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FIRST QUARTER — Jacob Sanchez — 26/27



2026,08,19

今日はちょうど上弦の月。

彼のプログラムと重なる系譜。

そんな系譜は、次々と現象としても現れる。

なぜかこのタイミングで、息子は『鬼滅の刃』17巻と18巻を持ってサッカーの練習へ向かう。

そして、竈門炭治郎と禰󠄀豆子のフィギュアを購入して帰宅する。

炭治郎の刀で、見事に私の首は切り刻まれた。

鬼狩り。

私は鬼ではない。(笑)

摩訶不思議。アドベンチャー。手に入れろドラゴンボール。(好)

今日ここに記す彼のプログラム。

SP: MOON BY LUDWIG VAN BEETHOVEN, SOFIANE PAMART

FP: DEMON SLAYER (SOUNDTRACK)

二つのプログラムを並べたとき、私の中にいくつかの共通するテーマが浮かび上がった。

「月」「観測」「光と影」「自己探究」「関係性」。

これまで私は「観測者」として、他者を見ること、社会を見ること、関係性を見ること、それらはすべて自己を見ることとして、様々な観測を書き記してきた。

今回浮かび上がったテーマもまた、すべて自己を通して映し出される。

それが表現となり、言葉となり、行動となる。

視点をマクロへ移せば、社会もまた、それぞれ異なる存在同士の関係によって成り立っている。

逆も然り。

「フィギュアスケート」という競技、芸術を観測してきて、私はこれを自己探究と観測の極めて深い場所に位置する表現だと感じている。

数分間という時間に、言葉にならないものが凝縮される。

そして一人の存在が、多くの人から観測される一点として氷上に存在する。

私は何を見て、何を感じるのか。

表面的な部分だけでは語り尽くせない。

見えない部分こそ、私が一番魅力を感じる場所だ。

評価するのではない。

ただ見る。

そして、それを見ている私を見る。

DEMON SLAYER

『鬼滅の刃』の漫画は自宅に全巻ある。

大流行した作品であること、また夫が総合武術の一環として剣術を指導していることもあり、その作品の魅力を知っておきたいと思い、我が家に置かれている。

漫画は全巻、アニメや映画も一通り目にしている。

私にとって『鬼滅の刃』の魅力の一つは、多くの登場人物それぞれに異なる光と影の物語が存在していることだ。

葛藤、苦悩、喪失、愛、友情。

それを抱えた存在同士の関係性が、内省的な部分にまで踏み込んで描かれている。

それぞれに異なる存在の姿。

関係性。

対立。

共鳴。

そこには「強さとは何か」「守るとは何か」「自分とは何者なのか」という、人間の根源にある普遍的な問いが存在しているように感じる。

私たちは一人では存在していない。

自己があり、他者がいる。

自分らしく在ることと、他者もまた異なる自己を持つ存在であること。

その二つを同時に見つめることは、決して簡単ではない。

人間は自分という視点から世界を見る。

だから他者を見ることは、時に自分自身を見ることでもある。

自分を見ることは恐ろしい現実に直面することもある。

失望するかもしれない。

それでもその先に、自分を偽らない「自分らしさ」が存在するのなら、他者にもまた同じように、それぞれの「その人らしさ」が存在すると気づく助けになるのではないだろうか。

今回の二つのプログラムを並べて見たとき、私にはそんなテーマが浮かび上がってくる。

ゲーム配信、SNS、Vlog。

様々な場面で彼を観測してきて、彼自身と他者との関係性には、そういった尊重を感じる瞬間がある。

『鬼滅の刃』について話していた彼の好みも面白い。

好きな柱は、霞柱・時透無一郎。

柱以外では、我妻善逸。

敵では猗窩座、あるいは鬼舞辻無惨。

冨岡義勇も好きだという。

ゲームでも無一郎をメインに使用している。

特に印象に残ったのは、無一郎について語ったときの言葉だった。

彼は単純にキャラクターとして好きだというだけではなく、“Mist Hashira aesthetic”――霞柱という存在を取り巻く美学、世界観、雰囲気そのものに惹かれていると話していた。

人格。

視覚。

世界観。

戦う者としての姿。

一つの作品の中でも、彼が異なる存在の異なる部分に魅力を感じていることがわかる。

以前、私は彼に炭治郎のような優しい心を持つ青年という印象を感じていた。

けれど、それもまた私から見えている一つの面にすぎない。

見る人によって、見る位置によって、その印象は変わる。

人間には、様々な場面で様々な側面が存在する。

私は、その側面が細やかに存在する人ほど、他者や個人への理解にも様々な角度を持つことができるのではないかと感じている。

月に様々な表情があるように。

光と影が同時に存在するように。

一人の人間には、いくつの表情があるのだろうか。

MOON

SP: MOON BY LUDWIG VAN BEETHOVEN, SOFIANE PAMART

Sofiane Pamartの「MOON」。

公式に示されたクレジットには、Sofiane PamartとともにLudwig van Beethovenの名がある。

その源流にあるのは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 Op.27-2。

現在、私たちが「月光ソナタ」と呼んでいる作品である。

しかし、「月光」という名前をつけたのはベートーヴェン本人ではない。

彼が初版に記したのは、

Sonata quasi una Fantasia.

「幻想曲風ソナタ」。

「月光」というイメージは、作品が生まれた後、一人の観測者によって見出された。

詩人・音楽評論家ルートヴィヒ・レルシュタープが、第1楽章から月明かりに照らされたルツェルン湖を進む小舟の情景を思い描いたことから、後に「月光」という呼称が定着していったという。

ベートーヴェンが「これは月である」と語ったのではない。

それを聴いた誰かが、その音の中に月を見た。

とても興味深い。

一つの音楽を前にして、観測者が何を見て、何を感じるのか。

そこから新しい像が生まれ、その像が時を超えて別の誰かへ受け継がれていく。

そして現在、その音楽の系譜にSofiane Pamartの「MOON」があり、さらにその音をJacobが氷上で表現する。

音楽から月へ。

月から音楽へ。

音楽から身体へ。

そして身体から、再び観測者へ。

一つの表現が、いくつもの存在を通過していく。

《月光ソナタ》は第三楽章まである。

第一楽章は静かで、内省的。

第二楽章では空気が変わり、軽やかさが現れる。

そして第三楽章では、それまで内側に存在していたものが一気に噴き出すような激しいエネルギーへと変わる。

同じ一つの作品の中に、まったく異なる表情が存在している。

様々な表情。

月。

月という象徴から、私たちは何を思い浮かべるだろうか。

月は数多くの芸術や文化の中で象徴として語られてきた。

同じ月という存在が世界中から観測され、それぞれ異なる物語、神話、詩、音楽、言葉となってきた。

主体である観測者――私が見る月も、日々移り変わる。

同じ月なのに、同じ姿は一つもない。

見る場所。

見る時間。

光の当たる位置。

そして、見る私自身。

それらによって見え方は変化する。

けれど月そのものが、毎日別の存在になっているわけではない。

見えている面が変わっている。

そして月は、自ら光っているわけではない。

光を受け、それを私たちへ返している。

だから月は、同時に自らを映す鏡のような存在とも言えるのかもしれない。

「月が綺麗ですね」という言葉が愛の告白として語られてきたように。

神話の中では神として。

文学では孤独として。

芸術では愛として。

同じ月でありながら、観測する人間によって全く異なる意味を与えられてきた。

そして今日は上弦の月。

新月から始まった観測に、半分だけ光が現れた。

まだ半分は影の中にある。

彼が演じる月は、私の中でどう映り、どう輝くだろうか。

一人の人間にある、様々な側面。

それを見る私は、また私自身の様々な側面を見つめる新たな機会を得るのだと思う。

19歳の彼を、39歳の私が見る。

このシーズンを通して、私たちにはどんな物語が現れるのだろうか。

その未知の世界は、これから現実に現れる。

光として。

この文章を書き終え、上弦の月を観測しようと外へ出た。
夜空を見上げる。

月は、見えなかった。



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