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Tretorn(トレトン)の歴史。スウェーデンの「ゴム長靴工場」が生んだ白いコート靴は、米国アイビーの「密かな制服」となった#PR


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我々はこれまで「Keds」の系譜を辿ってきた。キャンバスとゴム底から始まった、米国生まれの名作。そこから、Spring Court(フランス)、Jack Purcell(カナダ)、Superga(イタリア)、G.H. Bass(米国)。世界各地のゴム工業がどのように紳士の足元を変えてきたか、順に追ってきた。

今回主役は、北欧スウェーデンが生んだ静かな名作、Tretorn(トレトン)である。

我々40代にとって、Tretornは「テニスボール屋」として記憶されているかもしれない。あるいは「白い小さなロゴのキャンバスシューズ」として、一部の通の間で囁かれる名前として。

だが、その出自は古い。誰もが想像する以上に古く、そしてKedsと驚くほど近い場所にある。

Tretornのルーツは、1891年。北欧の海港町ヘルシンボリで創業した、一軒のゴム長靴工場だった。


1.Kedsから続く歴史は、ついに「北欧の白いコート」へ

スウェーデン南西部、ヘルシンボリ。デンマークと海峡を挟んで向かい合う港町だ。19世紀末、この町でひとつの会社が産声を上げる。Helsingborgs Gummifabriks AB ── ヘルシンボリ・ゴム工場株式会社。1891年のことだった。

主力商品は、長靴、雨合羽、漁師のためのウェーダー(胴付長靴)。北欧の冷たい雨、深い雪、湿気を含んだ岩礁地帯。この土地に生きる人間にとって、加硫ゴム(生ゴムを硫黄で硬化させた工業素材)は、まさに魔法のような素材だった。

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経営の中心にいたのは、Henry Dunker(ヘンリー・ドゥンカー)。のちに「スウェーデンのゴム王」と呼ばれる男である。一介の地方工場を、世界有数のゴム産業拠点へと押し上げた。莫大な富は町に還元された(※その遺産はいまもDunker文化財団としてヘルシンボリに残り、文化施設の運営にあてられている)。

ブランド名「Tretorn」は、スウェーデン語で「3つの塔」を意味する(※町のシンボルや王冠の意匠に由来するなど、諸説ある)。

長靴と雨合羽で労働者の足元を支えてきたゴム工場は、20世紀初頭、ひとつの加硫ゴム製品で世界の競技用品市場に打って出る。テニスボールだ。

2.1900年代、北欧のゴム工業がスニーカーへと変態した日

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Tretornが加硫ゴム技術をテニスボールへと応用したのは、1900年代初頭。ただの製品多角化ではない。北欧の片田舎の長靴工場が、スポーツという近代的レジャーの世界市場へ船出した、決定的な瞬間である。

そして、ここが重要だ。

これはTretorn一社の物語ではない。

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地球の反対側、米国マサチューセッツ州ノースイーストン。1892年、9社の地方ゴムメーカーが統合された。誕生したのは「USラバー・カンパニー」(のちのユニロイヤル)。

やがて1916年、この巨大ゴム企業がひとつのスニーカーを世に出す。加硫ゴムソールとキャンバスアッパーを組み合わせた、一足の名作 ──「Keds」だ。

ヘルシンボリと、ノースイーストン。北海とニューイングランド。6,000キロ離れたふたつの港町で、ほぼ同時代に、ゴム工業はキャンバスシューズへと変態を始めていた。

これは偶然ではない。19世紀末から20世紀初頭にかけて、加硫ゴム技術が成熟していった。世界中で、同じプロダクトを呼び寄せる土壌ができあがっていた。

我々が辿っている「キャンバスとゴム底の歴史」は、米国だけの話ではない。北欧にも、フランスにも、イタリアにも、それぞれのゴム工場から、それぞれの「Keds」が立ち上がっていた。

Tretornは、その北欧解釈である。

3.1967年、「Nylite」誕生。徹底して語らない美学

Tretornが世界のスニーカー史にその名を刻んだのは、1967年に発表された一足のテニスシューズだった。「Nylite(ナイライト)」である。

それは、徹底的に北欧的なプロダクトだった。

キャンバスのアッパーには、ナイロン繊維を織り込んで強度と耐摩耗性を確保した(※モデル名「Nylite」の語源はNylon+Lightに由来するとされる)。アウトソールは加硫ゴム。ヒールカップは硬く、トウは丸く、装飾は最小限。サイドには、ほとんど見落とすほど小さな「3つの王冠」のロゴだけが刺繍されていた。

派手さも、誇張も、英雄性もない。

あるのは、北欧の合理性だけだった。

同時代の米国では、Kedsの「Champion」が圧倒的な存在感を示していた。コンバースの「オールスター」はバスケットコートを支配。PRO-KedsはNBAで勝利を量産していた。どれも、時代の物語を背負った、雄弁なスニーカーだ。

しかしNyliteは違った。

何も語らず、ただ静かにコートに立っていた。北欧のテニスクラブで。夏の湖畔の別荘で。セーリングを終えた桟橋で。

Nyliteは、誇示しない人間のための靴だった。

そしてこの「語らない美学」こそが、やがて遠く離れた米国東海岸で、思いがけない形で花開くことになる。

4.ストックホルムからアイビーリーグへ。「密かな制服」となった理由

1980年代初頭、米国のアイビーリーグ周辺で、ある現象が起きていた。

ハーバード、イェール、プリンストン、ブラウン── 名門大学の学生たちが、テニスコートにも、ボートハウスにも、キャンパスのレンガの小道にも、決まって白いキャンバスシューズを履いていた。それがTretorn Nyliteだった。

なぜTretornだったのか。

Kedsでも、コンバースでも、トップサイダーでもなく、なぜ北欧の無口なスニーカーが選ばれたのか。

理由は、その「過剰な物語のなさ」にあった。

70年代までの米国スニーカー文化は、スポーツ・ヒーローの物語と切り離せなかった。あの選手が履いた、あのチームが優勝した、あの曲のジャケットに写っていた── スニーカーは常に何かの記憶を背負っていた。その記憶を共有することが、コミュニティへの帰属の証だった。

しかしTretornには、それがほとんど無い。スウェーデンの遠い工場で、淡々と作られている、ただ白くて軽い靴。

Tretornを履くことは、米国の英雄崇拝の輪から一歩引いた、密かな知的態度の表明だった。1980年代初頭のプレッピー文化において、Tretornは「過剰に語らないことの上品さ」のシンボルとなった(※当時のプレッピー・バイブルとされる『The Official Preppy Handbook』にも、Tretornは推奨アイテムとして登場するとの指摘がある)。

それは、KedsがHIPHOPに、コンバースがロックに、PRO-KedsがNBAに選ばれた── あの選ばれ方とは、まったく違う。

雄弁さで選ばれたのではない。寡黙さで選ばれたのだ。

5.「語らない名作」を履け

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40代の男が、Tretorn Nyliteを履くとき。

足元には、北欧の海風が宿っている。ヘルシンボリの加硫ゴム工場の100年が宿っている。そして「過剰に語らないことを選んだ知性」が、たしかに宿っている。

我々はもう、誰かの英雄譚を背負ったスニーカーだけで足元を語る年齢ではないのかもしれない。

あの選手が履いた。あの曲に出てきた。そうしたロマンは、もちろん素晴らしい。我々の連載が辿ってきた数々のブランド史は、そのロマンの集積だった。

しかし時に、純粋に「ただ良いものを、静かに履く」という選択肢があってもいい。

Nyliteは、ストーリーで売る靴ではない。北欧の合理性、加硫ゴムの誠実さ、淡々とした製造の積み重ね ── それだけでできている。

Nyliteを履くということ。それは、自分自身の物語を声高に語る代わりに、他人のシグナルを静かに読み取る側に回るという、控えめな成熟の表明である。

ヘルシンボリの古い工場で、1891年から脈々と続く加硫ゴムの匂い。それを、足元に纏うことができるのだ。


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