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『悪代官には「御意」と言え。』~現場の親父は、今日も裏技(チート)で嘘をつく~ #第十話

第10話:盾(パラディン)の覚悟

午前8時30分。

開発フロアの空気は、死んだように重く冷たかった。
常に床を這い回っていたプレッシャープレスの重低音は、第三ラインから完全に消え失せている。代わりにフロアを満たしているのは、焦げ付いた金属とエマルジョン切削油が混ざり合った、酷く不吉な異臭だった。

「聞いたか? 社長、激怒しているらしいぜ。あのプレス機の修理とライン停止の損害で、楯岡の親父さん、マジでクビだってよ」

「自業自得だろ。国立大様の数字遊びを真に受けて、現場を引っ掻き回すからだ」

フロアの端。課長の犬飼順平に煽られた冷笑組のベテランたちが、隠す気もない声で嘲笑を撒き散らしている。

『諦めの灰色』が、鉄錆のような悪臭を放ちながらフロア全体をどす黒く塗り潰していく。誰も第三ラインに近づこうとはしない。現場は完全に、見えない壁によって分断されていた。

その中心で、新人・石渡理(いしわたり さとし)は、電源の落ちた黒いモニターの前に立ち尽くしていた。

肩幅の合わない作業着の背中は、痛々しいほどに丸まり、小刻みに震えている。石渡の全身から噴き出す、どす黒く淀んだ「自己否定」と「絶望」の濃紺のオーラ。

少し離れた場所からその背中を見つめていた楯岡誠(たておか まこと)の胸の奥に、石渡の絶望と冷笑組の悪意が、容赦ない濁流となって流れ込んでくる。

「……っ、ぐ」

息が詰まり、激しい耳鳴りが視界の縁を暗転させる。昨日の事故から続く吸収の累積ダメージは、52歳の肉体の限界をとっくに超えていた。千切れそうな胃を抱え込み、作業着のポケットを探るが、指先が触れたアルミシートの中身はすでに空だった。

「楯岡さん。役員室へ」

背後から、氷を滑らせるような冷徹な声が響いた。
振り返ると、専務の氷室義久が立っていた。手元のタブレットの角を、神経質なほどきっちりと直角に折り曲げるように撫でている。氷室の肩口から放たれる青白く鋭利なオーラが、剃刀のように楯岡の喉元へ突きつけられた。

午前9時、役員室。

豪徳寺社長は不在だった。マホガニーの机を挟み、氷室は薄ら笑いを浮かべたまま、一枚の出力用紙を楯岡の前に滑らせた。

「社長は烈火のごとくお怒りだ。納期を前倒しするどころか、ラインを止め、甚大な損害を出した。君の解雇は、今日の午後の役員会で正式に決議されるだろう」

氷室の声には、感情の起伏が一切ない。ただ、冷徹な事実だけが空調の風に乗って鼓膜を打つ。
楯岡は無言で、突き出された用紙に視線を落とした。
それは、昨日の第三ラインにおけるプレス機の操作ログだった。

「……君は昨日、現場で『自分の指示ミスだ』と言ったそうだがね」

氷室の冷たい指先が、用紙の印字をトントンと叩く。

「ログは嘘をつかない。この異常な加熱炉の安全マージン変更は、君のアカウントではなく、あの新人の端末から直接実行されている。彼が独断で暴走し、機械を壊した。これが真実だ」

ドクン、と楯岡の心臓が激痛とともに跳ね上がった。氷室の青白いオーラが、部屋の空気を凍てつかせていく。

「楯岡さん。私は無能な人間は嫌いだが、君のこれまでの現場での最適化の手腕は評価している。だから、一つ提案をしよう」

氷室が身を乗り出し、薄い唇を吊り上げた。

「午後の役員会で、このログを提出したまえ。すべての責任はあの新人の暴走にあると証言するんだ。そうすれば、彼は懲戒免職になるが、君のクビは私が社長に取りなしてやろう」

氷室の目が、爬虫類のように細められた。

「新人は替えが効く。だが君の手腕は惜しい。現場は数字の奴隷でいいんだよ、楯岡君。無駄な情を抱えて泥舟と共に沈むより、自分の家族とキャリアを守るべきだろう?」

息が止まりそうになった。
若手を切り捨て、生贄として差し出せば、自分は助かる。今後の現場の権限をすべて氷室に譲り渡し、数字の奴隷になることを受け入れれば。
それが、合理の鬼・氷室が提示した、完璧な「悪魔の取引(踏み絵)」だった。

極限のストレスで、楯岡の視界が一瞬、色を失いモノクロームに染まりかける。
その色のない景色の奥に、かつて心を壊して去っていった後輩・白瀬栞の、光を失った空っぽの瞳がフラッシュバックした。

『もうダメです。助けてください』

あの時、自分は正論を盾にして彼女を見殺しにした。

(この取引に乗れば、石渡は完全に壊れる。……そして、俺の魂も死ぬ)

自身の胸の奥で、バイブルである三原則の試金石が、血を吐くような熱を帯びて問いかけてくる。

『その言葉を、その子の家族の前でも言えるか』

言えるはずがない。自分の保身のために若手の未来を売り飛ばすなど、安全圏からの最低のマウントだ。
楯岡は、限界を迎えかけていた両足にギリッと力を込め、ゆっくりと顔を上げた。
顔面の筋肉を総動員し、極上の『へつらうピエロの微笑み』を強引に縫い付ける。

「――氷室専務。温かいお気遣い、痛み入ります。ですが、そのログは少々読み違えておられますな」

氷室の薄ら笑いが、ピタリと止まった。

「石渡君は、私の指示通りにキーボードを叩いただけです。あの安全マージンの変更は、すべて現場責任者である私の計算ミスであり、私の命令です。石渡には一切の過失はございません」

「……本気で言っているのか、楯岡君。君は自分が何を言っているのか分かっているのか」

青白い冷気が、殺意に近い鋭さを持って突き刺さる。だが、楯岡は一歩も引かなかった。
誰よりも深く、優雅に頭を下げる。

「すべての責任は、私が取ります」

泥まみれの盾(パラディン)は、悪代官の最強の刃を、その身一つで正面から受け止めた。

午前10時。開発フロア。

役員室から戻った楯岡の足取りは、鉛を引きずるように重かった。視界はブレ、今にも床に倒れ伏しそうだった。
自席に戻ると、デスクの上に、見慣れないものが置かれていた。
真新しい胃薬のシートと、湯気の立つ紙コップに入ったブラックコーヒー。そして、その横には一つのUSBメモリ。

『無茶しなさんな。ログのバックアップと、購買の最新強度データだ』

大前すみれの走り書きの付箋が貼られていた。
そして、少し離れた通路を歩き去る一ノ瀬玲子が、振り返りざまに小さく頷いた。

大前の深い紫色のオーラと、一ノ瀬の淡い緑色のオーラ。現場の泥を知る者たちからの、無言の援護射撃。

(……ああ。俺はまだ、倒れるわけにはいかない)

胸を覆っていたどす黒い絶望に細い亀裂が入り、そこからスッと淡い緑色の光が差し込んでくる。
楯岡は激しく震える指で胃薬を押し出した。指先からこぼれ落ちそうになる錠剤をなんとか口へ運び、コーヒーで一気に喉の奥へと流し込む。

ガリッ、ガリッ。

土のような暴力的な苦味が舌裏を刺し、ショートしかけていた神経の輪郭を強引に鈍らせていく。肩の力がふっと抜けた。
楯岡は立ち上がり、第三ラインの前に立ち尽くす石渡のもとへ歩み寄った。
オレンジ色の焦燥を漂わせた荒熊源次が、黙って道を空ける。

「……楯岡、さん」

石渡が、幽鬼のような顔を上げて楯岡を見た。

「すみません……僕の、僕のせいで。僕が、あの数字を過信したばかりに……」

震える声で懺悔を口にする石渡の肩を、楯岡は無言でドン、と叩いた。

「謝るな。責任は俺が取る。お前はただのエンジニアだ。エンジニアが考えるべきことは、過去の後悔じゃねえ」

石渡が息を呑む。
冷笑組の嘲りが遠のき、フロアの轟音が消えたような錯覚の中、楯岡は真っ直ぐに石渡の目を見据えた。

「お前はあの数字で、“何を守りたかった”んだ?」

へつらうピエロの色はない。ただの現場の親父としての、真っ直ぐな問い。

「お前の中にある“正しさ”を言葉にしろ。お前の『最初の10分』は、まだ終わっちゃいないぞ」

絶望の底に沈んだチームを再起動させる、反撃の狼煙。
楯岡誠は、ゆっくりと口角を上げた。

「さあ、ここからは、俺たちのターンだ」

第11話へ つづく

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