見出し画像

【短編集-花の冠】第十五話『記憶の村(一)』


<< 前話 【一覧】 次話 >>


記憶の村(一)-サリム-


扉を開けた瞬間、時間が反転したようだった。
あの夜の前、まだすべてが無事だった頃。
懐かしさと、胸を刺すような痛みが同時にこみあげる。

台所に立つ母の背。
振り返った父の目元に浮かぶ穏やかな皺。

「あら……姿が見えないと思ったら、どこに行ってたの?」

母が、笑いながら言った。
視線の先にいたのは――僕だった。
まだ言葉を覚えない、幼いころの僕。

小さな手には、一輪の白い花が握られていた。

「花を摘んできてくれたのね。ありがとう、サリム」

母はその花を受け取って、嬉しそうに匂いを嗅いだ。

ふわりと、空気が揺れた。
その香りが僕のところのまで届く。
焦げた木と、土の匂い。そしてその奥に、ほのかに混じる、花のような甘い香り。
それは遠い記憶と重なっていた。
橋の前に座った夜。
焚き火のそばで感じた匂いだ。

僕は、たまらず声をかけた。

「母さん……!」

けれど、母は反応しなかった。
まるで僕の声が、この世界に存在しないかのように。

「母さん、ここにいるよ……」

もう一度言った。けれど、母は笑ったまま、花を花瓶に挿していた。
僕の方を見ることもなく、ただ幼い僕に向かって微笑み続けていた。

それから、母はしゃがみ込み、幼い僕をそっと抱き上げた。
その動きの一つひとつが、あまりにも自然で、当たり前の温かさに満ちていて――それを見ているだけで、胸の奥が締めつけられた。

僕は、何も言えずに立ち尽くした。
いや、言ったけれど、届かなかった。
そのとき、ようやく理解した。

これは、誰かの記憶の中なのだ。

後ろから、グラージュがそっと囁いた。

「三人で過ごす家の中の記憶……
 たぶん、これは“母親の記憶”なのだろう」

「どうして、わかるの?」

「いや……わからん。ただ、そう感じる。
 “あたたかさ”の記録なんだ。お前を見つめる、あの眼差しが、
 ……あまりにもやさしい」

母は花を花瓶に挿し、テーブルを整えながら、父に声をかけていた。

「ねえ、ナージャ。今日の畑はどうだった?」

「ああ、ミーナ。まあまあだ。豆がいい芽を出してる」

「今年はいい春になりそうね」

他愛のない会話。
けれど、それが胸に沁みた。
こんなふうに、僕も家族と過ごしていたんだ……

僕は、そこから動けなかった。
この温かさを、もう一度抱きしめたかった。
でも、手は届かない。
風が、そっと通りすぎていった。

《続く》


➡第十六話 記憶の村(二)

5月16日 12:00



TALESでも連載中なので、そちらにも♡ください


ギネス挑戦中!
リレーエッセイ「テーマ:チャリティ」


現在、中編小説『コントラクター』連載中!


いいなと思ったら応援しよう!