小説【檻のベッド】(第8話) 『最後のカンファレンス』
お願いします。と、
挨拶をして診察室に入った。
すぐに、小さな違和感に気づく。
上田先生が、私を見ていたから。
いつもはパソコンに目を向けているのに。
「ごめんねルカちゃん、お待たせしました」
いつもの猫背が、申し訳なさそうに更に曲線になっていた。
どうぞ、という手で、私は丸椅子に座る。
「私はいいけど、先生は大丈夫なんですか? 午後からいつも会議ですよね? もう1時ですよ」
待たされた嫌味ではなく、純粋な疑問だった。
「あー、今日はないんだ、うん」
返事はどこかぎこちない。
いつも通り、2人で電子カルテを見ながら、血液検査の結果を話す。
炎症はなくなってるね。
学校では疲れていない?
医師の診察というより、患者と共同カンファレンスをしている。
これをもう、何年も続けていた。
今回の結果は、救急搬送前の数値よりはずっと良くなっていた。もちろん、私にとってはだけど。
それに何より安心した。
カンファレンスのあとは、日常の雑談をしたり、身体の変化を話したりして、診察時間は終了となる。
いつも私から話し始めるのに、
「実はね、報告があって」
今日は先生が切り出した。
「……はい?」
いつも通りでない展開に、変な声が出た。
「えっと、異動になりました」
「えっ!」
「急で申し訳ない」
「……」
「それで、ルカちゃんは」
「……小児外科から、転科?」
「はい。その通り」
私の頭の中は騒がしくなっていた。
いつかは来る展開が、今日来たから。
上田先生の異動。
主治医がいなくなったことによる、私の転科。
「えー……先生はどこに行くんですか?」
ふわふわした頭のまま、まずそれを訊いた。
「長野の、子どもクリニックです」
──長野。
それだけで無理を悟った。
3つか4つ先の県だったから。
月イチで通うのはなんとかなっても、入院は無理。
「うわー……遠すぎですよ。しかも系列病院じゃないし、ほとんど転職じゃないですか」
「そうだよね」
「そうだよねって、他人事みたいに」
「あはは、うん。言いたいことはわかるよ」
そう。
多分、上田先生はわかっている。
半分先生、半分お兄ちゃんだから。
「前から縁のある病院経営の人から誘われていてね。僕もほら、現場でずっとやってたい人だから」
私は渋々「はい」と頷いた。
上田先生とは、そういう人だ。
経歴ではなく、縁と信念を貫くのだ。
こうと決めたら、こう。
もしかしたら、
教授となにかあったのかもしれない。
派閥が嫌になったのかもしれない。
私にはわからない事情なのかもしれない。
訊かなかった。
「そういうことで、ルカちゃんを診れるのは、今日で最後になります」
「いやー、ちょっと頭が追いつかないというか……。あ! だからこんなに遅い時間になっちゃったんですね、他の家族にも話していたから」
「あはは……ほんと、待たせてごめんね」
入室したときと同じように謝られた。
「ルカちゃんが僕にとって一番長い患者さんだから、最後は時間を気にしないでお互いに話せればと思って」
「思われても、そんないきなり積もる話を思い出せませんよ」
「まあ、そうか。そうだよね」
どこか抜けてて、飄々としている。
最後までこの人はこうなんだ。
私は一息ついて、なんとか状況を受け入れた。
「じゃあ先生、写真撮りましょうよ」
そう思い立って言ったとき、
あの子を思い出した。
アリス。
アリスと別れるときは、写真を撮れなかったから。
もう後悔はしないように。
スマホを持って、先生の隣に行く。
同室で最後の診察を見守っていてくれた看護師さんを手招きする。
え、私も? 2人を撮る係?
という反応だったが、違います。
「一緒に、入ってください」
先生を真ん中にして、両脇を私と看護師さんにして、スマホを構えた。
インカメラの画角に、3人の上半身が入る。
シャッターを切った。
写真の出来栄えを3人で笑ったあと、また自分の席に戻った。
「次の科の先生にはよく伝えておくから」
「はい。でもなんか……寂しいですね」
「ルカちゃんは同じ病院だから、心配いらないよ」
「そうじゃなくて、小児外科と上田先生から離れるのが寂しいんですよ。鈍感だなあ」
それを言ったあと、エミさんが浮かんだ。
「あ、でも次の科にはエミさんがいるのか」
ひとり言のように呟いた。
「エミさんって、篠田さんのことかな」
「鈍感」に苦笑いしていた先生が反応した。
真顔に戻っていた。
「前回の入院中に、エミさんが外来に来てたので久しぶりに喋ったんですよ」
「ルカちゃんの前回って言うと、1ヶ月前か……」
思い出すように、口元に手をあてていた。
「まさか先生、昔とはいえ自分の患者を忘れてないですよね?」
質問の答えは返ってこなかった。
先生は間をたっぷりとって、姿勢を正した。
両手をお腹の前に組み、まっすぐに私の顔を見る。
「春澤ルカさん」
まるで告白が始まる緊張感があった。
「医者としてでなく、個人として、どうしても伝えたいことがあります」
私の「はい」を待ってから。
「体力があるうちに、移植を考えてほしい」
言葉を聞いて、心臓が一度大きく鳴った。
移植。
痛い。お腹を切りたくない。
拒絶反応。怖い。
良くないイメージだけが頭を巡る。
先生の椅子が、きぃ、と鳴った。
背もたれに身体を預けたのだろう。
「……わかりました」
告白の返事をした。
まったく納得も理解も追いついていなかったが、
それ以外の返事は見つからなかったから。
「ありがとう」
胸のつかえが取れたような、
そんな顔になった上田先生が言った。
先生もきっとわかっている。
いきなり言われても納得できないことくらい。
お礼のあと、握手の手が伸びる。
私はそれに応えた。
「今まで、ありがとうございました。お世話になりました」
私の声は震えていた。
「困ったことがあったら、いつでも連絡して」
涙しながら思った。
絶対に言わなそうなことを言っているな、と。
診察室を出るとき、思い出して、振り返った。
「あ、先生」
「ん?」
「両親がきっと、先生にお礼の手紙とか挨拶とかしたいって言うと思うんですけど、いらないですよね?」
先生はいつものとぼけた顔で、
「いらないってことはないけど、お気持ちだけで」
と、応えた。
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