【特別授業 2/5】『人はなぜ生きられるのか?』──人は、歩く放熱装置
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特別授業の日
あれから1週間が経った。
医学部本館に来るのは、それ以来だ。
僕たち1年生は、ふだんは別のキャンパスで授業を受けているから、ここに来る機会はまだあまりない。
それでも、この古い建物に足を踏み入れると、時間の流れ方が違うように感じる。
今日は、またあの特別講義の日だ。
本館の前に着くと、ケンたちがすでに集まっていた。
「ねぇ、ここってさ、夏目漱石の脳が保管されてるって知ってた?」
リサが開口一番、そんなことを言い出す。
「こわ……でも見てみたい」
「俺は遠慮しとくかな」ケンは意外にも怖がりらしい。
迷路のような廊下をすぎ、前回と同じ教室へ着いた。
まだ先生は来ていないみたいだ。
ケンが、教室に入るなりさっと教室の窓を開けると、気持ちのいい風が吹き込んできた。そして、机に向かいながら言った。
「でもさ、結局お腹が減るって、ただの苦痛回避じゃない?」
サキは少し考えてから、首をかしげる。
「うーん……でもそれだけなら、やっぱり面倒くさいからもう食べなくていいやってなる人もいそう」
「まあ少なくとも僕たちは“美味しそう”って思って食べるよね」僕はなんとなくそう言った。
教室に一瞬、沈黙が訪れた。
──そのとき、ギィーと音を立てて扉が開いた。
葉山先生が、教室に入ってきた。
エネルギーを「使う」
「やあ、また会えたね」
柔らかく微笑んでそう言うと、先生は黒板の前に立ち、ゆっくりと眼鏡を外して拭いた。
「……前回、君たちと“食べる”という行為について話したね。どうだったかな?少しは“生きる”ということの輪郭が見えたかな」
教室の空気がゆっくりと流れ始める。
「さて、今日はその続きだ。“生きる”とは何かを考えるとき、まずはエネルギーを能動的に取り込む仕組みを設計しなければならなかった」
葉山先生は、ゆっくりと黒板に二つの言葉を書いた。
「食べる → 使う」
「生きるためには取り込むだけでは足りない。“使える”ようにする設計が必要になる。では、どんなエネルギーを使う?どう使う?いつ使える?」
先生は、チョークを置くと少し歩きながら続けた。
「この講義では、常に設計者の視点に立っている。つまり、“君たちが人間という生き物をゼロから設計するなら”という仮定で考える」
サキがうなずきながら言う。
「まず、どんなエネルギーを使うか、ですね」
「その通り」
黒板に「化学エネルギー」と書かれる。
「私たち人間が使っているのは、食べ物の中に蓄えられた“化学エネルギー”だ。炭水化物、脂質、タンパク質──すべて、分子間に蓄えられた化学結合のエネルギーだ」
「……でも、そのままじゃ使えないですよね?」リサが言う。
「そう。これらは直接的には使われない。運びやすく、すぐ反応できるエネルギーに一度変換する。それが──」
「ATP」僕が口にした。
先生はうなずいて、黒板に「ATP(アデノシン三リン酸)」と書く。
「なぜATPなのか。なぜ、わざわざこういう仕組みを作ろうとするのか。設計者の目線でなければ見えてこない問いだ」
「直接ブドウ糖とかを使った方が早くないですか?」ケンが少し首をかしげる。
「たしかに直接のほうが合理的に見える。でも、実際の細胞では、同時多発的に何万もの化学反応が走っている。そこで必要なのは、制御可能で、どこでも使える形のエネルギー。つまり、ATPは“使い切りのエネルギーパック”だ」
「電池みたいなものですか?」とリサ。
「まさに。どこにでも届いて、すぐに使える。しかも安全で、分解しやすい」
先生は少し間をおいて、こう続けた。
「1日に使われるATPの総量は、体重の半分以上にもなる。でも実際に体内に蓄えられている量は、ごくわずかしかない。なぜなら、ATPは貯蔵できないからだ」
「え、そんなに使うの!?」ケンが驚く。
「その通り。だからこそ、生きている限り、絶えず作り続けなければならない。それは、生き物の宿命のようなものだ」
「運動中も、静止中も、体は常にATPを再生し続けている。例えば筋肉では、即時型のクレアチンリン酸系、短時間の解糖系、長時間のミトコンドリア系。この三つのルートが並列に動いて、必要なときに、必要な場所で、必要な量だけ供給されるよう設計されている」
「これは運動だけじゃない」先生は続けた。
「脳が考える。心臓が動く。腸が吸収する。免疫が働く、すべてATPだ。生きるとは、ATPを作って使ってまた作る、という連続した化学変換の流れとも言える」
「……代謝、ですね?」サキが小さく言った。
「そう。私たちはブドウ糖や脂肪酸を“異化”してATPを得る。一方で、得た材料をもとに“同化”して日々体を作り替え続ける。細胞、酵素、ホルモン……すべて、代謝の上に成り立っている」
「代謝は絶えず続くなら、エネルギーの供給も絶えず必要になるはずだ。常に食事していられるだろうか?」
ケンが言う。「いや、寝てるときとか、飢餓状態とか……」
「そうだね。だから、いつでもどこでも必要なだけ使える“仕組み”が必要になる。それが、エネルギーの貯蔵の設計だ。肝臓や筋肉は短期間のエネルギーとしてグリコーゲンを保存している。そして、脂肪は長期のエネルギー貯蔵庫、というわけだ」
先生は続ける。
「そして、いざとなれば、タンパク質も使う。筋肉を分解してアミノ酸から糖を作る“糖新生”すら設計されている」
先生は、手元のチョークを置いて言った。
「エネルギーを取り込み、使える形に変え、必要なタイミングで必要な場所に届ける。使い終わったら、また作る。そのすべてが、代謝という名の設計なんだよ」
エネルギーの行方
「さて、ここで重要なことをもう一つ」
先生は黒板に、「エネルギー保存則」と書いた。
「エネルギーは、使えば消えるわけではない。形を変えて、“どこかへ移る”だけだ」
「たとえば君たちが走るとき使っているのは、ATPに蓄えられた化学エネルギーだ。そのエネルギーが筋肉に使われて、君たちの体が動き出す。つまり、化学エネルギーが運動エネルギーに変わる。そして最終的には......?」
「熱になる」と、サキが答えた。
「その通り。筋肉が収縮すれば摩擦や抵抗が生まれ、やがて熱となって体温を上げる。そしてその熱は、汗や皮膚から空気中に放散されていく。エネルギーは使われて消えるんじゃない。使われた後、必ずどこかに移っているんだ」
「つまり、動いた分だけ、自分の中にあったエネルギーが世界のどこかに流れているわけですね」ケンが腕を組みながら意味ありげに言う。
「その通り。運動エネルギーは空気をかき混ぜ、床を震わせ、摩擦熱となって外に出ていく。空気が少し温まり、地面にわずかな振動を残す。その全部が、エネルギーの移動なんだ」
サキが思案顔で続ける。
「じゃあ、食べたご飯は、最終的には体の外に出ていく熱になってる?」
「そう。ものすごくざっくり言えば、ご飯を食べて、世界を少し温めて、そしてまたお腹がすく。それは、生きている限りつづく“変換の旅“だ」
生きる熱
先生は、指先に残ったチョークの粉を軽く払って、こう続けた。
「ここまでで、エネルギーを取り込んで、使うという仕組みが、どのように設計されているかは分かってもらえたと思う」
「でも……」先生は一呼吸置いた。
「せっかくATPとして得たエネルギーの多くが熱となって外に出ていく。これは無駄だろうか?」
サキが小さく首をかしげる。
「熱を出すことに意味がある……」
先生は微笑む。
「次はその話をしよう。なぜ僕たちは“体温”を持つのか?もしかして、エネルギーをただ世界に散らすだけの“歩く放熱装置”にすぎないのか?」
──いつのまにか、黒板の上に新しい言葉が書かれていた。
「体温──生きる熱」
(つづく)
続きは
