【論文渉猟】言葉は、集合知は、誰のものなのか──世界を自分の側から作り直す力
◆今回の論文◆
Mary Kalantzis et al., "Literacy in the Time of Artificial Intelligence" (Reading Research Quarterly, 2024年11月23日)
概要:生成AIを「書く機械」として位置づけ、印刷機の発明に匹敵する転換と見なしたうえで、AI時代にリテラシーの定義そのものを作り直すべきだと論じる。読み書きを「意味生成への参加」として捉え直し、人間と機械がフィードバック関係を結ぶ「サイバー・ソーシャル・リテラシー学習」を提案する。
機械が、文章を書く。しかも、たいていの人間より速く、誤字もなく。そんな時代に、なぜ私たちはまだ「書くこと」を学ぶのでしょうか。
ある教育学の論文は、この問いを入り口にして、思いがけず遠くまで連れていってくれます。生成AIは単なる作文の道具ではなく、印刷機に並ぶ歴史的な事件だ——そう言うのです。話はそこから、文字の歴史、人間と機械の意味の作り方の違い、さらには「人類が積み上げてきた知は、いつのまにか誰のものになったのか」という問いへと広がっていきます。
富良野は構造から、Phronaは手触りから、この論文を読み解いていきます。二人の視線がずれ、ときに交わるところで、AI時代に私たちが何を選び取るべきなのかが、少しずつ姿を現してきます。
「書く機械」という、素っ気ない出発点
富良野: この論文、最初の一行がいいんですよ。生成AIを「書く機械」だと言い切る。知能とか思考とか、そういう大きな言葉をいったん脇に置いて、まず「これは文字を書く機械だ」と。
Phrona: 書く機械。なんでもない言い方に聞こえますけど。
富良野: そう思うでしょう。でも筆者はここに、印刷機と同じくらいの重さを置いている。畢昇の活字、グーテンベルクの印刷機、そして生成AI。この三つを並べているんです。
Phrona: 印刷機と並べる。それはずいぶん大きな話ですね。私、印刷機って、同じ本を何千冊も刷る機械だと思っていました。聖書がそうやって広まった、というような。
富良野: まさにそこなんです。印刷機がやったのは「複製」でしょう。誰かがすでに書いたものを、大量に写す。同じ聖書が何千冊も。
Phrona: ……あ。生成AIは、写すんじゃない。
富良野: そう。新しく書く。まだ誰も書いていない文章を、その場で作る。複製の機械から、生産の機械へ。筆者が言いたいのはそこなんです。
Phrona: 言われてみると、まったく別のことですね。コピー機がどれだけ速くなっても、それは「書く」ことにはならない。でもこの機械は、白紙から文章を立ち上げてくる。
富良野: で、この「生産」という一語が、あとで効いてくるんですよ。今は伏せておきますけど。意味を「作れる」ということは、つまり意味を「持てる」ということでもあるので。
Phrona: 持てる……。今のところは、その引っかかりだけ、預かっておきます。
ポイント解説
複製と生産。この区別は、見かけよりずっと深いところに刺さっている。
印刷機は、人間が書いたものを写す機械だった。何千冊の聖書も、もとをたどれば一人の書き手の言葉だ。機械は、それを運んだだけである。ところが生成AIは違う。プロンプト(指示文)を与えれば、それまでこの世になかった文章を組み立ててくる。複製ではなく、生産。ここで初めて、機械が「意味を作る側」に回った。
この転換を、筆者は人類史の尺度で測る。一〇三九年の畢昇による活字、一四五〇年のグーテンベルクの印刷術——文字の機械化が社会を作り替えたあの瞬間に、生成AIを並置するのである。ただし筆者はそれを手放しの進歩として描かない。印刷術がそうであったように、書く技術はつねに解放と同じだけの抑圧をもたらしてきた(後段で見るように、文字の歴史とは奴隷制や国家官僚制の歴史でもあった)という両義性の感覚が、この論文の通奏低音をなしているといえよう。
「読む・書く」では足りない、という話
富良野: さっきの「なぜ書く機械の時代に人は書くのか」という問い、あれを筆者は正面から引き受けるんです。そして答える前に、こう問い返す。そもそもリテラシーって何なんだ、と。
Phrona: リテラシー。読み書きの力、ですよね。
富良野: 普通はそう。読めて、書けること。でも筆者は、その定義の仕方そのものを疑う。「リテラシーは何であるか」ではなく「何をするか」で定義しろ、と言うんです。
Phrona: 何をするか……。力そのものじゃなくて、その力が世の中で何を引き起こすか、ということですか。
富良野: そうです。で、ここからが少し重い。筆者は、文字の歴史を解放の歴史としてだけは描かない。むしろ支配と排除の歴史でもあったと言う。
Phrona: でも文字って、本を読めること、知識にアクセスできること……いいものだと、私はずっと思ってきました。手紙も書けるし、遠くの人とも、亡くなった人の言葉とも繋がれる。
富良野: その感覚は正しいんです。文字は確かにそれをくれた。
Phrona: ……ただ、今ふと思ったんですけど。読める人と読めない人を分ける線も、文字が引いたんですよね。ラテン語の聖書を読めるのは聖職者だけ、とか。
富良野: そこに気づきましたか。筆者が引くのがレヴィ=ストロースなんです。文字の最初の働きは、人間を啓蒙することより、奴隷制を容易にすることだった、という。
Phrona: 啓蒙より、管理。手元の感覚が、急に裏返る感じがします。
富良野: 近代の学校も同じ構図だと筆者は言う。読み書きを全員に教える。一見、平等です。でもそこに標準テストと正規分布の成績がつくと、できる子とできない子が一列に並べられる。
Phrona: 不平等が、能力の差として「自然」に見えてしまう。本当は環境の差かもしれないのに。
富良野: そう。だから「リテラシーは何をするか」で見ろ、という。解放の道具であると同時に、人を選り分ける装置でもある。この両面を、筆者は最後まで手放さないんです。
ポイント解説
リテラシーを「何をするか」で定義する。
地味な言い換えに見えて、これは思考の向きを変える一手だ。能力の中身を問うのをやめ、その能力が社会で果たす働きを問う。すると、読み書きの明るい顔の裏に、もう一つの顔が見えてくる。誰かに機会を開くと同時に、別の誰かを締め出す顔が。
この両義性を、筆者はレヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)の苛烈な観察に託す。文字の最古の機能は人間の啓蒙ではなく、富と所有の管理、すなわち国家による余剰の吸い上げにあった、と。近代における普遍的リテラシーもまた、規律・時間厳守・従順といった「従順な労働力」の道徳を運ぶ器であった(教育史家のGraffはこれを文字の道徳経済と呼んだ)ことを思えば、読み書きの普及が即座に解放を意味したという通念は、相当に素朴なものと言わざるを得ない。そして正規分布曲線——子どもたちを「天才」から「凡庸」へと一本の線上に並べるこの装置は、社会的条件の産物にすぎないものを、あたかも生まれつきの知能差であるかのように自然化してきた。リテラシーが「何をしてきたか」。その問いの底には、不平等を能力の名で正当化してきた技術の歴史が横たわっている。
機械は、意味がわかっていない
富良野: さて、その「書く機械」は、いったいどうやって書いているのか。ここの説明が見事なんですよ。たとえ話で済みます。「walk」という単語、歩く、ですね。これを機械はどう扱うか。
Phrona: 歩く、は歩くじゃないんですか。
富良野: それが、筆者は三つの「歩く」を並べるんです。通勤で歩く。犬を散歩させる。囚人を独房へ歩かせる。同じ「歩く」でも、まるで違うでしょう。
Phrona: ……ぜんぶ違いますね。通勤はAからBへ向かう。散歩はAから出てAへ帰る。しかも犬がぐいぐい引っぱっていたら、歩かされているのは人間のほうかもしれない。
富良野: いいですね、その読み。最後のは、本人の意思に反して歩かされている「歩く」だ。僕たちはこの違いを、文法的にわかっている。誰が、何を、どういう関係で。
Phrona: 言葉にできなくても、わかっている。
富良野: 人間は、世界を文法で切り分けて理解しているんです。これは「もの」、これは「行為」、これは「過去」。文法は、世界がどう出来ているかについての、小さな理論なんですよ。
Phrona: では機械は。
富良野: 機械は、意味をわかっていない。ただ、「walk」の周りにどんな単語が出てきやすいか、その統計だけを見ている。「犬」が近ければこの歩く、「囚人」が近ければあの歩く、と。
Phrona: 意味を理解せずに、意味らしいものを出す。器用な手つきで、中身は空っぽ、ということですか。
富良野: 筆者の言葉だと、人間は文法的に意味し、AIは統計的に意味らしさを作る。似て見えて、根っこがまるで違う。
Phrona: さっき富良野が預けた引っかかり、ありましたよね。意味を作れるなら持てる、という。
富良野: 覚えてましたか。そう、ここに繋がるんです。中身をわかっていないのに、それらしい文章をいくらでも出せる。ということは——人類が書いてきた言葉を、まるごと統計に変えて、手元に「持てる」ということでもある。
Phrona: 理解していないからこそ、所有できてしまう。なんだか、ぞっとする筋道ですね。
ポイント解説
人間は文法的に意味し、機械は統計的に意味らしさを作る。
この一文が、論文の認識の背骨である。私たちは「歩く」という語を使うとき、頭のどこかで、誰が・何を・どんな関係で、を判別している。文法とは、ハリデー(Michael Halliday)が言うように「人間の経験の理論」にほかならない。世界の手に負えない複雑さを、もの・行為・関係へと切り分ける、人間に固有のやり方である。
機械には、この理論がない。あるのは、膨大な文章の中で、ある語の隣にどの語が来やすいかという確率の網だけだ。意味を理解した結果として書いているのではなく、確率を計算した結果として、意味ありげな文字列が出てくる。チョムスキー(Noam Chomsky)の師が「言葉の袋」と呼んだもの——文の中身を顧みず、ただ語を統計的に詰めただけのもの——を、桁外れの規模で実装したのが大規模言語モデルだといえよう。
理解していない。だが、書ける。この奇妙なねじれが、次の問題への扉になる。理解せずに意味を生産できるということは、理解という重荷を負わずに、人類の言葉をまるごと所有できるということでもあるからだ。
盗まれた、というには大きすぎる話
富良野: その「所有」を、筆者ははっきり批判するんです。生成AIは、ウェブ上の文章も、本も、画像も、片っ端から取り込んで作られている。誰の許可も、報酬もなしに。
Phrona: 私たちが書いたもの、撮ったもの、訳したもの。全部が材料になっている。
富良野: そう。で、筆者はここでマルクスを呼ぶ。「一般的知性」という言葉です。人類が長い時間をかけて積み上げてきた、共有された知の総体。
Phrona: みんなのもの、だったはずのもの。
富良野: それを一握りの企業が囲い込んで、商品にして、私たちに売り返している。筆者はこれを新しい植民地主義とまで言うんです。土地を奪う代わりに、社会の知性を植民地化する、と。
Phrona: 言葉が強い。でも……強すぎるとも言い切れない気がします。だって、もとは誰のものでもなかった共有財が、気づいたら誰かの製品になっていた。
富良野: その引っかかりは正しい。しかもこの問題、論文が出た二〇二四年の十一月より、いまのほうがずっと前に出てきている。
Phrona: 何か動きがあったんですか。
富良野: 新聞社が大手AI企業を訴えている。報道機関の記事が無断で学習に使われた、と。著作権を扱う公的機関も、AIの学習をめぐる報告を出した。和解や提携の話も次々に出ている。
Phrona: 論文の予言が、裁判所に持ち込まれているような。
富良野: 予言というか、診断ですね。筆者は二〇二四年の時点で構造を言い当てていた。それが一年半で、思想の批判から制度の紛争になった。古びるどころか、現実が論文に追いついてきている。
Phrona: 知が誰のものか、という問いが、もう抽象論じゃなくなってきた。
ポイント解説
一般的知性(general intellect)。マルクスが書きつけたこの概念を、筆者は現在に引き寄せる。人類が世代を超えて蓄積してきた知識・技能・科学・言語——社会全体に分散して存在する、本来は誰のものでもない知性の総体。生成AIがしているのは、この一般的知性をまるごとスクレイプ(収集)し、統計モデルへと囲い込み、商品として社会に売り返すことだ。物理的な土地ではなく社会的知性を対象とする、新種の囲い込みである。
そしてこの批判は、論文公刊後の一年半で、思想の次元から制度の次元へと移行した。報道機関と生成AI企業のあいだの著作権訴訟、各国の著作権当局による学習データをめぐる報告、相次ぐ和解と提携——知的コモンズ(共有財)の囲い込みという論文の診断は、いまや裁判所と立法の現実問題として前景化している。マルクスの古い語彙によって素描された構造が、現代の法廷において争われているという事態は、この論文の射程の長さを逆説的に証している、と言ってよい。
ただし筆者は悲観で閉じない。コモンズの統治を論じたオストロム(Elinor Ostrom)を引きながら、オープンソースの言語モデル、公共目的に調整された教育用AIによって、一般的知性を公共の手に取り戻す道がありうると示唆する。囲い込まれたものは、囲い直すこともできる。批判の先に、再構築の可能性が薄く開かれている。
書く機械は、もう書くだけではない
富良野: ここで一つ、論文を更新しないといけない点があるんです。筆者は生成AIを「書く機械」だと捉えた。これは今も正しい。でも、二〇二五年から二〇二六年にかけて、機械は書くだけじゃなくなった。
Phrona: 書く以外に、何を。
富良野: 見る、聞く、話す、コードを書く、画面を操作する、長い資料を読み込む、作業を進める。文章を作るのは、その一部になった。
Phrona: 道具というより、もう少し……手足のある何か、みたいになってきた。
富良野: いい喩えです。作文の補助から、仕事そのものを回す基盤へ。じゃあ筆者の「書く機械」という把握は、外れたのか。
Phrona: そう聞かれると、外れた気もするし、外れていない気もします。
富良野: そこなんですよ。本稿の見立てでは、外れていない。むしろ形を変えて生き延びている。考えてみてください、その機械に何をさせるか、人間はどうやって指定しますか。
Phrona: ……言葉で。指示を出して、条件を書いて、こうしてほしいと伝える。
富良野: そう。プロンプトも、要件定義も、評価基準も、全部言葉で書く。だから機械が多芸になっても、それを操る中核の手綱は、やっぱり言語なんです。
Phrona: テキストが唯一の入口だった時代から、言語があらゆる動きを操る時代へ。入口から、操縦桿へ。
富良野: うまいこと言いますね。だからリテラシーの出番は減らない。むしろ広がる。言葉で機械の行為を設計して、縛って、検証して、問い直す力。これがAI時代の読み書きになる。
Phrona: 書く力が、機械に明け渡されたんじゃなくて、機械を動かす力に化けた。
富良野: 一方で、筆者が陳腐化した部分もあるんですよ。AIは画像をテキストのラベル経由でしか扱えない、文脈を浅くしか読めない、と書いていた。今のモデルは画像も音も直に扱うし、長い文脈も外部資料も参照する。
Phrona: そこは古びた。でも、さっきの「言語が操縦桿」という芯は残った。
富良野: 機構の説明は古び、核心の洞察は生き延びた。論文の読み方として、これがいちばん誠実だと思うんです。
ポイント解説
「書く機械」は、二年足らずで「行為する機械」になった。
二〇二四年の論文が描いたのは、文字による意味生産を機械化する技術だった。その把握は誤っていない。だが二〇二五年以降に前景化したのは、音声・画像・動画を直接に扱い、コードを書き、画面を操作し、長大な資料を読み、一連の作業を遂行する機械である。文章生成は、その広い能力の一部分へと相対化された。この点で、AIの多モード性をテキスト派生的に説明した論文の記述は、部分的に古びている。
しかし——と、ここで論旨は一段深くなる。機械が多芸になったとき、その行為を指定・制約・評価する主要な手段は、依然として言語にほかならない。プロンプト、要件定義、評価ルーブリック、ポリシー文書。機械に何をどうさせるかは、すべて言語によって書かれる。すなわち、テキストが唯一の入力形式であった段階から、言語がマルチモーダルな機械の行為を制御する中核インターフェースとなった段階へと、構図が移行したのである。したがって、リテラシーの重要性は減じるどころか、機械の行為を設計し検証し問い直す能力として拡張されたと見るべきであろう。
機構の説明は古び、核心の洞察は生き延びた。論文を更新するとは、筆者を否定することではない。その芯がどこにあったのかを、いまの光のもとで見極めることだ。
では、私たちは何をすればいいのか
富良野: ここまで来ると、問いはもう「AIとは何か」じゃないんですよ。「私たちはAIとどういう関係に立つのか」になる。
Phrona: 関係。使うか使わないか、じゃなくて。
富良野: そう。禁止か全面解禁か、という二択がよくありますよね。学校でも職場でも。でも筆者はその手前で、もっと面白いことを言う。AIを人間の代わりの知能と見るな、と。
Phrona: 代わりじゃないなら、何なんでしょう。
富良野: フィードバックの相手だ、と言うんです。筆者はこれを「サイバー」と呼ぶ。もともとは舵を取る、という意味の言葉でね。人間と機械が、互いに違うものを持ち寄って、やりとりしながら進路を取り続ける関係。
Phrona: 違うからこそ組める、ということですか。さっきの話だと、機械は統計、人間は文法。まるで違いましたよね。その違いが、邪魔じゃなくて、価値になる。
富良野: そこに気づくと、なすべきことが見えてくる。まず一つ。関係を、既定値のまま受け取らない。
Phrona: 既定値。
富良野: アプリは初めから「こういう関係」を出荷してくるんです。全部おまかせ、とか、アルゴリズムが見せるものを勝手に決める、とか。最初の行動は、その出来合いの関係を一度疑って、自分が立つ関係を選び直すこと。
Phrona: 流されないために、わざわざ立ち止まる。それ自体が、もう行動なんですね。
富良野: 二つめ。批判するだけじゃなくて、建てる。さっきの私有化の話、囲い込みを嘆くのは簡単です。でも筆者たちは、自分の研究室で公共版を作ってしまった。野放しのデータじゃなく、吟味して限定したコーパスの上で動く教育用AIを。
Phrona: 文句を言う側から、作る側へ。
富良野: 三つめ。読み書きを、機械を設計して監督して批判する力にまで広げる。この出力は何を参照しているのか。誰が何をしていることになっているのか。どんな利害が裏で働いているのか。それを言葉で読み解いて、機械の行為に手綱をかける。
Phrona: 三つとも、技術の使い方の話じゃないですね。どういう関係を選ぶか、という話。
富良野: そこなんです。ここで一つ、重い事実がある。AIは教育の格差を、縮めることもできるし、広げることもできる。
Phrona: 高い性能を使える子と、使えない子。そこで差が開く。でも、うまく設計すれば、一人ひとりに合わせた支援で差を埋められるかもしれない。
富良野: その分かれ道は、技術が決めることじゃないんですよ。どっちに転ぶかは、僕たちがどの関係を選ぶかで決まる。
Phrona: ……機械の問題に見えて、ぜんぶ私たちの選択の問題だった。
富良野: だから、答えを一つに畳まないでおきましょう。なすべきことは、関係も、共有財も、読み書きの力も、機械に決めさせず、自分の手元に置き続けること。選び続けること自体が、たぶん、いちばんの行動なんです。
Phrona: 選択を、開いたまま握っておく。手放さないでおく。なんだか、リテラシーって最初からそういうものだった気がしてきました。
ポイント解説
サイバー。いまでは古めかしく響くこの語を、筆者はあえて選ぶ。語源にあるのは操舵、すなわちフィードバックによって進路を取り続けることだ。人工知能という語が「機械が人間の知能を代替する」という像を運んでしまうのに対し、サイバーは「人間と機械が互いの差異を持ち寄る関係」を指す。両者の価値は、似ていることからではなく、根本的に異なっていることから生まれる。
この関係を、与えられた既定値として受け取らないこと——ここに第一の行為がある。プラットフォームはつねに特定の関係を出荷する(全面的な委任、あるいはアルゴリズムによる選択の代行)。それを意識的に組み直すこと、私有化を嘆くだけでなく公共的に統治されたコーパスの上に教育用AIを建てること、そして読み書きを機械の行為を設計・監督・批判する能力へと拡張すること。これらはいずれも実装可能な提言の手前にある、より根本的な「構え」の選択にほかならない。教育正義の両義性——AIが格差を拡大しうると同時に縮小しうるという事実——もまた、技術の問題としてではなく、いかなる関係を選ぶかという問題として立ち現れてくるといえよう。
選択を、技術の手に渡さない。それを開いたまま、自分の手元に握り続けること。考えてみれば、読み書きとは最初からそういう力だったのかもしれない。世界の意味を、与えられたまま受け取るのではなく、自分の側から作り直す力。AI時代のリテラシーが問うているのは、結局、その古くて新しい一点なのである。
この記事は、Projeteam, Inc. ウェブサイトで先行公開された
を素材として対話形式で再構成したものです。元記事では、一般的知性の囲い込みという政治経済の層、そして「では何をなすべきか」という行為の問いを、より深掘りしています。あわせてご覧いただけると、議論がより立体的に見えてくるかもしれません。
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