光バイト 第二話
第二話 がんばり屋さんの休憩時間
秋の風が少し冷たくなり始めた頃だった。
蒼は相変わらず就職活動を続けていた。
だが以前ほど焦らなくなっていた。
もちろん不採用通知は届く。
落ち込まないわけではない。
それでも、
フェリーチェへ行けば少しだけ前を向ける気がした。
その日も蒼はフェリーチェにいた。
ソフィ席でコーヒーを飲んでいる。
するとソフィが近づいてきた。
「おっ。」
蒼が頭を撫でる。
ソフィは満足そうに目を細める。
その瞬間。
隣のパン屋の扉が開いた。
焼きたてメロンパン。
ソフィ離脱。
「裏切ったな。」
恒一が笑う。
「ソフィは正直だからね。」
蒼も笑った。
少し前なら、
こんな風に笑う余裕はなかった気がする。
その時、
恒一が依頼書を差し出した。
【光バイト】
家事・育児サポート
四時間
「育児?」
「そう。」
「子ども苦手なんですけど。」
「じゃあ丁度いい。」
「なんでですか。」
「経験になる。」
恒一は楽しそうだった。
依頼主は奈々。
三十二歳。
六歳の男の子を育てるシングルマザー。
発熱が続き、
家事も育児も思うようにできなくなっているらしい。
「よろしくお願いします。」
玄関に現れた奈々は、
顔色が真っ白だった。
第一声は謝罪だった。
「すみません。」
「本当にすみません。」
蒼は首を振る。
「謝らないでください。」
部屋の中を見て、
蒼は少し驚いた。
洗濯物。
食器。
おもちゃ。
確かに散らかっている。
でも汚いわけではない。
頑張っていた痕跡が残っていた。
「まず何からやればいいですか?」
奈々は少し考えて言った。
「洗濯を……。」
「お願いします。」
そう言うと、
ふらふらと寝室へ戻っていった。
蒼は洗濯機を回した。
掃除機をかけた。
食器を洗った。
ここまでは良かった。
問題はその後だった。
「お兄ちゃん!」
六歳の翔太が現れる。
「見て!」
折り紙。
「お兄ちゃん!」
ミニカー。
「お兄ちゃん!」
恐竜。
「お兄ちゃん!」
絵本。
蒼は気づいた。
休む暇がない。
母親という仕事、
想像以上だった。
昼頃になると、
翔太が言った。
「公園行こう!」
蒼は連れて行くことにした。
鬼ごっこ。
滑り台。
ブランコ。
全力疾走。
蒼は十五分で息が上がった。
翔太は元気だった。
「まだ遊ぶ!」
「うそだろ……。」
蒼は空を見上げた。
世の中のお母さんは化け物かもしれない。
本気でそう思った。
帰ろうとした時だった。
ボールが転がる。
道路の方へ。
「あ!」
翔太が追いかける。
車道へ向かって走り出した。
「翔太!」
蒼は反射的に飛び出した。
あと一歩。
本当にあと一歩だった。
翔太を抱き寄せる。
心臓が激しく鳴る。
足が震える。
もし間に合わなかったら。
そう思うだけで怖かった。
翔太はきょとんとしている。
「どうしたの?」
蒼は答えられなかった。
親は毎日、
こんな心配をしているのだろうか。
毎日。
何年も。
家に戻ると、
奈々が起きていた。
少しだけ顔色が良くなっている。
「ありがとうございました。」
奈々は深く頭を下げた。
「久しぶりに眠れました。」
そして、
少し涙ぐみながら言った。
「昨日は。」
「もう無理かもしれないって思っていました。」
「でも今日は。」
「少し頑張れそうです。」
蒼は何も言えなかった。
夕方。
フェリーチェへ戻る。
店の中にはシチューの香りが漂っていた。
「おかえり。」
恒一が笑う。
テーブルには、
クリームシチュー。
焼きたてパン。
サラダ。
そして、
ソフィ。
じっとパンを見ている。
「ソフィ。」
動かない。
「ソフィ。」
さらに動かない。
恒一がパンを一欠片渡す。
しっぽ高速回転。
蒼は吹き出した。
「幸せそうですね。」
「そうだね。」
恒一は微笑んだ。
「ソフィは今を生きてるから。」
蒼はシチューを口に運ぶ。
温かい。
不思議と涙が出そうになった。
今日一日を思い出していた。
洗濯。
掃除。
料理。
子守り。
そして、
道路へ飛び出しそうになった翔太。
その時、
母親の顔が浮かんだ。
熱を出した夜。
一晩中看病してくれたこと。
毎朝弁当を作ってくれたこと。
汚れた服を洗ってくれたこと。
受験の日、
自分以上に緊張していたこと。
全部、
当たり前だと思っていた。
感謝したことなんて、
ほとんどなかった。
気づけば涙が落ちていた。
「どうした?」
恒一が優しく聞く。
蒼は笑いながら涙を拭いた。
「俺。」
「親に何も返してないなって。」
恒一は静かに頷く。
少しだけ寂しそうに。
誰にも気づかれないくらい小さく。
「そうか。」
「気づけて良かった。」
その声には、
蒼の知らない後悔が滲んでいた。
その夜。
蒼は実家へ電話をかける。
母が出る。
「どうしたの?」
いつも通りの声。
でも今日は違った。
「母さん。」
「今までありがとう。」
しばらく沈黙が続く。
やがて聞こえてきたのは、
少し涙声の返事だった。
「こちらこそ。」
「ありがとう。」
電話を切ったあと、
蒼は空を見上げた。
自分は一人で大きくなったわけじゃない。
たくさんの愛情に支えられてきた。
その当たり前のことを、
初めて知った気がした。
そしてフェリーチェでは、
ソフィが夢の中でパンを追いかけていた。
第三話へつづく 🐶🥐☕🌈📖✨
