師は、「食えなくなったら、食わなければいいだけだろ」と言っておられたではないか。あれから、ほとんどゼロから始めて、現に私は、まだ生きている。この宿がだめになって、食えなくなったら、そのときは、そのときだ。全力でトライした、悔いはない。最後に残るのは、この私だ。
そうか、と思った。
仕事が、本業なのではない。
本業は、自分だ。
銀行員でも、警備員でも、坊主でも、宿のおやじでも、自分というベースは、変わらない。生まれてから今まで、ずっと一緒にいる、この自分だ。
本業を自分として生きて行く。
そう、決めた。
貯金が底をついたら、またバイトに出ればいい。たこ焼きの道具を買って、笑顔で、たこ焼きを焼けばいい。
自分でどうにか2ページのホームページを作った。宿の理念は、「すべての人々が生きる喜びに満たされますように」と、セアロ師の言葉を一番上に置いた。
大手予約サイトに登録したら、お客さんが一気に増えた。それから、無我夢中で、一人で毎日宿を続けた。
1年半が経ち、宿を回せるようになった頃、「まる」と「ゆう」の二人が、ポンギーの思いに共鳴してスタッフとして加わった。いつしか、世界中から旅人が集まる宿になっていた。
自分で狙ったことは、何ひとつない。セアロ師から学んだことを日々心掛け、本業を自分として、ただ一歩ずつ歩いていただけだ。
気がつくと、この小さな宿が、外国人に人気の宿の全国12位に入っていた。地元石川県では、泊まりたい宿の1位に選ばれた。2016年の暮れには、NHKの「ゆく年くる年」で、全世界にこの宿が映った。
坊主の心は、この社会でも、通用した。
やがて、ゆうとまるは宿を離れ、入れ替わるように、にいなが加わった。スタッフは、にいな一人になった。
しかし、順調に思えた歩みは、長くは続かなかった。
命で試される
コロナ禍で、宿は大きな打撃を受け、客足は止まり、先の見えない日々が続いた。
そのさなかだった。
胸に、激しい痛みが来た。タクシーで、病院に向かった。
病院に着くなり、ストレッチャーに乗せられた。ニトロの錠剤を口に押し込まれ、服が脱がされていく。廊下を走る感覚を、背中で感じ、天井が、流れていく。
「心臓に、カテーテルを入れますよー」
医師の声がした。手首から、細いものが、腕を上がってくる感覚があった。血管が映しだされているモニターが見える。
そこで、意識がなくなった。
ピッ、ピッ、ピッ。
規則的な電子音で、目が覚めた。白い天井。口には、酸素マスク。身体から、何本もの管が出ている。
ICUだ。
「気がつきましたか」
白衣の医師から告げられた。
「急性心筋梗塞でした。あなたの心臓は半分になりました」
落ち着いた声だった。
えっ? 心臓が、半分?
半分で人間、生きられるのか? 元に戻るのだろうか。俺は、このまま死ぬのだろうか。
「私、あと何日生きられますか」
絞り出すように、聞いた。
「まだ、予断を許さない状態です」
医師は、それだけ答えた。
幸い、合併症もなく、運よく生き残って1か月ほどで退院できた。
三途の川も、何も見ていない。見ていれば、話のネタになったのに。
でも、息をしているだけで十分だ。
この日常が、奇跡だ。
杖をついて歩く。歩いては休み、歩いては休む。これまでは、誰よりも早く歩いていたのに、今は、人の背中しか見えない。
私一人では、もう宿は続けられないだろう。
そのことをにいなに話そうとしたら、
「まさきさんに何かあっても、私が、この宿を続けます」
と先に言ってくれた。
ポンギーはまだ終わらない。いつも控えめなにいなが、人生をかけて思いを告げてくれたことも、嬉しかった。
一緒にやっていこう。生きている限り。
試練は、それだけでは終わらなかった。
2024年の元日。能登半島の地震で、屋根と内装に被害を受けた。やっと回り始めた宿が、また止まった。
さらに、激しい肩こりで見てもらった病院で、治らない首の難病が見つかった。
「あと数ミリ、骨化が進んだら、手が動かなくなります」
どれだけ、試練が来るんだ。
それでも、と思った。
本業は自分じゃないか。
何があっても、最後の一息まで、私は、本業を自分として生きて行こうと思う。
長くなったが、私が最初に話しておきたかったのは、ここまでの話だ。
このことを、手が動くうちに、誰かの参考になればと、書いておきたい。
自分を歩き続ける
私とにいなは、入籍した。28歳の、年の差だ。そして、宿の代表を、にいなに移した。
師に報告すると、にいなに向かって、こう言った。
「坊主の奥さんも、しっかり勉強するんだぞ」
そして、笑って、続けた。
「まさきが死んだら、ウォーキング仏陀は君にあげるからね」
一人の歩みが、二人の歩みになった。
娘への思いは、今も、胸の奥にある。それも含めて、私の人生だ。
あのとき生きて、自分を生きようとミャンマーに行って、本当によかったと、心から思う。試練だらけのような人生だ。それでも、過去からの一瞬一瞬が、すべて繋がっている。この人生を、やり直したいとは思わない。
今、もう虚無はない。
師は、こう言っている。
「人生を感動するの。私で生まれてよかった、という人生をやるの。これが一番だね」
死の瞬間に、そう思えるかどうかは、まだわからない。この先に何があるかも、自分がどうなるかも、わからない。ただ、今の気持ちを持ち続けていれば、自分でよかったという人生を歩いていける。今は、そう信じている。
私は今、肩書はない。名誉もない。お金は少しだ。年も六十の半ばになった。街を歩けば、みなに追い越される。それでも、自分として生きていることに満足している。
師は、こうも言っている。
「心地よさや、物があるかないかで決まる幸せは、いつか崩れる。
心が動いているその感覚を味わっているだけで、平安でいられる。
それが、本当の幸せ。『在る幸せ』だ。」
今の私には、まだわからない。
「在る幸せ」は、探して求めるものではないのだろう。
自分を歩き続けた先に、気づけば、そうなっているのだと思う。
これからも、迷いながらの道だろう。
答えを見つけるには、今生の寿命ではとても足りないかもしれない。
ただ、
自分で決めて、こけたら立ち上がる。
自分と向き合い、体験し、味わいながら、その時その時を精一杯、歩いていく。
にいなと二人で、まだまだ、この宿を続けていく。
本業は自分。
師の声が、聞こえてくる。
「まだまだだねぇ」
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私の本業は、自分です。この記事が、あなたの一歩を、そっと後押しできたなら、うれしく思います。いただいたお気持ちは、宿を続けていく力にします