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【特別授業 1/5】『人はなぜ生きられるのか?』──人を、設計する


──とある大学の医学部新入生のための特別講義
(この話はフィクションです)

古びた教室で


春の柔らかな日差しが、木々の隙間から差し込み、地面にまだらな光の模様を描いている。

吹き抜ける風の匂いがどこか懐かしく、それでいて新しい気配を運んできた。

今日は、新入生オリエンテーションの一環で行われる特別講義の日。

学年をいくつかのグループに分けて、異なる教授がそれぞれの担当を受け持っている。

僕たちのグループに割り当てられたのは、解剖学の教授だった。

「ねぇ、解剖の先生、ちょっと変わってるらしいよ」

隣を歩くリサが、スマートフォンを眺めながら言った。

「先輩が言ってたんだけど、研究棟の奥の誰も行かない部屋にこもってるんだって。あんまり外に出てこないらしいよ」

「都市伝説じゃん……」
思わず吹き出したのは、筋トレ命のケン。

「でも、教科書に載ってないことばかり話して、なんか面白いって有名らしい」

淡々としているようで、少し熱を帯びた口調で話すのは、頭脳派のサキだった。

僕──ミナトは、そういう話が嫌いじゃない。

「特別講義って、いったいどんな話をするんだろう?」

ちょっとワクワクしていた。

案内に従ってたどり着いたのは、医学部本館。

戦前から使われているという歴史ある建物は、僕たちが普段授業を受けているガラス張りの校舎とはまるで別世界だった。

ところどころひびの入った石の階段、軋む木の扉、古びた配管、埃のにおい──すべてが、長い年月を凝縮したようにそこに息づいていた。

アーチ状の長い廊下を進んだ先に、ひときわ重厚で黒い木の扉が現れた。

「……ここ、だよね?」

リサが少し不安そうにつぶやいた、そのとき──

ギィ──と、重たい音を立てて扉が開いた。
中から現れたのは、白衣を着たひとりの男性。

無精ひげに少し乱れた髪、肩のあたりにシワの寄った白衣、そして、丸い眼鏡の奥の瞳は、意外なほどに優しく澄んでいた。

「やあ、みなさん。よく来てくれたね」

柔らかく、どこか人を惹きつける声。
その一言で、その場の空気が一瞬にして変わった。

彼の名は、葉山先生。
正式には「葉山宗一(はやま・そういち)」、細胞生物学を担当している教授だ。

長らく海外の田舎の病院や研究所で研究に没頭していたが、最近になって大学に復帰したらしい。
その経歴も、教え方も、何もかもが異端と評される、ちょっとした伝説の人物だった。

「さて」
先生が、ゆっくりと教室を見渡す。

「今日は、みなさんに“人はなぜ生きられるのか”というお話をしてみようと思います」

その瞬間、僕の胸の奥が高鳴った。

この講義は、ただの授業ではない。
きっと僕たちは、ここから何かに触れることになる

──そんな予感がした。


人を「設計」する?


葉山先生は大きな机の前に立つと、こう問いかけた。

「さて、みなさん。今日、まず最初に投げかけたいのは、『もし君たちが“人間”という生き物をゼロから設計しなければならなかったら、何をどう作るか?』
そんな仮定から始めてみたい。」

教室が一瞬静まりかえる。

「もちろん実際には、すべては、偶然の積み重ねと淘汰の結果にすぎない。でも“設計者の目で見る”という思考実験は、多くの発見をもたらしてくれるんだ。」

「人間を、設計する......」と、ケンが眉をひそめた。

「そう。ちょっと想像してみてほしい。宇宙のどこかに惑星があるとして、そこに“ヒト”をいきなり誕生させなければいけない。さて、まず何が必要だろう?」

「動くための手足……とかですかね」

ケンが腕を組みながら言った。

「なるほど。確かに“動く”というのは生物の重要な機能のひとつだ。では……動くためには何が必要だと思う?」

「筋肉ですか?神経とか?」

「いいね。でも、その筋肉や神経を動かすためには?」

「……エネルギー?」

リサのその答えに、先生は微笑んだ。

「そのとおり。設計の出発点として、まず“エネルギー供給”の仕組みがなければ、何も始まらない。何も動かないし、何も感じられない。死んだ機械と同じだよ」

先生は一度視線を外して、眼鏡の位置を直してから再び前を向いた。

「生命を動かすには、エネルギーが必要だ。ではそのエネルギー、どうやって取り込む?」

「……食べる」と、リサが少し小声でつぶやく。

「そう。摂取するということだね」

先生は、黒板に「食べる」という文字を大きく書いた。

「設計者の目線に立ってみよう。もし君たちが、人間というシステムにエネルギー供給機構を組み込むとしたら、どんな方式を選ぶ?」

教室に静寂が流れる。

「たとえば、車みたいに燃料口みたいなところから燃料を入れていってもいいわけだ。わざわざ“食べる”という複雑な行為を通して栄養を取り込むように設計する?」

サキが口を開いた。
「環境に応じて、手に入るものを取り込めるようにした方が……生存率が上がる、と思います」

先生はうなずきかけて、ふと手を止めた。

「なるほど。それは適応という視点だね。でも、なぜ“食べる”ことが生き残りやすさに結びつくと思う?君たちが人間を作れるとしたら、直接栄養を送り込むシステムの方が確実では?」

「……食べたいと思わないと行動につながらない」と、僕はぽつりと言った。

先生はゆっくりとうなずいて、黒板に「空腹」と書いた。

「そう。空腹を感じないなら、食べたいと思わないなら、行動そのものが起こらない。 つまり、ただの燃料口だけではダメなんです」

「燃料切れで止まったまま放置みたいな?」とケンが腕を組み直す。

「その通り。だから、不足を感じる感覚と、満たそうとする欲求が必要になる。それが、空腹であり、食欲であり、“食べる”という行為だ。じゃあ、君たちが設計者なら、空腹をどうやって感じさせる?」

サキが口を開く。

「……血糖値が下がったら、センサーが反応するとか?」

「機械だったら、たとえば燃料が残り10%という数字をセンサーが検知して、ランプが点く。それだけだ。でも、人間を設計するなら──その情報を、どうやって空腹という感覚に変えるか」

僕は思わず声に出した。

「……それを判断する場所が、必要になりますよね」

「そう。センサーだけじゃ足りない。状況判断をする中枢が必要になる。それが、脳の“視床下部”という場所だ」

サキが続ける。

「そこに、血糖値やグレリンやレプチンの情報が集まるんですね」

「グレリンやレプチン......?」ケンが腕を組んでうなった。

「よく知ってるね。グレリンは胃から出て、“食べたい”という信号を脳に送る。そして“食べたら満足した”という信号は、脂肪組織などから出るレプチンが伝える」

先生は続ける。

「実はね、食欲を調整しているホルモンは、グレリンやレプチンだけじゃない。まだまだたくさんあるんだ」

黒板にいくつかの名前を書き出した。

《インスリン》《PYY》《GLP-1》《CCK》《オレキシン》……

「今は全部覚えなくていい。でも、これは覚えておいてほしい。人間の“食べたい”や“もういらない”は、単純なスイッチじゃない。空腹感は、“ただ燃料が足りない”という信号以上のものなんだ」

先生はさらに続けた。

「これらのホルモンはあくまで情報を運んでいるにすぎない。
“食べたい”という欲求を最終的に形づくるのは、視床下部という中枢の判断なんだよ」

リサが感心したように言う。

「……つまり、いろんな感覚や状況が重なって、“食べる”という行動が起こるようになってるんですね」

「そう。そしてその複雑さが、柔軟さを生んでいる」

報酬系の設計


「設計者である君たちは、エネルギーが足りないという情報を中枢に届けただけでは、まだ設計は不十分だということがわかるはずだ」

先生は黒板を見つめたまま、続けた。

「……つまり、人間はただ空腹だというだけでは、ガス欠になって止まってしまうかもしれない。
君たち設計者が考えるべきなのは、その先にある動機なんだよ」

「動きたくなる理由が必要だと思います」と、僕も続いた。

先生は「空腹」という言葉の下に、もう一つの言葉を書き加えた。

「そう。それが“報酬”だ。行動の動機付け。行動が嬉しいことに結びついているから、また繰り返すようになる。だから、設計者は食べることに喜びを組み込む必要がある」

リサが興味津々といった顔で続けた。

「ドーパミンが……出るんですよね?」

「そのとおり。報酬系の神経回路は、“食べる”という行為を“快楽“として学習させる。おいしいと感じた記憶が、次の行動の動機になる。つまり、設計者は、快楽を通して、生きる行動を促している」

「なんか、ちょっとずるいですね」と、ケンが眉をひそめて言った。

先生は笑ってうなずいた。

「ずるいというか、よくできてるんだ。なぜなら生き残ることは、実はとても面倒くさい。放っておいたら誰もその面倒をやらない。だから“気持ちいい”という感覚を報酬として与えておく」

「そうか……命令じゃなくて、ごほうびで動かす」とサキがつぶやいた。

その言葉に、先生がゆっくりと頷いた。

「いい視点だね。設計者の目線で考えるなら、ここでひとつ問い直してみよう。
『人間は、命令で動くようには作れないのか?』と」

教室が静まり返る。

「命令で動くって……ロボットみたいな?」とケン。

「そう。たとえば“空腹を検知したら必ず食べる”というルールを、機械のように組み込むことも可能かもしれない。けれど、それは意外なほど不安定で、壊れやすい設計なんだ」

「どうしてですか?」と僕。

先生は黒板に「命令」と書いて、丸で囲んだ。

「まず、命令は“内的動機”ではない。外部から与えられる指示や条件にすぎない。自然界において、常にその命令を管理してくれる存在はない。自分で判断し、自分で動く、それが生命体にとっての基本だ」

「“これをしなきゃいけない”だけだと、予想外の状況に対応できないかも」サキが続けた。

「そう。人間は“義務”だけでは動けない。少なくとも初期設計としては。
行動の動機を義務にしてしまうと、やりたくないときや意味が見えないときに止まってしまう。
でも“気持ちいいからやる”なら、自ら動き出す。しかも、繰り返す。そういう回路を、生物は選んできたんだろう」

リサが頷く。

「なるほど……能動的ですね」

「そう。つまり、設計者が繰り返してほしい行動には、ドーパミンによる報酬系を紐づけておく。ドーパミンだけでなく、セロトニンやエンドルフィンといった、“快楽”に関わる他の神経伝達物質たちも関与している。それらの物質が、快楽によって“自発的に生きる”という仕組みだ」

先生は黒板の文字をじっと見つめたあと、ゆっくりと振り返った。

「……ここまでで、ようやく“食べる”という行為がどれだけ複雑で、美しく設計されているかが見えてきたはずだ。でもね、みなさん。栄養を摂るだけではまだ全く不十分だ」

リサが首をかしげた。

「え、まだ何かあるんですか?」

先生は笑って、黒板に新しくこう書いた。

「代謝」

「取り込んだものを、どうやって使える形に変えるか。そこに、人間という存在の、さらに深い設計が眠っているんだよ」

──どこからかチャイムが鳴り響いた。

「……今日はここまでにしよう。続きは、また次回」

先生が黒板のチョークを置いたとき、教室の空気には名残惜しさが漂っていた。

──僕たちはまだ、“人を設計する”という旅の、ほんの入り口に立ったばかりだった。

(つづく)

続きは

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