【短編集‐花の冠】第二三話『風を運ぶ者(五)』
風を運ぶ者(五)―グラージュ―
風が、淡く吹いた。
空気が揺れ、まぶたの裏に、朝の光が滲んだ。
戦の始まりの朝だった。
空は白く、霧が立ちこめていた。
野営地の端、まだ焚き火の残り香が漂う場所で、過去の俺はひとり立っていた。
フェイルが剣を背負い、出立の支度をしていた。
その横顔には、不吉な影が張り付いていた。
「おい」
過去の俺が声をかける。
フェイルが振り返る。
「昨日、言いそびれた」
「ん?」
「……俺は、お前のことを、友だと思っている」
フェイルの顔に、驚きが浮かび、やがてそれは穏やかな笑みになった。
「そうか、あんたがそう言ってくれるなら……そうか、ハハハ」
少し照れくさそうに、けれど確かに嬉しそうに。
「俺は、ずっと前から、そう思ってた。ありがとう、友よ」
それが、最後の朝だった。
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気が付けば、俺とサリムは戦場に立っていた。
あの記憶の、泥と血の匂いがよみがえる場所に。
ただの傍観者として。
記憶の中の戦場だ。
雨が降っていた。音もなく、ただ重たく地面に叩きつけるような冷たい雨。
視界のすべてが滲んでいた。
血と泥と、怒号と、鋼の音――
戦場で、大剣をまるで小枝のように振り回す俺。
その背後に、小柄な敵兵が忍び寄る。
そして、その刃が俺を襲う。
その瞬間――
フェイルが過去の俺を突き飛ばし、刃をその身で受けた。
喉が切り裂かれ、血が吹き上がった。
過去の俺は、その姿を見て叫び、敵に斬りかかった。
その刹那、フェイルは泥水の中に崩れ落ちた。
そのとき、俺――“今の俺”は、記憶の中の戦場で、
フェイルの元に駆け出していた。
フェイルは泥の中で横たわっていた。
喉から空気が漏れ、声にはなっていない――
あの時は、そう思っていた。
でも今、俺には聞こえた。
声が、風の中から立ち上ってくる。
「死ぬ機会を待っていたんだ。
虚勢を張って生きてきた……
家にも、妻にも……子供にも……
そんな自分が嫌だった。
全部捨てて逃げ出したかったんだ……」
フェイルの眼は何もない空間を見ていた。
「戦場はいつだって死にあふれていた。
ありがたいことに、死への感覚は麻痺していった」
喉から「がぼっ」と、血を吐く嫌な音が上がる。
「でも……誰かのせいにしないと俺はダメなんだ」
「最後に……俺は、お前を助けた。
奴隷だったお前を。
それが俺の“正義”だ。……それは国にも、家にも、家族にも伝わる。
美しい正義の男として、俺は人の中で生きていける」
「あんたには……俺が、弱さを抱えて生きてきたことを……そしてその重荷を背負わすことを許してほしいんだ」
誰よりも強いと思っていたフェイルは、それを隠して生きていた。
そして、それを隠し通すために、死を選んだ――
今になってようやく届いたフェイルの声は、
救いではなく――残酷な答えだった。
それでも、俺は……そっとその頬に触れた。
「それでもかまわん……フェイル」
彼の顔が、わずかに、でも確かに緩んだ。
微笑みが浮かび、そして――そのまま、静かに目を閉じた。
過去の俺は、まだ剣を振るい続けていた。
今の俺は、ようやく“あの時の言葉”に辿り着いた。
風が、雨を裂くように吹き抜けた。
泥と血と、すべてを静かに連れて行った。
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気がつけば、腕の中にいたフェイルは消えていた。
手には、青表紙の本が握られていた。
視界が淡く反転し、戦場の光景が霧のように溶けていく。
次の瞬間、俺は図書館の中にいた。
大木が伸びる天井から、柔らかな光が差し込んでいる。
さっきまでの凄惨な戦場が、幻だったかのように遠い。
隣のサリムが、俺の手の中の本を見つめていた。
俺は静かに、それを机の上に置く。
「僕には聞こえなかったけど、フェイルは最後に何を言っていたの?」
「自分はこれで、幸せだったと……」
「じゃあ最後に話ができて、フェイルは……救われたのかな?」
サリムの声が、天井に吸い込まれていく。
木漏れ日が、本の背表紙を優しく照らしていた。
「あいつには死こそが救いだったんだ。その理由が必要だった」
しばらく沈黙が流れる。
「じゃあ、フェイルの最後の声を聴けて、グラージュは救われたの?」
俺は目を閉じた。
あの朝の笑顔。
戦場で見せた、あの微かな微笑み。
どちらも、今も胸の奥で疼いている。
「背負うものが増えたよ……でも、最後に名前を呼べてよかったとは思ってる」
大木の根元から、湿った土の匂いが立ちのぼる。
記憶の底の痛みと重みは、まだ生々しく残っていた。
「……それって、呪いみたいだね」
「たくさんの命を奪った俺には、それが必要なんだろう」
救いはそこにない。
「ねえ、グラージュ。フェイルのこと好きだった?」
「……ああ、あいつは今でも、俺の唯一の友だ」
風が静かに吹いた。
机の上のフェイルの本は眠るように動かず、ただその場にあった。
風は俺の心を、そっと通り抜けていった。

《風を運ぶ者 終》
