『悪代官には「御意」と言え。』~現場の親父は、今日も裏技(チート)で嘘をつく~ #第十一話
第11話:どうしたいと思って、やったんだ?
「お前はあの数字で、“何を守りたかった”んだ?」
静まり返った第三ラインのフロア。焦げた機械油と金属の異臭が色濃く漂う中、52歳の楯岡の低く確かな問いが、新人の石渡の胸を真っ直ぐに貫いた。
膝をつき、どす黒い自己否定のオーラに沈んでいた石渡の肩が、びくりと跳ねる。
「……僕は」
石渡は震える唇を噛み締め、ゆっくりと顔を上げた。その光を失っていたガラス玉のような瞳の奥に、かつてないほどの強い熱が宿り始める。
「僕は、社長の無茶な数字を合わせるためだけに、あの設定を組んだんじゃありません」
声の震えが止まり、はっきりとした輪郭を帯びていく。
「この防衛システムのセンサーが、もし実戦で空を飛んだ時。たった1%のクラックも許さず、確実に誰かの命を……この工場で働く誰かの家族が、ちゃんと家に帰ってこられるように守り抜く、『絶対の盾』にしたかったんです。だから、加熱炉の温度勾配とプレス機の加圧曲線を、現行の設備の限界値まで引き上げる数式を導き出したんです。僕の……僕の論理は、間違っていません!」
言い切った。
恐怖という名の鉄の鎧を自らの手で打ち砕き、石渡が「自分の意志」を初めて明確な言葉にした瞬間だった。
その純粋すぎるモノづくりへの誠実さが、スッと【淡い緑色】の光となって楯岡の胸に差し込む。極限まで累積していた吸収のダメージによる耳鳴りが遠のき、強引に胃薬で麻痺させていた胃の痛みが、冷たい水で洗い流されるように和らいだ。肩の力が、ふっと抜ける。
「よし、よく言った」
楯岡は口角を上げ、大きく頷いた。
「お前の論理は完璧だ。だが、現場の『鉄』は生き物だ。理論値通りに動かない老朽化したプレス機の悲鳴を聞き落とした。それが今回のエラーの原因だ」
楯岡は振り返り、腕を組んで立っている現場のドン・荒熊源次を見た。
「荒熊さん、この止まったプレス機、あとどれくらいで動かせますか?」
荒熊はチッと大きく舌打ちをし、首をゴキッと鳴らした。そして、無言のまま自分の腰袋から重厚なスパナを一本抜き取り、石渡の胸元へとドンッと押し付けた。
「……へっ?」
と呆気にとられる石渡の胸ぐらを、荒熊が油まみれの軍手で掴み寄せる。
「理屈はいい、手を動かせ国立大卒。お前がハブになれって言われただろ。俺がプレス機のシリンダーの歪みを力技で直す。お前は俺の『感覚』に合わせて、数式の方をコンマ1秒単位で書き換えろ。……1時間で息を吹き返させてやる」
荒熊は一度口をつぐみ、不器用なオレンジ色の熱気を漂わせながら、低く付け加えた。
「……ビビってんじゃねえぞ。現場はお前を待ってる」
「荒熊さん……はいッ!」
石渡がスパナを両手で強く握りしめる。
そこへ、硬質なヒール音がリノリウムの床を叩き、フロアの空気が一瞬だけ研ぎ澄まされた。
白衣を翻し、剣持冴華が歩み寄ってくる。彼女の目は、すでに手元のバインダーの品質管理項目を猛スピードでチェックしている。
「再稼働後のテストロット、私がつきっきりで全数検査するわ。1%の妥協も許さないから、死ぬ気で設定を詰めなさい」
直感のクマ、規律のタカ、そして論理のキツネ。
三つの異なるOSが、かつてない強固な歯車となって噛み合い、轟音を立てて回り始めた。バラバラだった彼らが、ついに一つの巨大な生き物へと変貌した瞬間だった。
(さあ。現場のことは、こいつらに任せよう)
楯岡は作業着のポケットの中で、総務の“鬼母”こと大前すみれが忍ばせてくれた小さなUSBメモリを強く握りしめた。
「ここからは、俺のターンだ」
午後1時。役員会議室。
エアコンの冷気が暴力的に吹き付ける中、部屋の空気は凍りつくような冷徹さに支配されていた。
豪徳寺剛が腕を組み、忌々しそうに楯岡を睨み下ろしている。その隣で、犬飼順平が
「信じられませんな、現場の暴走でラインを止めるなど」
と、薄汚い黄色のオーラを漂わせながら社長に同調していた。
そしてテーブルの向こう側。専務の氷室義久が、手元のタブレットの角をきっちりと直角に撫でながら、青白く鋭利な刃のような視線を楯岡に突き刺した。
「楯岡君。君は午前中、あの事故を『自分の責任だ』と庇ったそうだがね」
氷室の冷たい指先が、タブレットの画面をトントンと叩く。
「私の手元には、完全なアクセスログがある。加熱炉の安全マージンを異常な数値に書き換えたのは、君のIDではない。新人エンジニアの石渡理だ。彼が独断でシステムを暴走させ、設備を破壊した。これが動かぬ事実だ」
青白い冷気が、会議室の空気を凍てつかせる。
「彼を懲戒免職にする。そして、現場の管理を怠り、嘘の報告をした君の権限はすべて剥奪し、今後は私の直轄とする。……社長、これでよろしいですね」
「うむ。規律を乱す者は現場には要らん。氷室の言う通りにしろ」
豪徳寺が重々しく頷く。
(己のミスと予算削減のツケを、現場の若手に擦り付ける。……『その言葉を、家族の前で言えるか』)
楯岡の胸の奥で、自身のバイブルである三原則の試金石が激しい熱を帯びて脈打った。
言えるはずがない。それは経営者としての責任放棄であり、安全圏からの最低のマウントだ。氷室の青白いオーラと犬飼の黄色のオーラが濁流となって楯岡の胸に雪崩れ込もうとするが、今の楯岡は胃薬に頼る必要はなかった。
彼のポケットの中には、現場の仲間たちから託された『淡い緑色の絆』がある。
「氷室専務。一つ、よろしいでしょうか」
楯岡は深く一礼し、顔面に貼り付けていたピエロの微笑みを、ゆっくりと、完全に拭い去った。
ただの現場の親父としての、真っ直ぐで鋭い眼差し。氷室の余裕の薄笑いが、微かにピクリと引きつる。
楯岡はポケットから取り出したUSBメモリを、マホガニーの机の中央へ置いた。
静寂を切り裂くような、乾いた『カチャン』という音が会議室に響き渡る。
「専務。あなたは“数字の矛盾”を嗅ぎ分ける天才だ。だからこそ、ご自身の『矛盾』も完璧に隠蔽なさった」
「……何をごちゃごちゃと言っている」
「このUSBメモリの中には、総務部が保管している過去半期分の『設備メンテナンス・ログ』と、購買部が独自にテストした『代替部材の強度データ』が入っています」
大前すみれの紫のオーラと、一ノ瀬玲子の淡い緑色のオーラ。現場の泥を知る者たちのデータという名の物理的な盾が、楯岡の言葉を支える。
「今回の事故の原因は、石渡のプログラムの暴走ではありません。彼の計算式は、防衛システムの品質を100%担保するための『完璧な正解』でした。……プレス機が壊れた本当の原因は、氷室専務。あなたが今期のコスト削減のために、加熱炉のヒーター部品と油圧シリンダーの定期交換の稟議を『2期連続で握りつぶしていた』からです」
会議室の空気が、パキッと音を立てて凍りついた。
「な……っ」
犬飼が素頓狂な声を上げる。
「石渡は、限界を超えて劣化していた設備のポテンシャルを、なんとか数式で補おうと必死に戦っていただけです。ログをよくご覧ください。システムが破壊されたのではなく、あなたが通した『寿命切れの部品』が、本来の出力に耐えきれずに自壊しただけだ!」
数字による、完全な論破。
現場の泥をかぶってきた者たちだけが知る、血の通った真実のデータが、氷室の構築した冷徹な論理の城壁を粉々に打ち砕いた。
「……き、貴様……出所の知れないデータをでっち上げて……!」
氷室の顔面から余裕の薄笑いが完全に消え去った。呼吸が一拍だけ乱れ、その青白いオーラが激しく動揺して明滅する。 ピキッ。 無意識に強く握りしめていた氷室の手の中で、タブレットのカバーの角が、無残にひび割れる音が響いた。
「氷室!! お前、私の肝いりのラインのメンテナンス予算を勝手に削っていたのか!!」
黄金色の自己顕示欲を傷つけられた豪徳寺が、烈火の如く怒鳴り散らす。
「社長、違います! これは全社的なコスト最適化の一環で――」
「ええい、言い訳は聞かん! ラインが止まれば私の顔に泥を塗ることになるんだぞ!!」
さっきまで氷室に同調していた犬飼も、サッと顔色を変えて
「専務、いくらなんでもそれはやりすぎですぞ!」
と手のひらを返して喚き始めた。悪代官たちの醜い内輪揉め。
楯岡は、その滑稽な光景を冷ややかな目で見下ろしながら、深く、優雅に頭を下げた。
「社長、ご安心ください。老朽化した部品の応急処置と、劣化した設備に合わせた石渡の『完璧な再プログラミング』は、あと1時間で完了します。納期前倒しは、必ず実現してみせます」
「おお! そうか楯岡! やはり頼りになるのは現場だな! 氷室、お前は後で社長室へ来い!」
豪徳寺の怒声が響く中、楯岡は踵を返し、会議室の分厚い扉を開けた。
廊下に出る。
役員フロアの冷たい空気の中で、楯岡は大きく、深く息を吐き出した。胸を覆っていたどす黒い圧迫感は、もうどこにもない。
(……栞。俺はもう、間違えないぞ)
胸の奥に沈殿していた灰色の過去の亡霊が、淡い緑色の光に包まれて、静かに、本当に静かに溶けていくのを感じた。
楯岡は作業着の襟を正し、足早にエレベーターへ向かう。
向かう先は、機械油の匂いと轟音が鳴り響く、かつて愛すべき『生贄の部屋』と呼ばれた場所。
いや、もう誰も生贄になどさせない。
最強の防衛軍のパーティーが待つ、俺たちの現場だ。
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