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【短編集‐花の冠】第二三話『風を運ぶ者(五)』

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風を運ぶ者(五)―グラージュ―


風が、淡く吹いた。
空気が揺れ、まぶたの裏に、朝の光が滲んだ。

戦の始まりの朝だった。
空は白く、霧が立ちこめていた。
野営地の端、まだ焚き火の残り香が漂う場所で、過去の俺はひとり立っていた。

フェイルが剣を背負い、出立の支度をしていた。
その横顔には、不吉な影が張り付いていた。

「おい」

過去の俺が声をかける。
フェイルが振り返る。

「昨日、言いそびれた」

「ん?」

「……俺は、お前のことを、友だと思っている」

フェイルの顔に、驚きが浮かび、やがてそれは穏やかな笑みになった。

「そうか、あんたがそう言ってくれるなら……そうか、ハハハ」

 少し照れくさそうに、けれど確かに嬉しそうに。

「俺は、ずっと前から、そう思ってた。ありがとう、友よ」
 

それが、最後の朝だった。 

*******************

気が付けば、俺とサリムは戦場に立っていた。
あの記憶の、泥と血の匂いがよみがえる場所に。
ただの傍観者として。

記憶の中の戦場だ。
雨が降っていた。音もなく、ただ重たく地面に叩きつけるような冷たい雨。

視界のすべてが滲んでいた。
血と泥と、怒号と、鋼の音――

戦場で、大剣をまるで小枝のように振り回す俺。
その背後に、小柄な敵兵が忍び寄る。
そして、その刃が俺を襲う。
その瞬間――

フェイルが過去の俺を突き飛ばし、刃をその身で受けた。
喉が切り裂かれ、血が吹き上がった。

過去の俺は、その姿を見て叫び、敵に斬りかかった。
その刹那、フェイルは泥水の中に崩れ落ちた。

そのとき、俺――“今の俺”は、記憶の中の戦場で、
フェイルの元に駆け出していた。

フェイルは泥の中で横たわっていた。
喉から空気が漏れ、声にはなっていない――
あの時は、そう思っていた。 

でも今、俺には聞こえた。
声が、風の中から立ち上ってくる。 

「死ぬ機会を待っていたんだ。
 虚勢を張って生きてきた……
 家にも、妻にも……子供にも……
 そんな自分が嫌だった。
 全部捨てて逃げ出したかったんだ……」

フェイルの眼は何もない空間を見ていた。
 
「戦場はいつだって死にあふれていた。
 ありがたいことに、死への感覚は麻痺していった」

喉から「がぼっ」と、血を吐く嫌な音が上がる。

「でも……誰かのせいにしないと俺はダメなんだ」

「最後に……俺は、お前を助けた。
 奴隷だったお前を。
 それが俺の“正義”だ。……それは国にも、家にも、家族にも伝わる。
 美しい正義の男として、俺は人の中で生きていける」

「あんたには……俺が、弱さを抱えて生きてきたことを……そしてその重荷を背負わすことを許してほしいんだ」

誰よりも強いと思っていたフェイルは、それを隠して生きていた。
そして、それを隠し通すために、死を選んだ――

今になってようやく届いたフェイルの声は、
救いではなく――残酷な答えだった。

それでも、俺は……そっとその頬に触れた。

「それでもかまわん……フェイル」

彼の顔が、わずかに、でも確かに緩んだ。
微笑みが浮かび、そして――そのまま、静かに目を閉じた。 

過去の俺は、まだ剣を振るい続けていた。
今の俺は、ようやく“あの時の言葉”に辿り着いた。

風が、雨を裂くように吹き抜けた。
泥と血と、すべてを静かに連れて行った。

*******************

 
気がつけば、腕の中にいたフェイルは消えていた。
手には、青表紙の本が握られていた。
視界が淡く反転し、戦場の光景が霧のように溶けていく。

次の瞬間、俺は図書館の中にいた。
大木が伸びる天井から、柔らかな光が差し込んでいる。
さっきまでの凄惨な戦場が、幻だったかのように遠い。

隣のサリムが、俺の手の中の本を見つめていた。
俺は静かに、それを机の上に置く。

「僕には聞こえなかったけど、フェイルは最後に何を言っていたの?」

「自分はこれで、幸せだったと……」

「じゃあ最後に話ができて、フェイルは……救われたのかな?」

サリムの声が、天井に吸い込まれていく。
木漏れ日が、本の背表紙を優しく照らしていた。

「あいつには死こそが救いだったんだ。その理由が必要だった」

しばらく沈黙が流れる。

「じゃあ、フェイルの最後の声を聴けて、グラージュは救われたの?」

俺は目を閉じた。
あの朝の笑顔。
戦場で見せた、あの微かな微笑み。
どちらも、今も胸の奥で疼いている。

「背負うものが増えたよ……でも、最後に名前を呼べてよかったとは思ってる」

大木の根元から、湿った土の匂いが立ちのぼる。
記憶の底の痛みと重みは、まだ生々しく残っていた。

「……それって、呪いみたいだね」

「たくさんの命を奪った俺には、それが必要なんだろう」

救いはそこにない。

「ねえ、グラージュ。フェイルのこと好きだった?」

「……ああ、あいつは今でも、俺の唯一の友だ」

風が静かに吹いた。
机の上のフェイルの本は眠るように動かず、ただその場にあった。

風は俺の心を、そっと通り抜けていった。

《風を運ぶ者 終》


➡第二四話 『語り変え』 

5月29日 12:00



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