【読む参拝】神田明神|横に広がる摂社から見る“人と神のつながり”
前回は神田明神の御神殿の裏にある摂社についてご紹介しました。
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今回は、前回紹介できなかった残りの「摂社」について見ていきます。
◆はじめに|御神殿の横にひっそりと建つもの
神田明神の境内は、御神殿を中心に広がっています。
前回は、その裏側にある摂社を巡り、
見えない場所で神社を支える存在をご紹介しました。
では、御神殿の「横」にある社には、
どのような意味があるのでしょうか。
裏側が“支え”であるならば、
横に広がる社は“人とのつながり”や“流れ”を感じる場所。
今回は、御神殿の横に並ぶ摂社を巡りながら、
神田明神がどのように人の暮らしと関わってきたのかを見ていきます。
◆なぜ横を巡るのか
御神殿は神社の中心であり、
裏側にはそれを支える存在がありました。
では、その横に広がる空間には何があるのでしょうか。
そこにあるのは、
人の営みと神様をつなぐ場所です。
商い、暮らし、文化、そして人の行き来。
横に並ぶ摂社は、
日々の暮らしと深く結びついた存在です。
午年は、動き出す年。
動くということは、
誰かと関わり、流れの中に入っていくことでもあります。
だからこそ、この横の空間を巡ることは、
「どう関わり、どう広がっていくか」を考える時間になるのです。
◆読む参拝|御神殿の横へ
御神殿の前から少し視線を横に移すと、
そこには別の流れが見えてきます。
参拝の中心から少し外れたその場所は、
人の行き来が交わる、少し開けた空間。
裏側の静けさとは違い、
どこか“動き”を感じる空気が流れています。
それは、神様と人とが交わる場所。
ここからは、
神田明神の「広がり」を感じる参拝になります。
◆御神殿の横に広がる社を巡る
御神殿の左側から進むとそこにも多数の社が建立されています。
一列に社が並んでおり町のようにも見えます。
水神社(魚河岸水神社)
ご祭神 : 弥都波能売命


日本橋に魚市場があった時代、
徳川家の武運長久と大漁安全を祈願する守護神として祀られた水神社。
市場の移転にあわせて遷座を重ねながらも、再び神田明神境内に戻り、
現在は末社として祀られています。
築地市場にも遥拝所が設けられ、
今も魚河岸の人々によって神事が受け継がれています。
周辺には町人たちの名が刻まれた石碑も残り、
当時の人々の信仰の厚さを伝えています。
人々の暮らしと水の恵みを支えてきた、流れと生命を象徴するお社です。
小舟町八雲神社
ご祭神 : 建速須佐之男命


元は江戸城内にあり、祭礼の際に小舟町の御仮屋へ神輿を渡御していた
ことからこの社名になっている。
町と祭りをつなぐ、地域信仰の原点ともいえるお社です。
鉄製天水桶(一対)
高さ約1.4メートルの鉄製天水桶で、千代田区指定有形民俗文化財に指定されています。
江戸時代、日本橋の魚問屋の商人たちによって奉納されたものです。
鋳造したのは、江戸の名工・釜屋六右衛門家の鋳物師。
安政4年(1857年)に再建され、当時の姿が今に伝えられています。
神社と町人文化、商いの歴史を物語る貴重な遺物です。
大伝馬町八雲神社
ご祭神 : 建速須佐之男命


江戸時代よりも前に創建されたと伝えられる。
祭礼の際に大伝馬町の御仮屋へ神輿を渡御していたことから、
この社名になっている。
商いと人の流れを支えてきた、町の守りの神ともいえる存在です。
鉄製天水桶(一対)
高さ約1.4メートルの鋳鉄製天水桶で、千代田区指定有形民俗文化財に指定されています。
江戸の鋳物師・釜屋六右衛門によって製作され、天保10年(1839年)に太物問屋仲間が奉納しました。
反物を扱う商人たちの信仰と結びつき、日本橋を中心とした商業の発展を支えてきた遺物です。
運営費も町と商人が担い、地域と商いが一体となった信仰の形が刻まれています。
神社と人々の暮らしの結びつきを今に伝える、歴史的価値の高い文化財です。
江戸神社
ご祭神 : 建速須佐之男命


大宝2年(702年)創建と伝わる、江戸最古の地主神であり、
古くから崇敬されてきた神社。
神田明神の遷座とともに現在地へ移り、
江戸の人々や武将たちの信仰を集めてきました。
江戸時代には「天王祭」として神輿渡御が行われ、
町と深く結びついた祭礼が続けられました。
度重なる火災や遷座を経て、現在は神田明神境内に鎮座しています。
今も神田祭では千貫神輿が宮入し、江戸の伝統を今に伝えています。
小舟町八雲神社、大伝馬町八雲神社、江戸神社は祭神が一緒で
三天王とも呼ばれています。
また江戸神社の前には石碑もあります。
力石

若者たちが「力くらべ」に使った2〜30貫くらいの石のことで全国各地の神社仏閣などにあった。神田明神の力石は直径80cm・短径67cm で、文政5年(1822)12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものである。江戸東京の若者たちの生活・娯楽を垣間見れる資料。平成3年4月1日、文化財に指定。

角田竹冷の句碑

大正9年(1920)頃に建立された碑で、表面に、
白うをや はばかりながら 江戸の水
という俳人・角田竹冷の俳句が刻まれている。
意味は、白魚もとれる神田川の水は、恐れおおくも、
その昔将軍さまのお茶の水にも召されたという江戸一番の名水である。
角田竹冷(1858〜1919)は、本名を真平といい、
代言人(今の弁護士)をつとめるかたわら、俳人としても名の知れた人物。
尾崎紅葉らとともに秋声会を結成し
正岡子規の日本派と並んで俳句革新運動を展開。
また、旧神田区(千代田区の一部)の初代区会議長・衆議院議員を
つとめるなど政治家としてもその手腕を発揮した。
◆まとめ
今回巡った御神殿の横にある摂社は、
神様と人の暮らしをつなぐ場所でした。
裏側が「支え」であったのに対し、
横に広がる空間は「関わり」や「流れ」を感じる場所です。
午年は、動き出す年。
ただ進むだけでなく、
どのように人と関わり、どのように広がっていくのか。
そのヒントが、
この場所にはあるのかもしれません。
人と関わり、流れの中で生きていくこと。
その在り方そのものが、ここには示されているのかもしれません。
◆次回予告
次回は、午年に巡ると良い神社として
五方山熊野神社
について紹介しようと思います。
▶前回の紹介記事はこちら
