見出し画像

ナイキ「ブレイザー」の歴史。Nike最初のバスケ靴は、コートで埋もれ、スケートボードのコンクリートで40年後に蘇った"忘れられた長男"だった#PR

1. Kedsから続く歴史は、ついに「ナイキ ブレイザー」へ

我々はこれまで、Spring Courtのペパーミントとゴム工場、L.L.Beanの絶望と顧客至上主義、リーボックのポンプフューリーとギプス、プーマ・クライドのNBAとブロンクス、そして直近ではアディダス・スーパースターがキャンバスNBAを終わらせた17年史を辿ってきた。

今回主役は、ナイキ「ブレイザー(Blazer)」である。

我々40代にとって、ブレイザーは1970年代の質実なバスケ靴であり、近年ではOff-WhiteやSacaiとのコラボで再びストリートの主役に返り咲いた、シンプルな白×黒の革靴だろう。エアフォース1やジョーダン1の陰に長らく隠れていた、Nikeの〝寡黙な長男〟である。

しかし、その本籍はストリートでもスケートボードでもない。ブレイザーは1972年、Nikeがブランド名として登場した最初期に、北米のバスケットボール・コートを獲りに行くために設計された〝Nikeブランド史上初のバスケットシューズ〟だった。プーマ・クライドが特注された1973年の、ちょうど一年前。Adidas Superstarがコートを席巻し始めた直後、PRO-Keds Royalが最後のキャンバス王として君臨していた、まさにその時代に投入された一足である。

2. 1972年オレゴン。Nikeという「翼の女神」が世に出た年

1972年、米国オレゴン州ビーバートン。

8年前にブルーリボン・スポーツ(BRS)として創業した小さな輸入代理店が、決断を下す。日本のオニツカ・タイガー(現アシックス)の代理販売を続けてきたが、ライセンス交渉のもつれから決別し、自社ブランドを立ち上げる。創業者フィル・ナイトと、共同経営者の元コーチ、ビル・バウワーマン。彼らは新ブランド名に〝ニケ(Nike)〟——ギリシャ神話の勝利の女神——を選んだ。ロゴ「スウッシュ」もこの時、ポートランド州立大学の学生キャロライン・デヴィッドソンに35ドルで発注された(※後にナイトは彼女に株式を贈与している)。

詳しくはNikeの原点を辿った『妻のワッフルメーカーを破壊した男の執念』に譲るが、Nikeはこの1972年、自社初のランニングシューズ「コルテッツ」(当初オニツカが販売していたモデル名を引き継いだ)を発表し、走る靴の世界に乗り出した。

しかしフィル・ナイトには、別の野望があった。バスケットボール・コートである。

当時のNBAは、コンバース・オールスター、PRO-Kedsのロイヤル、そして登場したばかりのアディダス・スーパースターが三つ巴で覇権を競っていた。新興ブランドが、しかも創業初年度に、この戦場へ最初の靴を投入する。それが「Blazer(ブレイザー)」だった。

3. ポートランドのチームを冠した「ローカル靴」

Blazer——この奇妙な名前は、Nikeの本拠地ポートランドのNBAチーム〝ポートランド・トレイル・ブレイザーズ〟から取られている(※公式の起源として伝えられている)。創業地のローカル・チームへの敬意であり、同時に「我々はこの街から世界を獲る」という宣言でもあった。1970年に新規参入したばかりの、まだ無名のNBA球団。それを冠したシューズという意味でも、ブレイザーは〝二人の新参者の出会い〟だった。

設計はシンプルだ。アディダスのレザー・アッパー+シェルトゥの設計思想を踏襲しつつ、Nike独自の工夫を盛り込んだ。レザーのアッパー、Swoosh(スウッシュ)の補強帯、加硫ゴム(バルカナイズド・ラバー)のソール、そしてつま先をぐるりと回り込むラバートウ・ボックス——機能的には、アディダス・スーパースターの〝代替案〟であり、コンバースのキャンバス組への〝レザー版アンサー〟だった。

最大の特徴は、ハイカット仕様にした上で、足首回りのレザー量をやや少なく抑え、〝ハイカットなのに動きやすい〟という当時としては微妙なバランスを取った点にある。Adidas Pro Modelより軽く、Superstarより足首ホールドが強い。〝中間最強〟を狙った設計だった。

NBAでの最初の顔は、ポートランド・トレイル・ブレイザーズの選手たち、そして後にサンアントニオ・スパーズのジョージ〝アイスマン〟・ガービンといったスター選手が履いた——と伝えられている(※当時の写真資料は限られており、契約関係の正確な記録は断片的である)。

しかし、新興ブランドが既存王者の牙城を切り崩すのは難しい。1976年にコンバースが「オールスター・レザー」で追従し、PRO-Kedsもレザー化を急ぐ中、Nikeブレイザーは目立った躍進を見せられないまま、〝忘れられた長男〟になっていく。

4. 80年代の沈黙と、スケートボードのコンクリートで蘇る「第二の人生」

ブレイザーが本当の意味で歴史に居場所を得るのは、発売から30年近く経った後である。

1980年代、Nikeは1982年のエアフォース1、1985年のエアジョーダン1という二つの大型製品で、バスケットボール市場の覇権を完全に握る。ブレイザーは生産は続いていたものの、棚の隅に並ぶ〝古い長男〟として扱われ、表舞台からは退場していた。

ところが2000年代に入る前後から、奇妙な発見が起きる。スケートボーダーたちがブレイザーを履き始めたのである。

理由は、ヴァンズ・エラの代替を探していた彼らの実用主義にあった。フラットなソール、薄く屈曲しやすいレザー・アッパー、デッキの感覚が伝わるアウトソール、そしてつま先のラバー保護——スケートに必要な要件を、ブレイザーは偶然すべて満たしていた(※意図的に設計されたものではなかったが、結果として最適だった)。Vansが先んじて確立した〝スケーター御用達〟という地位に、ブレイザーがしれっと食い込んでいく。

2005年、Nikeは正式に〝Nike SB Blazer〟をリリース。スケートボード市場専用の派生モデルとして、ブレイザーはNike SBラインの中核製品の一つに昇格する。

そして2010年代、Off-Whiteのヴァージル・アブロー、Sacaiの阿部千登勢、Slam Jam、Stüssyといったハイファッション/ストリートの巨匠たちが、相次いでブレイザーをコラボの題材に選ぶ。中でも2017年のOff-White × Nike "The Ten" のブレイザーは、リセール市場で価格が定価の数倍から十数倍にまで跳ね上がった(※コレクター市場の出来事であり、Nike公式の販売価格ではない)。

NBAで埋もれたNike最初のバスケ靴は、忘れられた30年を経て、スケーターたちの足元で蘇り、最終的にラグジュアリーの世界で〝二度目の頂点〟に到達した。〝寡黙な長男〟の、長い長い遅咲きの物語である。

5. ブレイザーを履け

40代の男がブレイザーを履くとき。

足元には1972年ポートランドの小さな代理店が〝勝利の女神〟を名乗った創業の覚悟と、30年後にスケーターのコンクリートで再発見された粘り強さが、同時に宿っている。コートで主役になれなかった〝Nike最初のバスケ靴〟が、半世紀後に〝Nikeデザイン哲学の祖型〟として再評価されている——これは、遅咲きの男の物語そのものである。

奇遇にも、1972年から1973年にかけてのNBAコートには、PRO-Kedsの「ロイヤル」、コンバースの「オールスター」、アディダスの「スーパースター」、プーマの「クライド」、そしてナイキの「ブレイザー」——五つの名作が同じハードウッドの上で競い合っていた。我々40代の足元のルーツは、まさにこの〝五大バスケ靴〟が並走した最後の時代にある。

我々はただスニーカーを履くのではない。1972年オレゴンで〝勝利の女神〟を名乗った無名のブランドが、半世紀かけてストリート文化の頂点に辿り着くまでの旅路を、足元に纏うのだ。

ブレイザーを履け。それは〝Nikeの始まりの一歩〟であり、〝忘れられた者が、もう一度立ち上がる証明〟である。

いいなと思ったら応援しよう!