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【人物】第2回 中江藤樹:人を大切にすることを学問の中心に置いた人

中江藤樹という人の名前は、学校で聞いたことがある人もいるかもしれません。
けれど、多くの場合は「近江聖人」「陽明学の人」というあたりで話が終わってしまう。
それでは少し足りません。
この人の大きさは、学問が深かったことだけではなく、学問を人から切り離さなかったことにあるからです。

藤樹は近江国高島郡小川村に生まれ、のちに日本陽明学の開祖と呼ばれるようになりました。
ただ、そうした肩書きより先に見たいのは、この人が何を大事にして生きたかです。

まず心に残るのは、藩士の身分を捨ててでも母のもとへ帰ろうとしたことです。
九歳で祖父の養子となって米子へ移り、その後、大洲藩で若くして武士となった。
ふつうに考えれば、そのまま武士として身を立てる道がいちばん「正しい」のでしょう。
けれど藤樹は、母への孝養と自身の健康を理由に辞職を願い出て、許可を待たずに故郷へ戻りました。

これは、きれいごとでは済まない行動です。
立場を失う危険もある。
世間からどう見られるかもわからない。
それでも藤樹は、制度や身分の正しさより、先に尽くすべきものがあると考えた。
この時点で、この人の学問の中心には、すでに「人」がいたのでしょう。

故郷へ戻った藤樹は、浪人の身となって私塾を開きました。
そして亡くなるまでの十四年あまり、人々に学問を教え続けた。
ここが大事です。
学問を、出世の道具にしなかった。
偉い人だけのものにしなかった。
人がどう生きるか、どう人に向き合うか、そのための学びとして開いた。
有名な門人として熊沢蕃山の名が残っていますが、藤樹の塾の意味は、名弟子を出したことだけではありません。
学問を日々の生き方に結びつけたところにあります。

中江藤樹を語るとき、どうしても外せないのが大野了佐の話です。
了佐は、もともと藤樹が大洲にいたころの同僚の子どもで、武士以外の道で人の役に立ちたいと願い、藤樹に学ぶようになったとされています。
藤樹は、その了佐のために国内だけでなく中国の医学書まで買い求め、書き写し、教え、ついには『捷径医筌』という大部の医学手引書を作りました。
その量は、四百字詰め原稿用紙で千枚にも及んだといいます。

ここまでして、一人の門人を育てようとした。
学問が好きだから教えた、という話ではありません。
その人が人の役に立てるところまで、背負ったのです。
知識を渡して終わりではない。
相手がその知識を使って、ほんとうに誰かを助けられるところまで見ている。
この一点だけでも、藤樹の学問が何であったかは、かなりはっきりします。

よく、学問の人というと、書物の中にいるような印象があります。
けれど藤樹は、そういう人ではなかったようです。
若いころから『四書大全』を独学で読みこなし、のちに王陽明の書に深く触発されていったほどですから、学問の深さは疑いようがありません。
しかしその一方で、林羅山ら当時の権威に対しても、徳を欠いた「口耳の学問」だと感じれば鋭く批判した。
ただ知っているだけ、ただ博識なだけ、それでは足りない。
人が立たない学問は、本物ではない。
この緊張感が、藤樹にはありました。

ここで見えてくるのは、藤樹にとって学問とは、頭を飾るものではなく、良心を外へ働かせるものだったということです。
だから母のもとへ戻ることも、門人を育てることも、別々の話ではない。
どちらも、知ることと生きることが一つにつながっている。

日本では昔から、ただ賢い人より、どこか人間としてまっすぐな人の方を深く敬うところがあります。
藤樹が「近江聖人」と呼ばれたのも、単に学者だったからではない。
学問がそのまま人のふるまいに現れていたからでしょう。
言葉だけで高いことを語るのではなく、学びが人を大切にする方向へ流れていた。
そこに、この人の重みがあります。

いまの時代に引き寄せて考えると、藤樹の姿は少し痛いほどよく見えてきます。
知識は増えやすくなりました。
情報はすぐ手に入る。
学んだような気になることは、昔よりずっと簡単です。
けれど、その知識が誰かのために使われるところまで届いているかとなると、話は別です。
わかったつもりで終わる。
言葉だけがきれいに並ぶ。
人を立てず、自分を飾る方へ流れていく。
藤樹が批判した「口耳の学問」は、むしろ今の方が身近なのかもしれません。

だからこそ、この人は古くならない。
学ぶとは何か、という問いを、いまでもこちらへ返してくるからです。
試験に通ることか。
知識を増やすことか。
評価されることか。
それとも、誰かを少しでも生かすところまで、自分の学びを届かせることか。
中江藤樹の生き方は、その問いをかなりまっすぐに突きつけてきます。

教科書では、どうしても名前と肩書きが先に来ます。
けれど、中江藤樹という人を本当に知ろうとするなら、そこから先へ行かなければならない。
母のために身を引いたこと。
浪人になっても学びを捨てなかったこと。
一人の門人のために、千枚に及ぶ手引書を書き続けたこと。
その姿を見てはじめて、この人がなぜ「聖人」とまで呼ばれたのかが見えてきます。

人を大切にすることを、学問の飾りではなく、学問そのものの中心に置いた。
中江藤樹は、そういう人でした。
そしてそのことは、知識があふれる時代に生きる私たちへ、静かですがかなり厳しい問いを残しています。
学んだことは、結局、誰のために働いているのか。
その問いに答えられない学問は、どれほど立派に見えても、まだ半分なのだと思います。

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