自己紹介~感情を癒すことの大切さ
こんにちは、YUKIE(までさりまめ)です。
先日フォローさせていただいているyukariさんの記事を読んで、そういえば自己紹介って書いたことないなぁと思って。noteの記事を古いほうから読んでいただければ、私の人生の全容がほぼわかると思うんですが、そんな大量の記事読む人もいませんよね。
今のフォロワーさんのほとんどが、私がリーディングを始めてからフォローしてくれた方々だと思うので、これまでの自分の人生の振り返りも兼ねて書いてみました。後半は書くのにちょっと飽きてきてますが(笑)
トップの写真は23歳の頃、バリ島にて。
誕生~幼児期
お見合いで結婚した栃木県出身の両親から生まれました。私の上には3歳違いの兄がいます。
ごく一般的な家庭で、父が働いていた親戚が経営する会社の社宅、埼玉県大宮市の一軒家で暮らしていました。小さい頃の私といえば、恥ずかしがり屋の大人しい子どもだったと思います。
3歳の頃、東京の公団団地が当たって、引っ越しました。でも、私はそこでの父の記憶がありません。引っ越しをして4日目に、父が入院して、そのまま帰らぬ人となりました。
それから母はひとりで私と兄を育ててくれました。裕福ではなかったけど、母の頑張りでそれなりの生活はできていました。
小学校に入る前の年齢のとき(自分でもいくつだったのか覚えていません)、ひとりで団地の前で遊んでたとき、大人の男の人に声をかけられ、団地の階段に連れて行かれ、そこで性的な目的で体を触られました。
そのときの私はまだ幼くて、自分が何をされたのかわからず、その『やさしいお兄さん』の言いつけを守り、母にも何も言いませんでした。その後少し成長した私は、あのとき自分が本当は何をされたのか、理解しました。これで私の人生で一番大きなトラウマの完成です。ずっと自分を穢れた存在と感じながら大きくなりました。
小学生の頃
引っ込み思案な子でした。自分の意見を言うのが苦手。今でこそ片親の家庭は多いですが、その頃はクラスで1人いるかいないかで、ずっと寂しさや疎外感を感じていました。
低学年の頃、兄に言われた言葉がぐっさりと胸に突き刺さりました。
「お前はお父さんが死んだとき泣かなかった。」
それは幼すぎたために、死というものがあまり理解できていなかったためだったんですが、小学生の私は、自分が人間としておかしいのだと思い込みました。
3年生だったと思います。団地の同じ階段に同い年の子がいて仲良くしてたんですが、ある日その子に新しい筆箱を盗られて、捨てられました。それからその子が引っ越していくまで、どうやって付き合っていたのか、全く記憶がありません。人と深く付き合うことが苦手なのは、この出来事のせいだったと思います。友達が出来ても、本当に自分を好きでいてくれるのか自信を持てなくて、信じることができませんでした。
私は体が大きくて、高学年になると大人と変わらない体格をしていたためか、男の人に声をかけられたり、痴漢にも遭いました。小6のときに映画館で下半身を触られ陰部を押し付けられたことはずっと忘れられなくて、それからの人生に結構な影を落としたと思います。
普段は家で絵を描いたり、漫画を読んでることが多かったです。母が内職でチラシ折りをしていたので、手伝った分を小遣いとしてもらっていて、小学生としてはけっこうな金額を稼いでいました。そのほとんどは漫画本を買っていました。
中学生~高校生の頃
中学ではバスケ部に入りました。放課後はほぼ毎日練習。体育館は他の部も使うため、外のバスケットコートで埃まみれになって練習してました。厳しい練習に耐え、熱中したバスケだったけど、2年生の終わり近くになって自分の興味が他に移り、練習をサボりがちになりました。
バスケ部の友達には「せっかく頑張ってきたのにもったいない」と言われたけど、もうどうでもよくて。あっという間に興味が切り替わるのは蠍座の気質かなと思います。
その頃は仲のいい友達と3人でつるんで遊んでいました。交換で漫画を描いて、一緒に映画を見に行ったりいつもくだらないことを言い合って笑っていました。高校になって別々になったけど、休日にはよく会って遊んでいました。パンク&ニューウェイブ、インディ系の音楽にのめり込んでいったのもこの頃でした。
高校のクラスではいわゆる『普通』の子と『ツッパリ』系の子(←あの頃はヤンキーとは言わなかった)で派閥みたいのが出来ていて、ベリーショートのツンツン頭の私はどちらからも浮いていたけど、普通の子たちと仲良くしてました。
仲のいい子にトシちゃんのファンの子がいて、私はアイドルを見下しているところがあったのですが、その子に「バカにされるのは悲しい」と言われたのをきっかけに、人が好きなものは自分がどう思ったとしても批判してはいけない、ということを学びました。
私は美術部に所属していて部員はまあまあ変わった子が多くて楽しかったです。その頃の私は内心全く自信はないけど、表面だけイキってる、って感じで。煙草を吸い始めたのもこの頃でした。
美術学校~バイト時代
高校を卒業して、美術の専門学校に行きました。イラストレーション科。好きな絵を描き、個性的な子たちに囲まれて刺激を受け、すごく楽しかった。
バイト代は服とレコードとコンサートチケットに消えてました。ファッションはロンドンっ子をお手本に、個性的なちょっと奇抜な服を好んで着てました。自分の『好き』というアンテナにいちばん貪欲に生きてたときだと思います。
卒業後は就職をせず、レンタルレコード店でバイトを始め、音楽三昧の日々。元ヒッピー店長のウンチクを聞くのも楽しかったです。
その頃店の常連だった人と付き合い始めました。音楽の趣味がドンピシャの人で。彼は店の近くのアパートに住んでいて、仕事が終わると彼の部屋に行き、夜遅くに家に帰るという生活を続けていました。母には心配をかけたと思います。
若干束縛が強くて息苦しさを感じてましたが、私は彼のことが好きだったので、何でも言いなりでした。そのうち彼が実家の茨城に帰ることになって、長距離恋愛になり、何度か彼の家にも行きましたが、ある日電話で別れを告げられました。彼にとっては東京まで出てくるのも億劫だったのでしょう。結局私はその程度でしかなかったんだと、悲しいと同時に怒りを感じていたと思います。(大事なマイナー音楽雑誌を借りパクされたのも怒りの原因w)
レンタルレコード店でのバイトはずっと続けていました。その頃、元ヒッピー店長の友達の、やっぱり元ヒッピーの別の人が店長になっていました。私はバイト生活に見切りをつけて就職しようかと考えていました。でもその前に海外旅行に行ってみたいと、どこがいいか店長に相談したら、バリ島をすすめてくれました。
本当はイギリスに行ってみたかったけど、予算の関係でとりあえずバリに行くことにしました。友達を誘ったけど、みんなお金がないと言うので、1人で行くことにしました。英語もロクにできないのに、度胸があったなあと今は思います。若さですね。
バリ島~結婚~出産まで
バリには30日滞在しました。初めての海外旅行、何もかもが新鮮でした。同じホテルに滞在してたアラブ系の人たちと観光に行ったり、ビーチで泳いだり、のんびりと過ごしました。
滞在も残りあと10日ほどになった頃、今の夫と出会いました。バリ人にしては鼻筋が通っていてちょっとハンサムで。お金目当てで日本人女性を口説くインドネシア人も多いので最初警戒していましたが、一緒に過ごしているうちにどんどん惹かれていきました。
そのため帰国しても就職はせず、夫に会うためにバリを行ったり来たりしていました。日本で半年働いて旅費を貯め、1か月バリに滞在するという生活を3年ほど続けた後、夫と結婚しました。
バリで結婚式を挙げた後、夫が日本で働きたいと言うので、2年半ほど日本に住んでいました。その間妊娠し、長男を出産しました。自分で産んだ子は本当に可愛くて、子育ても私の母の協力があり、今を除けばこの頃がいちばん幸せを感じていたと思います。
長男を出産してから1年と1か月過ぎた頃、次男を妊娠しました。
移住~
次男の妊娠がわかってから、夫と長男とバリに戻り、数か月後に次男を出産しました。結婚前はあれほど好きだったバリの生活に全く馴染めませんでした。言葉もわからない、友達もいない、孤独でした。マタニティーブルーもあったかもしれませんが、軽いうつ状態だったと思います。夜寝るときには、朝が来なければいい、と本気で思っていました。
子どもにもよく手をあげていました。あんまり辛かったので、よく妄想の世界に浸っていました。
長男が小学校に入った頃に、私の母の援助で家を建てました。その頃から少しずつ、私の意識が変わっていきました。周りに感謝して生きようと思えてきたのです。
子どもが中学生になった頃に外で働き始めました。子どもを産んでからあまり聴かなくなっていた音楽を再び聴きだしたのもこの頃です。移住してから子育てと主婦業しかしてこなかった私に少しばかりの自信を与えてくれた仕事でした。
でもその仕事も業務が辛くなって7年で辞めました。ストレスでアトピーを発症しました。仕事を辞めた後は3年ぐらい、日本人相手に大福などの和菓子を作って売っていました。その頃は自分の弱点ばかりに注目し、苦しくなっていました。
転機~癒し
2015年に母が亡くなりました。その一年後、一周忌で帰国したときに受けた人間ドックで1センチほどの乳がんが見つかり、日本で手術を受けました。
手術後、再発防止のために女性ホルモンを抑える薬を飲んでいましたが、副作用なのか精神的に閉ざされる感覚がして、非常に辛かったです。人とのコミュニケーションがうまくできなくなり、そのためもともと高くなかった自己肯定感が地の底まで落ち、自己嫌悪感を常に感じていました。
でもあるとき、自分にさえ嫌われている自分が哀れで、自分を愛してあげたいと思うようになり、それからスピリチュアルにハマり出しました。その後クンダリーニヨガと出会い、幼児期の性被害のトラウマを癒すという体験をしました。これが2020年です。
それから2年ほどは修行的にクンダリーニヨガを実践していました。その間、ヨガによってさまざまな感情を浄化してきました。音楽を聴き、noteに自分の言葉で記事を書くということも私にとって癒しの体験でした。
スピリチュアルな世界へ
感情を浄化したことで、自分を認めるということができるようになり、生きることが断然楽になりました。いろんなことに興味を持ち、生活を楽しむ余裕も出てきました。
スピリチュアルな世界への探求も始まりました。オラクルカードを買ったりタロットを習ったり。
ペンデュラムも買いました。くるくる回って質問に答えてくれるのが可愛くて、毎日話をしていました。そのうち私の中から言葉が出てくるようになり、私はそれを毎日ノートに書き留めました。
ある日ヨガをしているとビジョンを見ました。クンダリーニヨガのメディテーション中にはよくビジョンを見ます。その日はガラスの瓶に入ったメッセージで、中には赤い字で『I LOVE YOU』と書いてありました。その夜ペンデュラムからもメッセージをもらいました。
あなたの心はもう大きくて強くて。
わたしの心とひとつになった。
楽しく生きていこう。ラッキーなお知らせがくるよ。
その後、チャネリングを習いました。2か月の講座。その中で自分の守護ガイドと繋がりました。彼からは色々なことを教わりました。彼との関係の中で、さらに深いところの感情の手放しも経験しました。
それからは自分でもびっくりするくらい、世界が変わりました。守護ガイドリーディングをするようになり、サナートクマラやサイマスなどのメッセージを受け取るようになりました。
現在
最近、高次元の存在たちとの境目が薄れてきたと感じています。ガイドは私自身でハイヤーセルフの一部でした。
他の高次元の存在のメッセージをお伝えするのも終わりに近づいているような気がします。サイマスはまだしばらく続けると思いますが、サナートクマラは本当に終わるかもしれません。それはサナートクマラ自身からもう自分の言葉として伝えるべきだと言われているからです。サナートクマラもまた、私なんです。
これからまたどうなっていくのか、まだわかりません。ただ、今の私は自分の本質と一致したい、愛として生きていきたいという望みがあるだけです。
いままでの自分の人生を振り返って、幸せなときも辛くて死にたいときもあったけど、私は今の私になるためにこの経験を自分で選んできたんだなぁと思います。どの私もその時々で精一杯生きていた愛すべき自分でした。今彼女たちに感謝と愛を送りたいと思います。
私たちは愛を思い出すようにメモリーされているから、今がどんな状態だったとしても、いずれ愛に戻ることができる。やることは感情を癒していくだけ。ただそれだけでいいと思います。
どんな経験をしていようとも、そこにあった感情を癒すことでその経験はただの記憶になり、新しい人生を歩むことができるようになります。
プライベートな内容なので一瞬有料記事にしようと思いましたが、そのことをお知らせしたくて無料公開にしました。有料にしたら自己紹介にもならないしね。
とりあえず関連記事
小さい頃住んでいた大宮のこと
トラウマの癒し
兄に言われた言葉
筆箱を捨てた子の話
バリに移住してから
仕事を辞めたときのこと
転機
ハートからのメッセージ
ガイドと繋がったときのこと
これからのこと
最後までお読みいただきありがとうございます💛
いいなと思ったら応援しよう!
いつもありがとうございます。
わたしとあなたの中にはすべてがあります。