【特別授業 3/5】『人はなぜ生きられるのか?』──止まっていても燃えている
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「体温──生きる熱」
葉山先生は黒板の上に書かれた言葉を見上げながら言った。
「君たちはもう理解しているはずだ。食べることでエネルギーを取り込み、それを貯めて、必要なときに必要なだけ使えるようになった。それが人の設計の基盤だ」
先生は、教室をゆっくりと見渡す。
「では、設計者の視点で考えてみよう。君たちが人間という生き物を設計するなら、どんな状態が理想的だろう?」
誰も答えない。だが、空気は前のめりになっていた。
「それは、“いつでも動ける状態”だ」
先生は一歩、黒板の前に出て話を続ける。
「エネルギーを持っていても、反応する準備が整っていなければ意味がない。思い立ったときに、すぐに走れない。考えようとしても、脳の回路が冷えていては動き出せない。生きるというのは、ただ動くことではない。“動き出せる状態にあり続ける“ということなんだ」
先生はさらに続けた。
「では、この状態をどう作る?設計者として、常に生きているという状態を、どう維持するかな?生き物は、動くときだけスイッチが入る機械ではない」
体温は「待機電力」
サキが少し首をかしげて言う。
「……体温が関係するんですか?」
先生はうなずいた。
「常に36〜37度に保たれている体温。代謝の副産物を、意味のある機能へと転換する、それが“恒温性”という設計だ。いつでも走り出し、考え始められるように、身体を“スタンバイ状態”に保っておくためのコストなんだ」
リサがぽつりと言った。
「……待機電力、みたいな?」
先生は微笑む。
「まさに。それこそが恒常性の本質だ。変化に即応するために、何もしていないようで、実は常に準備している──それが体温だ」
先生は、熱のこもった口調で続けた。
「酵素反応を思い出してほしい。酵素がもっともよく働く“至適温度”があることは知っているね?」
「ヒトなら、体温と同じぐらい……」ケンがつぶやく。
「そう。タンパク質の立体構造は、芸術作品のように緻密だ。その立体構造によって特定の分子とだけ結合する。温度が低すぎれば反応速度が落ちる。では、温度が高いとどうなる?」
しばらく沈黙が続いたが、僕が口を開いた。
「変性して壊れる」
「その通り。酵素も、細胞膜も、タンパク質も、生きるための部材は繊細なんだ。わずかな歪みで反応できなくなる。そして一度変性すれば、基本的には元には戻らないことが多い」
先生はゆっくりと手を広げる。
「だから、壊れず、でも止まらないというギリギリの温度で生きることを選ぶ必要がある。そしてその温度を維持するために、エネルギーを使って放熱しすぎない工夫もしている。それが体温という設計だ」
熱を生み、熱を逃がす
先生は黒板の脇に立ったまま、少し間を置いてから話を続けた。
「では、そのスタンバイ状態である体温は、どうやって維持されているのか。設計者として考えてみよう。必要なのは、生み出す仕組みと、逃がす仕組みの両方だ」
先生は、チョークを持ち直し、黒板の端にゆっくりと書き加えた。
「体温=熱産生 - 熱放散」
そして振り返りながら言った。
「体温とは、身体の中で“どれだけ熱を生み”、そして“どれだけ熱を手放すか”の差で決まる」
さらに続ける。
「体の中では、つねに膨大な数のエネルギー変換が起きている。その結果が、熱として体内に残ることになる。だが、それだけでは不十分だ。熱がただたまるだけでは困る。必要に応じて熱を逃がし、また必要に応じて閉じ込める工夫がなければ、体温は維持できない」
先生は教室を見渡し、続けた。
「血流調整、汗の蒸発、呼気の排熱……それらは設計された熱の出口であり、一方で皮下脂肪や皮膚血流の収縮などで熱を必要以上に逃がさない工夫もしている」
ケンが首をかしげる。
「でも……そんなに熱って出ていっちゃうもんなんですか?」
「出ていくとも。それが、“放熱”、つまり熱を逃がす工夫だ。ヒトには主に4つの放熱の方法がある。輻射、伝導、対流、蒸発。これらを使い分けながら、身体の熱を外に逃がしている」
ケンが息を吐きながら言った。
「……人間って、バランスの上に生きてるんですね」
「その通り。私たちの体は、熱を生み続けるがゆえに、壊れないように熱を逃がすというバランスの上にある」
動けるだけでは動かない
「そして、もうひとつ、設計者が考えなければならない重要なことがある」
黒板の方に視線を向けたまま、先生は続けた。
「君たちが人間を設計するなら、ただ動けるようにしておくだけでいいだろうか?」
僕はぽつりとつぶやいた。
「……動けるだけじゃ、動かない」
先生は目を細めた。
「そう。動けることと動くことは違う。エネルギーを持ち、反応の準備が整っていたとしても、生きていると言えるだろうか。人は、何かを望まなければ動かない」
教室に、また一瞬の静寂が流れた。
「つまり──欲望だ」
先生はそう言って、チョークを再び持ち直すと、黒板に一語、「欲望」と丁寧に書き加えた。
「それが、“生きる”という設計の、最後の鍵なんだ」
先生は振り返る。
「食欲。性欲。探究心。承認欲求。どれも、生物として生き延びるために必要な方向へ、身体を動かすための力だ」
「ただの機械じゃ、駄目なんだよ。ボタンを押されるのを待つような存在では人間は生きていけない。自ら動きたくなるように設計されていなければならない」
サキがゆっくりと口を開いた。
「……自発性ですね」
「そう。内側からの動機だ。これがない限り、エネルギーがあっても、体温があっても、反応できても、人は生きているとはいえない」
先生はゆっくりと言った。
「欲望こそ、生きる方向を与える羅針盤なんだ」
そして少し間を置いて、こう続けた。
「では、欲望とはどこから生まれるのか?進化の偶然なのだろうか?」
先生はゆっくりと眼鏡をかけ直し、黒板に目をやる。
「今日はここまでにしようか」
そう言って、いつものように笑みを浮かべると、教卓の横にある鞄を手に取った。
時計の針は、ちょうど正午を指していた。
椅子を引く音、ノートを閉じる音。学生たちは少しだけざわつきながら、どこか思索しているようだった。
教室に、次なる問いが投げかけられていた。
(後編につづく)
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