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【哲学短編小説】『わたしは、誰か』──第2話 ボレロ


何事もなかったように


22:59。

サキは、ノートパソコンを開いた。
前日とまったく同じ動作だが、指がいつもよりほんの少しだけ慎重だった。
「もし今日も配信がなかったら」という想像が、頭をよぎっていた。

画面には、暗めの照明と白く光る鍵盤が映し出された。
一瞬の遅延もなく、23時ちょうどに旋律が始まった。

ラヴェル《亡き王女のためのパヴァーヌ》が、いつもと同じように流れていく。

「……戻ってる」

そう思ったこと自体に、サキはわずかな戸惑いを覚えた。
戻ったと感じた時点で、すでにここが“元の場所”だったことを無意識に決めていたのかもしれない。

昨日、何も聴こえなかったことが、これほどまでに異常に感じたのは、なぜだったのだろう。

旋律は滑らかに進む。
どこまでも平坦で、感情を削ぎ落としたような響き。

同じようで、違うようだった。同じとは何なのだろうと、ふと考えてしまう。

そんなふうにして、ピアノは終わった。

画面には何も表示されず、終了の合図もない。

サキは数秒だけそのまま画面を見つめ、やがてパタンとノートを閉じた。
深く息をつく。
安堵なのか、それとも別の何かなのか、はっきりとは分からなかった。

でも、ほんの一日配信がなかっただけで、これほど気持ちがかき乱されるなんて自分らしくない、と思っていた。


聞き覚えのある言葉


研究所の午後は、いつも少しだけ長い。
書類とグラフと沈黙が並ぶなか、カナの声が小さく割り込んできた。

「先輩……ちょっと変なこと言ってもいいですか?」

サキは手を止め、カナを見る。
彼女は、自分のスマホを画面が消えたまま机に置き、少しだけ不安げな表情をしていた。

「……なんかあったの?」

「うん。あの、朝のゲーム配信なんですけど──」
カナは少し声を潜めた。

「あの配信、今朝はちゃんとあったんですよ。昨日は何だったんですかね……バグだったのかな」

「そう」
サキは少し胸がざわつくのを感じた。

「でも、声のトーンはいつも通りなんですけど......」

カナは紙パックのいちごオレを少し傾ける。

「『前帯状回がざわついた』って言ったんです。それ、教授がよく言うセリフですよね。偶然......ですかね?」

“前帯状回がざわつく”
意思決定の揺らぎや、感情のざわめきが起きているとき教授がよく使う比喩だった。前帯状回は、特にネガティブな感情の発生や、心の揺れ全体への対処・調整に関与することが知られている。

──なぜ、あのゲーム実況者が、それを口にしたのか。

自分の心が、何かにゆっくりと触れたような、妙にリアルな感覚があった。

「……偶然、かもね」

サキはそれだけ言って、タブレットの画面に視線を戻した。

そこに映っていたグラフの意味が、いつの間にか自分自身から遠ざかっているような気がした。

名前のない共鳴


その日の夕方。

書類をまとめていたサキは、カナの姿を見かけて声をかけた。

「……少しだけ、話してもいい?」

カナは軽く目を見開き、うなずいた。

研究棟のラウンジ。誰もいない時間帯だった。

カナが紙パックのカフェオレを買って戻ってきたとき、サキはすでにソファに腰かけ、手元のスマホを見つめていた。

「実は、私も毎日配信を見てるの」

「え?」

「ピアノの配信。毎晩、ライブで同じ曲が同じ時間に流れるの」

カナは一瞬だけ目を見開いた。

「……そんなのがあるんですか?」

「あるの。……昨日だけなかったけど」

カナの目がわずかに揺れた。

「それってまさか......」

沈黙が落ちる。
ラウンジに響いているのは、空調の微かな音だけだった。

「その配信……なぜずっと見てるのか、なぜ惹かれていたのか、昨日改めて考えた」

サキは続ける。

「毎回まったく同じはずの演奏。なのに、どこか違う気がして……その違うというのがなんなのか、それが気になってずっと聴いていた気がする。だけど、昨日それが消えた」

「……私と逆ですね......」

カナが言った。

「私、毎回少し違う内容のはずなのに、ずっと同じように感じてて、いつのまにか何も考えずに安心して見てました。でも、昨日なくなって、今日戻ってきたら……少し怖くなったんです」

サキは目を細めた。

「同じって何だろうね」

「え?」

「物理的に同じでも、同じと感じられなければ同じじゃない。違いって、実体があるものなのか、私たちが作り出すものなのか……」

しばらく、2人は言葉を交わさなかった。
違う配信、違う時間、違う形式──でもどこかで似ている何か。
何が2人を惹きつけていたのか。

カナがそっと声を落とす。

「もしかして……2つの配信、同じ人がやってるんじゃないですか?しかも、研究室の誰かだったりして......」

サキは、答えなかった。

ただ、胸の奥にはぼんやりと違和感が浮かび上がっていた。

見えてきた輪郭


あれから数日経った。

昼休み、カナはいつものように、紙パックの抹茶ラテを手にしていた。だが、どこかそわそわした様子で、サキの隣の席に腰を下ろすと、急に口を開いた。

「……先輩、ちょっと、信じてもらえるかわからないんですけど」

「なに?」

「……たぶん、わかったかもしれません。配信の人」

サキは手を止める。

「どういうこと?」

カナは深く息を吸った。

「今朝のゲーム実況で、『今日はfMRIがあるので、少し早く終わります』って、ぽろっと言ったんです。今日、荒木さんがfMRI担当することになってて……しかも、話してる時の言い方とか、イントネーションとかも一緒だって気づいたんです」

「荒木くん?」

サキは目を細めた。

「よく考えてみると、使う言葉とか、ちょっとずつ同じ気がして」

カナの声には、どこかためらいが混ざっていた。

沈黙が流れた。

カナもそれ以上何も言わず、手元の抹茶ラテをじっと見つめている。

「……彼、どこにいる?」

少しして、サキが口を開いた。

「まだ実験室にいると思います。午後のセッションの準備で」

サキはゆっくり立ち上がった。

「ちょっと話してみる」

「……いいんですか?」

カナの問いに、サキは答えなかった。

サキはゆっくりと歩き出した。自分の中に残っていた違和感が、少しずつ輪郭を帯びはじめるのを感じていた。

──本当に、彼なのか?
──もしそうだとしたら、どうしてあんな配信を?

その問いは、ラヴェルのボレロのように、何度も繰り返されながら少しずつ形を変えていく。

なぜ、こんなにも惹かれていたのか。
なぜ、たった一日の欠落に、こんなにも揺さぶられていたのか。

あの旋律の中にあるのは、“同じ”と“違う”の曖昧な境界だった。
見ているものは変わらないのに、違って聞こえてくる。
まるで自分の中の変化を映し出すための鏡のようだった。

サキは、なぜそう感じているのかを、自分の中で確認しておきたかった。
彼に会えばその答えが見つかるような気がしていた。

実験室の前に立ち止まる。

中を覗くと、モニターの前に座っている人物の後ろ姿が見えた。背筋は伸びているが、どこか空気が柔らかい。

サキはゆっくりドアを開けた。

「荒木くん……ちょっといい?」

その声に、彼はゆっくりと振り向いた。
──その表情は、まるでこの瞬間が来ることを知っていたかのようだった。

(つづく)

最終話


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