【短編集‐花の冠】第十四話『最初の本』
最初の本-サリム-
「……グラージュ、今の音……?」
机の奥、静寂の中に確かに響いた一冊の落下音。
僕たちは顔を見合わせると、自然と音の方へ足を進めた。
びっしりと本が並んだ棚に、歯が抜けたように、一か所だけ空欄があり、
その前には、一冊の本が落ちていた。
くすんだ赤色。革のような装丁。
手に持つと、うっすらと焼けたような匂いがした。
けれど焦げ臭さとは違う、
どこか甘くて、懐かしい香りだった。
「多分、それが“最初の本”なんだろうな」
グラージュが静かにそう言った。
表紙には何の文字もなかった。
開くと、そこには一枚の絵があった。
木造の家々。青い空。
井戸のまわりで笑う子どもたち。
そのそばに、大きな一本の木。
幹は何人もで抱えなければ届かないほど太く、まるで大地に刺さった塔のような……
古い記憶のなかでも、いつも変わらず、そこに在った木。
僕の村の“始まりの木”――アダルの木。
……もしかして、ここは……
「グラージュ。本を持って外に出たらいいんだよね?」
「どうなるかはわからんが、そういうことなのだろう」
入口の扉へ向かう途中、
大木の前に置かれた机の上の本を、ちらりと覗き込んだ。
『誰かの記憶が、お前たちを待っている』
その文字は、何を意味しているんだろう。
扉の前に立つ。
グラージュは何も言わずに隣にいた。
僕は、“最初の本”を胸に抱え、重たい扉に手をかけた。
風が流れ込んできた。
湿った木の香り。温かい土の匂い。
胸の奥にしまった記憶が、一斉にざわめき出す。
扉も図書館も消え、僕たちは景色の中にいた。
そびえたつアダルの木。
懐かしい家々。
忘れるはずがない。
そこは、かつて僕が住んでいた場所だった。
でも最後に見たとき、グラージュと旅立った日とは違っていた。
瓦礫だった家々はちゃんと建っていて、
干された洗濯物が風にそよいでいる。
大人たちの声。
どこかで笑う子どもの声。
匂い。音。空。
ぜんぶ……知っている。
知っているのに、どこか遠い。
でも、思い出よりも色が濃くて、あたたかかった。
まるで、誰かが描き直した記憶の中に入り込んだような。
「……ここは、本当に僕の村なの?」
隣にいたグラージュに問いかけた。
でも返事はなかった。
村の奥を見つめる横顔には、沈黙より深い何かがあった。
この場所には、グラージュなりの記憶があるのかもしれない。
手の中の本が、すこし熱を帯びていた。
もう一度開いてみるとそこには、
さっきとは違う絵が描かれていた。
小さな赤子を抱く女性。
その赤子を覗き込む男。
赤子の手には、白い花が握られていた。
「ねぇ、グラージュ。
ここは、僕がいた村だと思う?」
「ん。あ、あぁ、そうかもしれんな。
だが……あの頃とずいぶん違う」
「うん。たぶん、戦に巻き込まれる前の、野盗に焼き払われる前の……
たぶん、一番賑やかだったころの村なんだと思う」
「やはりここは過去なのか?」
「わからないけど、たぶん。
僕がまだ赤ん坊の頃の……」
「俺たちは、今何を体験しているんだ?」
そのグラージュの声は、まるで世界の外側で響いているように、遠く感じた。
「……会えるの?」
「サリム?」
僕は問いながら、気がつけば走り出していた。
焼かれる前の、あの家へ。
もしかしたら、会えるのかもしれない。
本当に過去に来たのであれば――母と父に。
その背中を、確かめたかった。
その声を、もう一度、聴きたかった。

《続く》
