小説【檻のベッド】(第7話) 『食べられることって』
朝の検温の後、
私の前には、水の入ったコップがあった。
絶飲食の『飲』が解禁となった。
ベッド上のテーブルに置かれた、わずか100ccの水を口に入れる。
瞬間、
水にこんなにも味があったのかと、舌が驚く。
食道を通り、胃に落ちる感覚がはっきりとわかる。
100ccは数秒すら保たず、身体に染み渡った。
口からコップを離したとき、出てきた言葉は、
小さな「美味しい」だけだった。
それから夕方まで、水を飲んだことによる身体の異常はなかった。
その結果、夕方の回診で『飲み物フリー』が告げられた。
早速、ラウンジの自販機でポカリスエットを買って飲んだ。
朝の、命に送る水とは違い、しっかりと脳が、いつもの「美味い!」を感じる。
そして、絶飲食明けにいつも思うこと。
食べられることって、すごいことなんだ。
そして更に3日が経ち『食』も解禁となった。
メニューは、普段ならまったく味がないと判断するであろう、お粥。
美味しいか、美味しくないか?
それすらどうでもいい。
今の私はただ、お粥をすくったスプーンを、本能のまま止まることなく口に運ぶだけだった。
救急搬送から数えて2週間が経ち、
私は退院となった。
「また外来で、お世話になります」
看護師さんたちと、上田先生に頭を下げた。
迎えにきた父親の車に、大量の入院セットを詰め込み、私も乗り込む。
「マック寄って、おとーさん」
私の一言目に、父が吹き出す。
「いきなりそれかよ」
「お腹減った」
「わかるけどダメだよ。お母さんに怒られるぞ」
押せばいけそうな父だが、バックにいる母の抑止力は、私のおねだりよりはるかに強かった。
結局、寄り道することはなく、家に着いた。
母親はまだパートから帰ってきていない。
台所に、ラップに包まれた大量のおにぎりと、傍らに雰囲気を感じる1枚の紙。書き置きか。
それを読むよりまず、おにぎりを頬張る。
ひと口目から、
全身の力が抜けるほど、美味しい。
車からまだ荷物を降ろしている最中の父が、
「おいおい、ゆっくり食べろよ」
そんな声は耳をすり抜けた。
一つ目を食べ終えて、ようやく紙を見る。
「おかえりなさい。しっかりと、よく噛むこと。急いで食べないこと」
書き置きというより、警告文だった。
筆ペンで書かれたその字からは、退院した娘をねぎらい、涙する母親のイメージは見えない。
でも、おにぎりは美味しい。
「わかってますよ」
呟いて、2つ目に手を伸ばした。
夜。家族3人で食卓を囲んでいた。
アリスのことを含めた2週間を話す。
パンプスの音の件を言うと、
「非常識ね、病院に失礼よ」
と、母親は呆れていた。
翌日の通学の準備を終えた私は、エミさんにLINEを送った。
おかげさまで、退院しました
既読はつかなかった。
まあ、報告だし。読めるときにでも。
スマホを枕元に置いた。
2週間振りの自分のベッドに寝転がる。
見慣れた天井。
やっと帰ってきたなー。
……なぜだか、そうならない。
『今日は』この天井。
淡々と、そう思うだけ。
翌日。
2週間ぶりに登校すると、私の机の上にはお菓子やら、ポップなイラストやらが置かれていた。
「ルカ、おかえりー」
友達の一声と拍手のあと、私はヒーローの凱旋のように囲まれてしまっていた。
そんな中、担任の先生が「春澤、ちょっといいか」と、手招きする。
先生のあとに続いて、廊下に出る。
先生は小声で話し始めた。
「お母さんがな、休んでいる間の授業を、映像か音声に残したいって言ってきてな」
「え! うちの母がですか?」
「うん。それで、さすがにそれはできないから、ここ2週間分の授業内容の要点だけ、各教科の先生にまとめてもらったから」
それが、これ。
と、両手の上にどさっと渡されたプリントは、結構な厚みと重さがあった。
「あ、ありがとうございます……」
「お母さんの方から、できたらデータじゃなくて紙でくださいってことだから……まあとにかく、退院おめでとう」
それから、『普通』に戻った私は、友達と日常を楽しみ、遅れた分の勉強に時間をつかった。
エミさんに送ったLINEは結局、既読がつかないままだった。
アリスのことを考える時間は、次第に少なくなっていった。あんなにきらきらしてた彼女との時間も、熱も。
すべてが夢だったのかと思うほどに。
「……写真くらい撮っておけばよかった」
その後悔さえ、日々の中に薄まっていった。
退院後、最初の外来通院の日を迎えた。
午前9時半。
電車とバスを乗り継いだ私は、退院から1ヶ月ぶりに、大学病院の前にいた。
救急搬送された夜とは違い、正面入口の前は止むことなく人が出入りしている。
警備員さんが笛を鳴らして、駐車場に入る車と歩行者を誘導する。
私もまた、流れのまま、院内へと歩を進めた。
西棟1階。小児外科外来。
待合室のベンチは、子どもと、付き添いの親で埋まっていた。
診察の予約時間は11時。
それまでに、先に採血を済ませておく。
あとは待つのみ。
院内呼び出しアプリを登録してあるので、私は座れないベンチ付近から、院内のカフェに移動した。
11時。
呼ばれない。
アイスティーの氷はすでに溶けきっていた。
カフェを出て、再び診察室前のベンチへ。
空席が目立つようになっていたので、座る。
モニターに表示されているいくつかの番号に、
私の予約番号はまだ、ない。
急患が多くて、後回しにされたのか。
そんなところだろう。
目を閉じた。
今朝は早起きしたせいか、すぐに寝てしまった。
正午を伝える院内放送で目を覚ます。
まずモニターを見た。
3番目に私の番号があった。
周りを見る。
待っているのは、二組の家族だけだった。
「ラストじゃん……」
ようやく私の番になったのは、予約時間から2時間遅れとなる、午後1時だった。
診察室の引き戸に手をかけ、開ける。
文句を言わない患者だから、最後にされたのかな。
そのくらいにしか、思っていなかった。
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