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日本の受験の在り方を問うー塾バイトで会った中学生たちー【中編】

ここでは、塾バイトで目の当たりにした、日本の受験制度の在り方に対する違和感を書いています。

今回は、なぜ受験制度がここまで存続・維持されているのかという視点から、話を書いて行こうと思います。

前編が気になる方はこちら↓


受験の構図:なぜ周りの人間は受験生を応援するのか

入学試験日を間近に控えたある日、塾長と同僚の先生が話していたことがあった。実際に学校現場で教員として働いた経験のあるらしい、私よりも年上の先生だった。

「受験なんて人生にそう何回もある機会ではないから、みんなには頑張って欲しいですね。」

本当はもっと長い文章だったが、だいたいこのような趣旨のことを同僚の先生は語っていた。私は黙っていたが、その先生の意見に全く共感できなかった。

たとえば、通勤中の大人たちに向けて、駅の壁や柱なんかに

「あの時のシビれをもう1度。受験生体験、してみませんか?」

こんな広告を駅に貼り出したとしよう。

日本で教育を受けて育った人の殆どは、過去に受験というものを一度は経験しているかもしれない。受験勉強というものがかなりの労力と時間を要し、決して楽なものではないということを、身を持って知っているはずである。そんなポスターを前に、多くの大人は「ぐえっっ……」と顔をしかめるであろう。正直、

「もう二度とやりたくありません」

と思っている大人が大半なのではないだろうか。釣れる客など、一部の好事家に決まっている。

受験が苦しいものであるとわかっているはずなのに、なぜ多くの大人はああも受験生を応援してしまうのか。
それは当然、受験の合否によって得られる学歴が就職に直結し、将来の生活のし易さに影響を及ぼすからである。受験の結果が、その人の人生に直結する。自分の子どもにはより良い安定した将来を歩んで欲しいと思うから、親を含めた家族は受験生を応援することになる。受験には、こういった倒錯的な面がある。

もしも受験生が途中で勉強を諦めて逃避しようものなら、周りの人間は全力で引き戻そうとする。

「絶対受かるから」「みんな乗り越えてきたものだから」「あなたならできる」

というようなことしか言わなくなる。煩いほどの激励を滝のように浴びせ、苦難を越えた先に希望はあると説き伏せ、挙句の果てにキットカットなんか買って来たりする。

それは言い方を変えれば、長時間机に向かい続けること、勉強以外のやりたいことを我慢させること、詰め込み教育を肯定し、「あなたが今受験勉強で苦しんでいるのは、正しい苦しみなんですよ」というメッセージを送ることになる。

多くの大人は「子どもにはできるだけ苦しんで欲しくない」と思っているだろう。しかし、もしも苦しみが

正しい苦しみ/正しくない苦しみ

この2つ分けられるのだとしたら、受験の苦しみに関しては、
「正しい苦しみ」
に分類されてしまう場合が多いのではないだろうか。

このように、日本で受験というシステムが維持されている要因として、受験生を応援する周りの人間の存在も大きいはずだ。中央に受験生がいて、受験はしないが応援する気力はある外部の人間がその周りを囲っている。応援者側の人間は、受験生よりも圧倒的に数が多い。
そこで塾・予備校・通信教育といった産業が受験生、応援者側の人間に"サポート"という形で影響を及ぼす。受験生応援を謳ったお菓子やグッズなどの商品が販売されるのは、そこに需要があるからである。

受験をする人と、応援する人。
個人も企業もメディアも含めて、社会全体で一緒になって受験生を応援する。そんな雰囲気が醸成される。

受験とはこんな構図でできているのではないかと、私は思っている。

受験の美化:"努力が実る"というストーリー

漫画『ドラゴン桜』(三田紀房著)しかり、映画『ビリギャル』(原作:坪田信貴著)しかり、受験をテーマとするフィクション・ノンフィクション作品は数多く存在する。
これらの作品が人気を博すのは、"努力が実る”というストーリー性に焦点が当てられがちだからである。ペーパーテスト1枚で実力を図る受験には、一生懸命に勉強して当日に結果さえ出せれば誰でも合格できる、という平等性が担保されている。若い受験生による1年間、もしくは数年間の努力の末に、見事合格という形で報われる。そんなロマンに人びとの希望が託される。
つまり、受験という経験が美談として消費される傾向にあるからである。

頑張った結果成功を手にすること、それ自体は素晴らしいことである。褒められてしかるべきである。

しかし、

「乗り越えれば成功を手に入れられる」「一発逆転だって狙える」

そんなゴールドハンター的なロマンに覆い被せられ、そこに至るまでの道筋において受験生らが経験するストレス、身体的または精神的疲労、それらによる自律神経失調症、何かしらの睡眠障害等は、見過ごされやすくなってしまう。せいぜい

「受験生だから頑張ってるのね」「大変なんだね」

といった言葉で以て、まるで風邪薬の副作用を見るかのように、"努力の副作用"程度に思われるだけなのである。


私の勤めていた塾でも、授業が終わって生徒たちが帰った後に机の下を覗くと、床に髪の毛がたくさん落ちているということが度々あった。
どういうことかと塾長に訊ねてみると、

「ストレスで自分の髪を抜いちゃう子、結構いるんだよね」

落ちた髪の毛をいつものように掃除機で吸いながら、塾長は答えていた。

子どもたちのストレスに対して、社会のなんと無関心なことか。
受験において、そこに至るまでの苦難がどんなものであろうと、全て「努力」に変換されてしまう。どんなに不健康な生活をしていようと、睡眠時間を削って勉強していようと、何かしらの自傷行為をしていようと、許容範囲内に収まってしまう。
さすがに「許容範囲内に収めている」という自覚は、大人たちは持ち併せていないつもりであろう。しかし、子どもたちが受験という国全体で行われるシステムによって強いストレスを感じることを許してしまう構造が存在し続けている、ということは事実である。

成功する可能性がある限り、受験勉強によるストレスは逃げて良いものとはみなされ難い。さらに厄介なのは、周りの人間だけでなく、受験生自身も"肯定されるべきもの"、"乗り越えるべきもの"と思い込んでしまうところである。本人たちからすれば、受験というシステムや日本の教育を疑うより前に、まず自分が当事者として受験をしなければならない時が来てしまうからである。

「受験で勝ったら素晴らしい」
「努力が実ることは美しい」

そういったメッセージによって受験は美化され、合格発表に至るまでの経過の泥臭さや、それが受験生の心身に与える影響は、それがたとえ負の影響であったとしても、"美しく"カモフラージュされる。

こうして書いてみると、戦時中に徴兵や戦死が美化されていたことに通じる、似たような力学が働いている気がしなくもない。「お国のために死ぬことは善だ」という価値観は、現代日本の私たちであればその大半が違和感を口にするであろうが、戦時中はそうではなかった。全員ではないにしても、戦争賛美に熱狂する、現代の私たちの言葉を借りれば"異常な”、"洗脳された"
人々は大勢いた。

大勢の人が1つの観念を持ち、それが蔓延している状態であれば、そこに付随する異常にもバイアスがかかってしまう。国民全員が罹患している状態であれば尚更、異常性を「異常性」と呼ぶことすら阻まれてしまう。

受験の美化に対しては、どうだろうか?

中国や韓国の受験を見て、「厳格過ぎない?」という感想を持ってしまう日本人は多いかもしれない。

それと同じように、自国の受験制度に疑問を持たない日本の私たちは、国民の殆どが1年間猛勉強して受験をするという文化のない国で育った人の目に、一体どんなふうに映っているのだろうか。

学歴主義の蔓延

では、なぜ人々はそんなにも受験のロマンに惹かれるのか。受験を美化したがるのか。
多くの人のお察しの通り、背景にあるのはもちろん学歴主義である。

高卒よりも大卒の肩書を持つ人の方が、給料が高い。専門学校や短大よりも、ネームバリューのある四年制大学に行って高い学歴を手に入れること。土日休みで連休があり、福利厚生の充実した大企業に勤めて安定した高給を得ることが望ましい。社会的地位を高く保ち、経済的に豊かな生活を送るためには、ある程度高い学歴を持つことが必要条件となる。

今のところ、日本社会では実際そういうふうに機能しているため、学歴主義の考え方はあながち間違いではない。処世術としては寧ろ正しいのである。その処世術としての正しさ故に、学歴主義は多くの場合、疑念を持たれることはあっても、否定されることは殆どない。

特に勉強したい分野の定まっていない高校生が、「就職で優位になるために」という漠然とした理由でブランド力のある大学を志望すること。「社会においてより優位な立場を与えるために」と、我が子の教育に熱心になること。進学実績を残して自らの面子を保つために、学校や塾・予備校が生徒の意向を無視してでも、より偏差値が高く、知名度のある大学を受験させようとすること。学歴主義は様々な形で表れており、日本全体に蔓延している。

学歴主義というのは1つの固定観念であり、信仰となる。10代またはそれ以前という、人生の早い段階から植え付けられてきた価値観は、拭い去ることが難しい。

ある中学3年生の生徒は、塾に来る度に眠そうにしていた。
授業中に眠そうな生徒がいる時、私は大抵「あとで起こしてあげるから、5分だけ寝る?」と訊いていたのだが、その生徒は毎度断って睡魔と格闘し、結局うつらうつらとしていた。あまりにも眠たそうなので、普段何時に寝ているのかと訊ねてみると、その生徒は夜中の1時か2時くらいだと答えた。

「お母さんに、寝る時間削って勉強しろって言われるんです」

その一言で、私は色々と察しがついてしまった。本人曰く、その子のお母様は「マジで怖い」らしい。そこで、次のように声をかけた。

「ちゃんと寝た方が成績伸びるよ。中学生なんて成長期だし、人生の中でもいちばん寝て欲しい時だから、睡眠時間削っちゃダメ。せめて11時には寝よう。お母さんに何か言われたら、『塾の先生がそう言ってた』って言えば良いから」

教育の分野に携わる人にとって、こういった場面に出くわすのは結構"あるある"なんじゃないだろうか。(教育関係の皆さん、共感して頂けますでしょうか……?)

もう一人、如何にも親に無理やり塾に来させられているというような、中学2年生の生徒がいた。
その時は因数分解のやり方を説明していたのだが、その生徒はどんなに話しかけてもこちらを見てくれず、質問を投げかけてみても反応がなく、常に上の空でぼーっとしていた。問題にも手を付けなかった。
最初でつまづきやすい因数分解は、実際に問題を解く前にしっかりと解き方を説明しなければならない。その時はたまたま勉強が苦手な生徒を4人も宛がわれてしまい、同時に教えていた生徒も皆各々苦戦していたので、私は1時間てんてこ舞いになっていた。

その生徒が母親と面談に来た時、お母様は塾長の見ている前だと言うのに、

「もう、この子は本当にバカなんだから! 本当にバカなんだから!」

と、「バカ」「バカ」と何度も非難を繰り返して、温厚な塾長をドン引かせた。しかし後になると、

「本当はもっと、ちゃんと勉強して欲しいんです」

と、LINEで塾長に泣きついてくるらしかった。

2つの事例からわかるのは、この母親らがおそらく学歴信仰という固定観念
に縛られているということ、それが他者(子ども)に負の影響を及ぼしているということである。
特に2つ目の事例からは、親が持つ学歴信仰が他者だけでなく、自分自身をも苦しめていることがわかる。

「低い学歴ではいけない」
「ある程度の学歴でなければ、まともに生活できない」

そんなプレッシャーから解放されれば、このお母さんはどれだけ楽になれるのだろう。
学歴信仰によって苦しむのは、決して若者だけではない。人生全体を通して十分にダメージを与えうる価値観なのである。


程度は違えど、学歴信仰は多くの人が何かしらの形で持っている。その観念があるからこそ、受験という制度は存続・維持されていると言っても過言ではないであろう。

ここまで(中編)のまとめ

受験という制度が存続されるのには、受験生だけでなく、受験生を応援しようとする周りの人間の存在を忘れてはいけない。個人も企業もメディアも一緒になって、社会全体で受験生を応援するという構図が完成する。
さらに言えば、受験のシステムを運営し、コントロールできるのは「応援する側」の大人であって、受験生の側が意見をする余地は殆どない。

"努力が実る"というストーリー性に大勢の人が魅せられて、受験が美化されるということが度々あるため、受験が生徒に与える負の影響は問題視されにくい。人々が受験を美化したがる背景には学歴主義の蔓延があり、多くの人が受験のロマンに魅了され、学歴信仰を持つからこそ、付随する負の側面に疑問を持たなくなる。
異常があったとしても、異常性に気づかないからこそ、受験制度は存続されていく。

補足

ちなみに、最初の章の文頭で紹介したエピソードのように、私にも塾長から「受験、みんな頑張って欲しいねえ」というような話を振られたことがあった。

私は素直に「そうですね」と言うことができなかった。生徒たちは、もう受験をすることはないであろう、部外者である大人の身勝手な応援によって、「頑張るべき存在」として軽々しく消費されていい存在ではない。
私はただ、

「楽しく勉強して欲しいです」

と答えた。それが本心で、全てであった。

塾長は

「そうだね」

と言ってくださった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます!!
じきに後編も書きます。学力による人々の分断や、学校教育の意義等について書く予定なので、ぜひお付き合い頂けると嬉しいです!!



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