観察の考古学(ボカロPの考える最強の音楽批評と実践)
2026年5月22日の記事(2026.6.25 更新)
音楽と芸術には批評が不可欠。
というのもニクラス・ルーマンのシステム論的に言えば、音楽および芸術とは、作品でも音楽家・芸術家の行為でもない。コミュニケーション(※)によって自己産出する社会のサブシステムを指す。
※ここでは「コミュニケーション」とは「理解によって初めて成立する、情報・伝達・理解の同時的な出来事」として用いる

コミュニケーションの内訳は「あれはよかった」「これはこういう意味だ」「それは違う」といった価値判断(評価・解釈・否定…等)の往来だ。そして音楽および芸術に対する価値判断を世間では「批評」と呼ぶ。盲点なのはそうしたことは音楽を聴くという行為以前に、作曲・演奏・即興といった音楽実践の中ですら起きている、ということだ。もはや音楽は"批評漬け"と言っていい。
しかし昨今、「批評」と呼ばれるものを眺めれば、ただの文法でしかないサブカル批評(生成AIで書ける)、小林秀雄の『モオツアルト』が如き印象批評、そして批評と銘打っておきながら単なるアーティストのスペック紹介・販売促進に過ぎないもの……そういった批評の遺骸、あるいはラベル偽装(批評の遺骸ですらない)で溢れている。
そんなものを「批評」と呼びたくない。
個人的には音楽や芸術における「批評」の有り様というのは、観察(一次観察)の観察(二次観察)であり、「批評は観察の考古学」であることが望ましいと考えている。なぜそのような感想を持ったのか、何がそこに無いのか。そういった考察を丁寧に重ねた結果、視野が"社会"にまで、というか社会によって構成された所謂「視点」、即ちパラダイムの観察にまで広がっていくものを「批評」と呼びたい。
芸術のシステムにはしっかりと生きて機能して欲しいのだ。
本記事では、知人によるクラシック音楽の生演奏初体験をダシにして、私の思う「批評」、つまり「観察の観察」がどんなものかを実践してみたい。
1.知人の感想(証言)
先日、知人が「クラシック音楽のコンサート」に生まれて初めて行ったとのこと。普段から勘が鋭く内省・内観も得意で、マルチタスクも平然と熟す私など足元にも及ばない知性あふれる人物なのだが、そんな知人の人生初体験には非常に興味が湧いたので感想を聞いてみた。
演奏はHIP(歴史的知識にもとづく演奏)を標榜する団体によるものだったようだ。初手でそこに行き着くのは、時代なのかそれとも文化資本"豊か"なネットワークに属していると言ったら良いのか……まずは聞いてきたものと同じ曲を聴いてみよう。(動画の演奏が当該コンサートと同じスタイルかどうかは、流石に証言からは判別できなかった)
モーツァルト:Sinfonia Concertante K 364
メンデルスゾーン:Symphony No. 3 Op.56 "Scottish"
知人によれば、モーツァルト K.364 はたまに同じフレーズが出てきたことには気が付いたが、ずっと一定に聞こえて、何度か意識が飛んだ と正直なもの。一方で、メンデルスゾーン Op.56 は とてもドラマチックだった と好評価。こちらは寝ずに済んだようだ。
この感想(証言)を聴いたとき、作曲家のスタイルと楽曲の目的を考えれば妥当に思えた。手がかりは非常に少ない。しかし感想は核心に迫っているように思える。これは、より広い社会への関心へと繋げることができそうだ。
では考察を始めてみよう。
2.知覚の条件:聴覚スキーマ
「ずっと一定」という知人のモーツァルト K.364に対する印象評価について、仮説としてはHIP(歴史的知識にもとづく演奏)がその「平坦さ」に拍車をかけている部分はありそうだ。HIPはモーツァルトが持つ古典派の安定感を殊更に「脱ロマン化」(=平坦化)する方向に作用するため、古典派のアンチであるロマン派(激しい起伏こそが感情"表現"として価値を持った)時代のメンデルスゾーンとの落差が増幅された可能性がある。例えばHIPでは何にでもビブラートをかけず、特定の箇所でビブラートを用いるが、そのことで現代的な演奏に慣れた耳、あるいはそもそも音楽に不慣れな耳には、感情の起伏に乏しい「平坦な」音色として知覚されるかもしれない。
しかしHIPであること以前に、そういった音楽に不慣れな、つまり訓練されていない耳には複数の旋律を分別できないという問題があるだろう。K.364 はヴァイオリンとヴィオラが対話を繰り広げる協奏交響曲であり、その二声の交錯が音楽上に会話劇を浮かび上がらせる。しかし知人は"会話"としてではなく一連の"音響の塊"として聴いたはずだ。実際「演奏内容はよくわからないが、生演奏の音を浴びる事自体が良いのよ」と知人は語っている。
注意してもらいたいのは、決して「耳の優劣」を問題にしているわけではない、ということだ。西洋音楽の訓練を受けておらず、モーツァルトの複数の旋律を分解できないからといって、知人の「耳が劣っている」などと言うつもりは毛頭ない。私だってバカ族の声楽やキューバのルンバを一聴して分解できはしない。複雑に絡み合う音響の中から各声部を分別して聞けるようになったのは、単に経験を積んだからに過ぎない。それ以前は塊として、あるいは混沌として聴こえていたのだ。
これはコリン・チェリーが1953年に報告した「カクテルパーティー効果」が起きなかった失敗例とも言える。
人間は複数の音声が混在する状況でも特定の流れを選択的に追跡することができる。この選択を可能とする音響ストリームの分離能力について、アルバート・ブレグマン(「聴覚の情景分析」提唱者)が1990年に音響特性に基づくボトムアップとトップダウンの二方向から説明し、とりわけ音域・音色が近接する声部を分別するにはトップダウン型、つまり聴覚スキーマによる期待が先立って有効だということを示した。例えば母親の声を聞き分けるようなことは、学習によって獲得されることを指摘した。
ヴァイオリンとヴィオラを別々の音響ストリームとして追跡することについては、何らかの学習が必要だということが支持される。ただしその学習が「文化的な経験」である必要はないのかもしれない。なぜなら近年深層学習を用いた音源分離が文化的スキーマなしに人間の聴覚系にかなり近い分離能力を獲得できることが報告されており、「文化的スキーマなくしては音源分離はできない」という強い主張の根拠としてブレグマンを援用することには慎重にならざるを得ない。
一方、音源分離の先にある層、二声の掛け合いを「会話劇」として把握することは音楽的(文化的)な理解の問題であり、こちらは文化固有の音楽語法への経験を通じた形成が実験的に支持されている(注1)。このことから、クラシック音楽における先天的かつ特権的な聴取能力(時に「音感」とも表現される)は、まずもって存在を疑わなければならない。
K.364の二声の掛け合いは、少なくとも音楽という文化的な理解の層において、相応の経験が求められる深層のドラマだと見たほうが良いだろう。
3.音楽様式にみる深層/表層の対比構造
訓練なき、つまりクラシック音楽における聴覚スキーマを持たない聴者(知人)がメンデルスゾーンに「ドラマ」を感じたのはなぜだろうか。Op.56「スコットランド」交響曲には、固有の聴覚スキーマが構築されていない状態でも「わからせる」要素が豊富にある。ピッチカーブやラウドネスの落差の大きさ、民謡にインスパイアされた馴染みある旋律、和声操作の結果起こる時間軸上の音色の大きな変化、勇猛さを感じさせるであろう4本のホルン+2本のトランペット、ティンパニーの導入による打撃的な非周期的な成分の増大……これらは表層のドラマであり、感得するのに特別な訓練を前提としないような配慮がある。勿論、Op.56の深層に奥ゆかしいドラマが無いとは言わないが、それは知人には届かなかった、ということだ。
ここに、ひとつの対比構造があることを指摘したい。
深層に潜むドラマ(前段)
表層のドラマ
前者(深層)にアクセスするためには、音楽文化に対応する固有の聴覚スキーマを基盤とした聴取が必要だが、後者(表層)にはそれ無しにアクセスできるのだろう。
これと同じ構図は、「音圧戦争」にも見られたし、音楽に隣接する話題としてはボカロ音楽を中心に2010年代から和製MVにおける主要技術となった視覚表現「キネティック・タイポグラフィ」も深層の歌詞内容よりも、表層のドラマを強く打ち出すものだ。
音楽に限らず他の分野でもありそうだ。最近だとYouTuber達が話の内容よりも先ず音声品質の向上に注力するという現象を思い出す。(1:09:12~)
(0:52〜)
深層/表層ドラマの対比が色濃く出るのは、最近だと生成AIイラストの世界かもしれない。人の手によるイラストと生成AIイラストの深層/表層の対比については、認知科学のアイトラッキング研究が間接的な根拠を与えているにもかかわらず、見た限り美学方面では議論にすらなっていない。
話を戻すと、音楽の深層にある評価対象はその音楽における聴覚スキーマを持つ者にしか触れることができないが、音声の品質という表層にある特徴はその聴覚スキーマを持たない者でも触れ得る。持つ者と持たざる者、その両者ともに言えることは、一次観察が知覚上の顕在化する特徴に対して最適化されている、ということだろう。
4.経済の論理:ポスト争奪戦
前述の深層/表層ドラマの対立について歴史の面からも考察してみたい。Op.56を作曲したメンデルスゾーン(1809-1847)の時代、いわゆる「ロマン派(前期)」の時代は、作曲家の社会的立場が根本から変わった。作曲家は貴族や教会といったパトロンによる経済支援(パトロネージュ)ではなく、聴衆による直接的な支持によって生計を立てる方向にシフトした時期といえる。
リストやパガニーニ達のスターとしての演出、演奏時の動作による視覚的スペクタクル……それらは聴衆の反応を引き出す最適化を重ねた姿であろう。時代錯誤(聴衆のフィードバック精度の大きな差を無視)を承知で言えば、彼らは現代でいう音楽YouTuber的立ち位置に居た。
メンデルスゾーンはというと、ドイツのライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に務めていた実務家であり、そこでは「オリジナリティ」なる"文化資本豊か"な層の芸術的関心と、"市民階級"の趣味という反りの合わない双方から板挟みにされる立場にあった。Op.56 は楽団を辞め、国家公務員(宮廷の楽長)となった際に、イギリスとの外交における"案件"として制作したものだ。(注2)
興味深いのは、ロマン派において"天才"というイデオロギーが「群衆を超越した存在」と「群衆に認められなければならない存在」という矛盾を抱えていた点だ。この矛盾は、大衆受けへの最適化を「崇高な芸術的使命」によって言い訳してきた。哲学者のアドルノなら「隠蔽」だと批判するだろうし、社会学者のブルデューなら経済的な利益を度外視する"ふり"によって「象徴資本」を蓄積する倒錯した戦略、と記述するだろうか。
かの有名なブラームスとワーグナーらによる「絶対音楽vs総合芸術」という「崇高な芸術的使命」を争う論戦を隠れ蓑に、「知的な探究vs知覚への最適化」という二つの志向の対立は続いてきた。こうした対立からは、ロマン派が単なる感情過多の時代ではなく、音楽家の社会的地位と経済的自立、音楽というフィールドにおける「資本」をめぐる闘争の場であったことが見えてくる。
5.社会構造の問題:探究かバズか
「知的な探究vs知覚への最適化」の二項対立は特に音楽に固有というものでもなく、わりと社会一般に見られる構図だ。
コミュニティ内部の研究者・実践者がその道の"深み"を守ろうとする力と、新規参入者を増やしてコミュニティを拡大しようとする力の衝突……この構造はあらゆる領域で反復される。寿司と鮨🍣、学術における査読付き論文と民間の科学記事、寿司とスシ🍣、伝統芸能の正統的実践と布教のための近代化、寿司とSUSHI🍣。
前述のブルデュー風にいえば 「正統性・本物性」という幻想が生み出したフィールドを拠り所にする者にとって、参入コストの高さは自分たちの「象徴資本」の価値を保証する原理だ(注3)。その「敷居を下げる」ことは「資本」の価値の下落を意味する。したがって、このジレンマはイデオロギー的に不可視化され、往々にして正統性を巡る争いに変換される、ということが続いてきた。
正統性を巡る争いの「落とし所」として考えられるのは以下の二つ
深化の勝利:純度はそこそこ保たれるが、先細り・閉鎖的に
知覚への最適化の勝利:コミュニティは拡大するが、内側に持っていた論理が欠落・空洞化
日本の音楽批評で起きたのは、後者の変形とも言える事態ではないか。批評のフィールドが成立する前に、主観的で批判の取っ掛かりに乏しい「審美主義的な感覚主義」が拡大し、緊張関係が立ち消える体質になってしまったのだろう。単に対立が見えないというより、対立を対立として捉える言語が存在せず、批評のフィールドに言説は固定されないまま他の社会システム(経済=売上、政治=文化政策、共感=感動の共有)に寄生し、フワフワと漂って接地しなかった。
6.対立を可視化する言語の重要性
コミュニケーションにおいて対立を可視化することは、単に記述するだけでは為し得ない。
まず対立として認識可能にする批評的な語彙が前提の段階で必要だ。そうしなければ、直感はすぐに立ち消えてしまい、固定されない。
そして、そうした批評言語はインフラとして、観察の枠組みとして整備される必要がある。「審美主義的な感覚主義」への疑念や異議申し立てが散発的に存在していても、それが「対立」として蓄積・参照されなければ、ニクラス・ルーマンのシステム論的な「システム記憶」は形成されない。語彙の不在が「システム記憶」を阻害する。
この意味で批評言語のインフラ構築は、コンテンツの生産であると同時に、対立を可視化するための観察装置の設備・維持でもある。そしてそれは、ルーマン的に言えば、二次観察の基盤を整えることに他ならない(注4)。
7.第三項の出現:現実社会と社会学的分析の距離
それにしても音楽産業界では、前述の二項対立に第三の項が出現し、複雑化している現状がある。
伝統の内部にいる保守派(知的な探究サイド)
アクセシビリティ志向の生産者(知覚への最適化サイド)
デジタル・プラットフォーム内のアルゴリズム←New
この新しい項であるアルゴリズムは、企業のマーケティング部門に属し、人間の判断を迂回するゲートキーパーとして立ち、人類史上かつてない規模と精度での"パーソナライゼーション"を通して知覚の最適化を目指す。
これは従来の二項対立をある側面では無効化しつつ、別の形でさらに深化させることになる。
従来の二項対立は、少なくとも「正統性をめぐる争い」という共通の土俵に立っていた。アルゴリズムはその土俵自体に立たず、エンゲージメント指標(再生数、離脱率、シェア数など)を最適化するのであって、「これは深い音楽か」「これは大衆迎合か」などの問いを処理しない。従来の対立の言語が通用せず、無効化している側面がこれだ。
しかし実際には、アルゴリズムは中立ではない。知覚上での顕在性が高いコンテンツを構造的に有利にする設計になっているため、二項対立の一方(知覚への最適化サイド)に恒常的に加担するかたちになる。保守派は今や、アクセシビリティ志向の生産者と争うだけでなく、その生産者を増幅するインフラとも戦わなければならない。対立は対称から非対称へと変質し、ある意味でより深刻になった。
この二重性(無効化と深化)は、前の6節で論じた「批評言語インフラの不在」問題を別の角度から照らす。批評言語が形成されないまま放置されてきた空白に、言語不要の最適化マシーンが参入したという構図になる。
悪いことに、このことを社会学的に分析することには困難が伴う。なぜならアルゴリズムには共通して、知見が多かれ少なかれ「戦略的に開示」されるという構造があるからだ。社会学がアクセスできるデータには不可避な偏りがある。
従来の二項対立についても事態は複雑だ。社会学は20世紀初頭のゲオルグ・ジンメル以来、集団の境界維持・インサイダー/アウトサイダーの権力動態・文化資本をめぐる闘争として、この構造を精緻化してきた(注5〜7)。大きな転換点は1996年のオムニボア(雑食性)・テーゼで、高い文化資本を持つ人々がジャンル横断的に趣味を持つことが実証され(注8)、国際的にも確認された(注9)。
ところが、そのオムニボア・テーゼを含む社会科学の実証研究自体が、2018年頃の「再現性危機」によって揺らいだ。キャメラーらはネイチャー誌およびサイエンス誌掲載の社会科学実験21本を追試した結果、13本(62%)が再現されたと報告した(注10)。しかし効果のほどは平均して原論文の約50%にとどまり、再現されたとしても実用的かどうか、という問題が残る結果となっている。
8."漏洩"される業界の暗黙知
この状況において、もう一つ現象が観測できる。音楽産業がスマート・プラグインの普及やプラットフォーム変化によって構造転換する中、危機感から業界のエンジニアや作曲家達が、かつては企業内のブラックボックスとして存在していた知識(Tips)をネット上で公開し、人気を集めようとしている。
ブルデュー的に読めば、これは業界内で急速に失われつつある専門家としての資本(サウンド・メイキングの実践知など)を、教育コンテンツ市場における「象徴資本」へと変換する戦略であり、「(元)内部者」という資格が商品価値になる、というわけだ。
しかしその過程で、提供される知識は劣化するだろうことは想像に難くない。エンゲージメント最大化のために編集・演出され、あるいは「意外と知らない」「◯◯の真相」などといった手堅い物語の鋳型に嵌め込まれ、視聴を無駄に長く継続させるために選択的に開示されたりする。前述(3節)のYouTuberも述べていたように、動画投稿のための作業が立て込むと、本来提供されるべき内容自体が後退し、「知覚の表層への最適化」という圧力に屈するかたちになるのは言わずもがなだろう。
逆説的なのは、彼らが語る内容が「いかに音楽産業が聴衆を操作してきたか」でありながら、その語り口が同じ所作をなぞっていることだ。この自らへの言及という構造が意識されない場合、知識への誠実さは粛々と損なわれていくだろう。
前述のプラットフォーム企業のアルゴリズムの場合は社会学がアクセスできるデータには構造的な偏りがあって不可視なのに比べ、こちらの場合は可視化されてはいるのに動機に汚染された知識として流通し、それが更に音楽システムを汚染する。どちらも批評的に観察すべき構造だ。
9.観察の考古学として
知人の話に戻ろう。
K.364の『平坦さ』は、モーツァルトの感情が貧しいのではなく、声部の追跡あるいは音楽的理解に必要な経験が無いことによって、構造の把握にまで至らなかった結果だ
Op.56 の「ドラマ」は、メンデルスゾーンの感情が豊かというより、表面上のダイナミクスへの、聴覚スキーマなき「耳」の率直な応答だ。
感想は音楽に対するものというより、自分の知覚条件に対して正直で正確だった。だがそれでいい。従来の規範的な鑑賞・批評の態度ならば「より深く聴け」などという要求が為されるだろうが、それは個々人の知覚条件の差異を無視した単なる"圧迫"でしかない。必要なのは外部から押し付けられる規範ではなく、内省から出ずる動機だ。鑑賞・批評の初動としては、自分の知覚がどこまで届いているかを観察できることに注力すべきだ。
これは決して謙虚さなどという美徳の話ではなく、批評の精度に関する制度として設定されるべきものだ。
本記事の考察では、感想の下の知覚の条件を掘り起こすことから始めた。その下には音楽様式の歴史が埋まっていたし、更に掘れば経済の論理が顔を出し、掘り進めると社会構造に行き着いた。

さて、この記事の方法論は己にも適用されねばならない。
K.364の二声の掛け合いは、少なくとも音楽という文化的な理解の層において、相応の経験が求められる深層のドラマだと見たほうが良いだろう。
私のこの主張自体もまた、掘削の対象になるだろう。
「私には聴こえる/あなたには聴こえない」ということを証明することはなかなかに困難だ。訓練された聴者が「"会話"に聴こえた」と語るとき、それは純粋に聴覚的な経験の証言なのか、周辺知識まで動員した事後的な再構成なのか、あるいはクラシック音楽界において「象徴資本」として機能する語り(権威の誇示)の慣習への参与なのか。それらをきちんと分別する方法は現時点では存在しない。1980年代後半からスボトニックがアドルノを的外れながら批判したときの論理(注11)がそのまま刺さるが、「深く聴く」という主張はその真偽に関わらず、ブルデューのいう「ディスタンクシオン(区別、差異)」を生産する機能を持ちうる。
批評者自身の観察もまた、観察の対象となる。「観察の考古学」にはその意味も込めた。
もし、この発掘調査をしなければどうなっていただろうか。最初の感想が直接「音楽の評価」になって終わってしまっていたのではないだろうか。これらの各層と対立を可視化する言語の不在こそが、生きた音楽批評に出会うことのない、この惨状の原因ではないか。
批評のための言語というインフラを整備していくことは、この層自体の存在を可視化するはずだ。
知覚の表層から構造の深層に視点を移すという所作は、音楽・批評・社会、どれにとっても必要なことだ。古事記にもそう書かれている(注12)。
注記
注1: アルバート・ブレグマン 聴覚情景分析(1990)著者本人の公開ウェブサイト章要約ページ, 「ASAは先天的か」解説ページ
ブレグマンは音源分離を「プリミティブ(ボトムアップ)」と「スキーマ・ドリブン(トップダウン)」の二層で記述した。後継の「計算論的聴覚情景分析(CASA)」は実用的な精度に届かなかったが、深層学習による音源分離システムがこれを超えてきている。音楽的理解の層については、ピアース(2018)およびハウマン他(2018)を参照。
マーカス.T.ピアース Marcus T Pearce,「Statistical learning and probabilistic prediction in music cognition: mechanisms of stylistic enculturation」(2018)音楽的能力が言語能力の形成と同様に、対象となる音楽への経験を通じて時間をかけて形成されること(Musical enculturation,音楽的な文化適応)を実験で検証している。
ハウマン他 Haumann et al. 「Influence of Musical Enculturation on Brain Responses to Metric Deviants」(2018)Musical enculturation が拍節知覚に与える効果を神経科学的に検証している。
注2:ジュリアス・レーダー・カールソン Julius Reder Carlson「Mendelssohn and His Music in Restoration-Era Prussia」(2015) メンデルスゾーンは1835年-1841年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者を務めていた。また、Op.56はプロイセン宮廷の楽長に着任後の1842年初演で、カールソンによればスコットランド風の曲が「スコットランド風」という副題を付けられることなく英国に献呈されることで、深層ではプロイセン国内の少数派に対して「英国におけるスコットランドのように平和的に統合されよ」という寓意が込められていたように機能した、とのこと。
注3:ピエール・ブルデュー Pierre Bourdieu「 La Distinction, Éditions de Minuit」(1979)の英訳「Distinction: A Social Critique of the Judgement of Taste」(1984)
注4:ニクラス・ルーマン Niklas Luhmann『Die Kunst der Gesellschaft , Suhrkamp, Frankfurt am Main』(1995)の英訳 「Art as a Social System」(Eva M. Knodt 訳 Stanford University Press, 2000) 「二次観察」については§2を、「システム記憶」については§3および§7を参照。本文での応用は芸術システム論を批評言語へ拡張する解釈的使用
注5:エリアス&スコットソン Norbert Elias & John L. Scotson「The Established and the Outsiders」(Frank Cass, 1965)邦訳 『定着者と部外者』(大平 章訳,法政大学出版, 2009)

注6:ハワード・ベッカー Howard S. Becker『Art Worlds』 University of California Press(1982) 邦訳 『アート・ワールド』ハワード・S・ベッカー著 後藤 将之訳
注7:レイヴ&ウェンガー Jean Lave & Etienne Wenger「Situated Learning: Legitimate Peripheral Participation」(Cambridge University Press, 1991)
注8:ピーターソン&カーン オムニボア・テーゼRichard A. Peterson & Roger M. Kern「Changing Highbrow Taste: From Snob to Omnivore」(American Sociological Review, Vol. 61, No. 5(1996), pp. 900–907.)
Semantic Scholar
注9:ベネット他 Tony Bennett et al.「Culture, Class, Distinction」(Routledge, 2009)ベネットらは英国においてもオムニボア傾向を確認しており、これをカント的な審美志向・スノッブ的な文化実践・教育的な知識などと並ぶ複数の文化的志向のひとつとして位置づけた。
注11:ローズ・ローゼンガード・スボトニック Rose Rosengard Subotnik『Deconstructive Variations: Music and Reason in Western Society』(University of Minnesota Press,1996)スボトニックは1970年代後半からアドルノをアメリカの音楽学に本格的に持ち込んだ人物の一人として知られ、ニュー・ミュージコロジー(新音楽学)の先駆者でもある。1980年代後半からはアドルノの弁証法的な思考の軌跡から都合よく切り抜きを行い、彼を「頭の固いドイツ系エリート主義者」といった単なる「モダニズムの権化」へと矮小化したうえで、藁人形論法的にアドルノを批判し始める。
注12:古事記 ニンジャスレイヤーwiki 重要な事柄はだいたい古事記に書かれている。
