小説【檻のベッド】(第9話) 『大切なあなたへ』
診察室を出た私は、そのまま、小児外科の受付に向かった。
窓口のスタッフさんから、次回の予約と、転科の説明を受ける。
パンフレットや説明文、その他書類を渡された。
このやりとりが最後で、小児外科とお別れなのか。
寂しい気持ちを実感しだした頃。
「春澤さん、これなんですけど……」
スタッフさんが一通の封筒を私に差し出した。
「篠田さんから、春澤さんに渡してほしいと頼まれていまして」
篠田さん?──エミさんか。
「え? はい、ありがとうございます」
何でだろうという疑問のまま、受け取った。
総合案内前。
会計番号を発行して、ベンチに座る。
午前中の外来時間をとっくに過ぎているため、周りの人は少ない。
ようやく、1人の時間となった。
ふう、と息が漏れる。
先生の異動。
転科。
移植のこと。
エミさんからの封筒。
突然が重なりすぎて、鼓動は早いままだった。
──封筒。手紙。
なぜか胸騒ぎがした。
封を開けて、綺麗に折られた紙を取り出した。
心拍数はさらに上がる。
手紙を、ゆっくり広げた。
ルカちゃんへ
突然の手紙でびっくりさせちゃったよね。
今さっきまでルカちゃんと話していて、それからこの手紙を書いています。
実は私、入院の初日でした。
嘘をついてしまってごめんね。
それから、これをルカちゃん1人で読んでいるってことは、私はもうルカちゃんと会えない状態になっているということです。
きっとラインを返せてないよね。
心配させちゃってごめんね。
最後に、楽しくおしゃべりできて良かったよ。
本当にありがとう。
大好きな妹のルカちゃんへ。
PS. アリスちゃんのことを話すルカちゃんがすごく楽しそうだった。
私も会ってみたかったな。
篠田 エミ
最後の文字を読み終えた直後、
急いで手紙を閉じて、封筒に収めた。
溢れた涙で手紙が汚れないように。
封筒をバッグに入れたあと、
顔を手で押さえた。
あっという間に手のひらがびしょびしょになって、もう押さえている意味がない。
着ている長袖で顔を拭った。
泣き声が出ていたかもしれない。わからない。
ようやく涙の勢いが収まる頃、私の会計順の番号がモニターに表示された。
呼び出しのタイミングに、
気を遣ってくれたかのように。
泣き顔を見られないように、うつむき加減で会計を済ませた。
そのあと、私はまだ外に出られない。
もう一度、ベンチに座る。
バッグの封筒を確認した。
──有る。残念なことに。無ければいいのに。
隅に入れたスマホが点滅していた。
意識せず手にとり、ロックを開いた。
LINEが入っていた。
父親からだった。
診察終わったか? 迎えに行ってもいいか?
少し迷ってから返信した。
知り合いと話してるから、3時に迎えにきてほしいな
もう少し、1人の時間が欲しかった。
父親の返信は、了解。ほどほどに。だった。
1時間ほどの自分の時間を確保した私は、病院の中庭に向かった。
昼下がりの中庭に、初夏のそよ風と、柔らかな陽射しがあった。
ベンチでは病院スタッフや患者さんが座って、昼食をとっている。
空いている席に座る。
空を見上げた。
「ルカちゃんと話せて良かった」
1ヶ月前の、去り際のエミさんの声が、頭の中で繰り返された。
また、涙が溢れ出す。
泣きながら思い出す。
エミさんと初めて会ったのは、この中庭だった。
『春澤さんも、小児外科だよね』
そんな言葉からだったと思う。
詳しくは覚えていない。
ただ、そうなるのが当然のように私たちは仲良くなっていた。
エミさん。
一回り以上年下の私と仲良くしてくれた。
同じ病気でも、こんなに明るく生きられるんだと、私に教えてくれた。
恋愛して、
働いて、
結婚して、
子どもを産んで。
なんでもできるってことを、知らせてくれた。
私が『普通』と『こっち側』を暗くならずに繰り返せるのはエミさんを見ていたからだったと、改めて実感した。
数分経って、ようやく呼吸が落ち着いた。
鼓動の速さがおさまっていく。
何度か深呼吸をした。
よし、と小さく心の中で意気込んだ。
スマホを手に取り、LINEを開く。
『エミさん』をタップした。
前回のメッセージ『退院しました』に、
既読がついていた。
──いつ既読がついたのだろう?
小さな疑問は、私に新しいメッセージを書かせた。
手紙を読みました
送信した。
すぐに既読がついた。
画面を見て固まっている私に、『エミさん』からの返信が届いた。
恐れ入ります。
エミの夫です。
もし、お時間あれば、通話はできますか?
私は気持ちのまま、『はい』と返信した。
すぐに通話コールが鳴り、受けた。
『突然すみません。春澤さんですか?』
「はい。春澤ルカと申します」
『エミから話は伺ってます。生前、とてもお世話になったと』
──生前。胸がズキンと痛む。
「いえ、こちらこそ」
『手紙を渡した人からもし連絡があったら、話してほしいとエミから頼まれました』
「エミさんは」
そのあとの言葉に詰まってしまった。
『5月27日に、息を引き取りました』
──半月も前に。
『移植が間に合わず……私の臓器では適合せず、無念でした』
「……はい」
──移植を考えてほしい。
診察室での上田先生の言葉が、重く脳裏に響いた。
エミさんの夫は、私の言葉を無理に待たず、伝えるべきことを、丁寧に話した。
『葬儀が終わるまでは伝えないでほしいという意思だったので、遅くなってしまい、申し訳ありません。それから、喪が明けるまで、1年間はお線香をあげに来てほしくないと』
「……はい、わかりました」
『まだ思い出になりたくないから。そういった意味合いでエミは言っていました』
「……」
『最期の日まで……』
旦那さんの声が、すすり泣きに変わっていく。
『最期の日まで、春澤さんのことを楽しく語っていました。心配もしていました。何度も、何度も謝っていました。ルカちゃんがいてくれて良かったと、何度も言っていました』
スマホの向こうで、息を整えている音がした。
『エミの、大切な人になってくれて本当にありがとうございました』
それから、お互いに感謝とお礼を伝えあい、通話が終わった。
スマホから目を離し、しばらくの間、座って空を見ていた。
空を漂うように、
ゆっくりと雲が流れていた。
目で見る世界は、昨日とまるで同じなのに。
私はまだ、現実に追いつけない。
