【哲学短編小説】『わたしは、誰か』──最終話 鏡
消そうとした自分
僕が、朝はゲーム実況をし、夜にはピアノを弾くようになったのは、何かを誰かに届けたいと思ったからではなかった。
自分には何もないのではないかという朧げな不安を、確かめたかったのだ。
ゲーム実況では、言葉を使って表情をつくり、観客の反応に応じて言動を調整した。
人間の脳は予測と誤差の処理をしている。予測できる中の少しのズレに意味を見出す。変化しない刺激にはすぐに順応するが、違いすぎると不安になる。
変わらなさの中にある少しの揺らぎが、人の脳にとっていちばん心地よいのかもしれない。
僕の実況も、たぶんそうだった。
毎日同じようなトーンでも少しずつ展開を変えて、聞きやすく、わかりやすく感情が読めるようにしていった。
そういう配信が、人にとっての安心のパターンになっていたのかもしれない。大勢の視聴者が集まり、コメントも増えていった。
「落ち着く」「安心する」「毎朝聴いてます」
僕が演じたものは多くの人に届いた。
でも、僕にはその反応がまるで他人に向けられたもののように思えた。
この中に僕はいるのだろうか?
言葉を選んで相手に合わせ、求められる“らしさ”を提供する。
その“演じられた僕”が本当の僕だとしたら、僕という存在は、他人の期待によって形作られているだけの仮面に過ぎないのではないか。
それを確かめたくて、僕はピアノ配信を始めたのかもしれない。
自分をつくることをやめて、むしろ消そうとした。
言葉を排し、何も説明しない。
同じ曲を、同じ時間に、毎晩全く同じように弾く。
感情を排除し、微細な揺らぎすら意図的に避けた。
意味そのものを限界まで消すようにしていた。
それでも、毎回何かが違っていた。
音の揺らぎ、指の力の入り方、鍵盤を離すタイミング。
どんなに再現しようとしても、同じにはならなかった。
それならば、意図してつくった“自分”ではなく、消そうとしても残ってしまう違いが、“自分”という存在のいちばん確かな痕跡だったのかもしれない。
誰にも見てもらわなくても構わない。そのことに気づいただけで十分なはずだった。
──あの日までは。
偶然のような発見
あの日、プレゼンのスライド操作を任された自分は、先輩のノートパソコンを預かっていた。
スライドを表示しようと軽くトラックパッドに触れたとき、小さなブックマークが目に入った。
「23:00 – ピアノ配信」
鼓動が高鳴った。
まさか、自分の配信を先輩が見ているなんて想像もしていなかった。
その瞬間から、それはもう実験ではなくなった。
そして昼休み、休憩室で偶然聞いた会話が、もう一つの驚きをもたらした。
「......ゲーム実況なんですけど、最近ちょっと変な人見つけて......」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がひどく落ち着かなかった。
僕が続けていたもう一つの配信まで、偶然にもこの研究室の誰かが見つけるなんて、想像もしていなかった。
もしかしてこれは偶然じゃないのかもしれない。
迷った末、試してみようと思った。
一度だけ、二つの配信を止めてみる。
空白の一日。
それが、彼女たちに何かを気づかせることになるかもしれない。
そして、配信を再開した朝、僕はゲーム実況で一つの言葉をそっと差し込んだ。
『前帯状回がざわついた』
それは、研究室の人間なら誰でも知っている、教授の口癖だった。
そして、彼女は僕の元へやってきた──
実験室にて
荒木がこちらを向いた瞬間、サキはなぜだか少し呼吸が浅くなった。
声をかけたのは自分のはずなのに、次の言葉がすぐに出てこなかった。
部屋の中は静かで、どこか冷たい空気が漂っていた。
彼は、何も言わずに椅子をひとつ引いた。
その仕草も、どこか最初から用意されていたように感じられた。
サキはその椅子に腰を下ろし、しばらく何も言えずにいた。
荒木は、一瞬だけ視線を逸らしたが、やがて小さくうなずくようにして言った。
「……気づいたんですね」
それだけだった。
その声は、どこかほっとしたようにも聞こえた。
「……何のためにやっていたか。正直、最初は自分でもよくわかっていませんでした」
「でも、たぶん……自分を、できるかぎり消してみたかったんだと思います」
「感情も意味も入れずに。誰にも届かないところで、ただ自分がいなくなる感覚を確かめようとしてたのかもしれません」
「それでも……どこかに、必ず違いが出てしまって。自分ではないつもりでも、どこかに、何かが残ってしまった」
「それが、自分という存在のいちばん確かな痕跡なんじゃないかって、途中で思うようになりました」
「もし……それに気づく人がいたとしたら、僕が何者なのかを自分でも少しは確かめられるかもしれない。
……そんな気がしていました」
サキはしばらく黙っていた。
荒木の言葉は、自分の中にゆっくりと沈んでいくような響きをしていた。
サキは、ふと口を開いた。
「じゃあ……自分って、自分だけじゃわからないってこと?」
「はい。たぶん、そうです」
荒木は即答したが、それは断定ではなく、余白があるような言い方だった。
「自分を見ようとするほど、見せようとする自分が出てきてしまう。本当の自分からは遠ざかっていくような気がするんです」
サキは頷きながら、視線を少し遠くにやった。
「でも、それってさ……」
「誰かの中に現れることでしか、自分を感じられないってことだとしたら、わたしたちは他者のなかでしか存在できない幽霊みたいなものだよね……演じてる部分を全部取り払ったら本当の自分が残るって、そんな単純な話じゃないと思うんだ」
荒木はうなずいていた。
「どう演じるか、何を隠すか。それもその人の選択だよね。結局、どう演じるかにも、その人らしさって出ると思う。演じることが自由意志や創造性の表れでもあるんじゃないかな」
「はい......そのとおりだと思います」
サキは少し間を置いてから、言葉を整えるように続けた。
「だとしたら……わたしたちは、自分をどう見せようとしているかと、実際にどう見えているか、そしてそれに気づいてくれる誰かによって、はじめて“自分”になっていくのかもしれない」
誰かが、何かに気づき、思考を巡らせたとき。
その動きの中に、微かにでも自分の痕跡が残っていたのだとしたら──
それは、たしかに“生きている”ということなのではないかと、サキは思った。
演じることで生まれる共感もあれば、消えようとして見つかる存在もある。
他者と関わるということは、きっとその両方のなかで自分を揺らし続けることなのだ。
ふたりの間に、再び沈黙が訪れた。
それは、2人の関係の中で何かが共鳴していることを示す、やさしい沈黙だった。
誰かとして、ここにいる
サキは、何も言わずに立ち上がった。
荒木も少し顔を上げたが、何も言わなかった。
サキは、ドアに手をかけたとき振り返ろうか迷ったが、そのまま前を向いた。
もう確認しなくてもよかった。
背中の向こうに、“誰かがいる”という感覚を、今はちゃんと持てていた。
廊下に出ると、午後の光が窓際に淡く広がっていた。
あの配信になぜ惹かれたのか。
ずっと答えはわからなかった。
でも今なら少しだけ思える。
あの配信の中に、“何かが消えきれずに残っていた”という事実。
その痕跡に、サキはたしかに触れていた。
そしてきっと、その痕跡に惹かれていた自分自身もまた、“わたし”という存在の輪郭をなぞっていたのだと思った。
わたしが惹かれたその音は、わたしが自分を確かめようとしていた音でもあった。
そして今、わたしもまた、誰かだった。
(完)
本編
特別編
