計算機自然と量子自然
飛騨高山の日下部民藝館を中心に開催された、落合陽一さんの『ヌルのテトラレンマ』展に足を延ばしました。ここで「テトラレンマ」とは仏教の概念であり、論理で言うのならば相矛盾することを、敢えてぶつけることで、言葉では語り得ない不立文字の心境である「空」へと人々を導く方法論とも言えます。この仏教で説かれる「空」を、落合さんはモチーフとしてコンピュータサイエンスで無定義を意味する「ヌル(null)」と結び付け、彼が提案している「計算機自然」という世界観の、ひとつの様相であるとしているのです。
論理としてのテトラレンマの例としては、
人間である
人間でない
人間であり、人間でない
人間でなく、人間でなくもない
というものを、落合さんは挙げています。普通の感覚の論理で言うのならば、これらはどれも両立しません。しかし仏教では、ひとつの方法論として、これら全てが否定されるということ、もしくはこれら全てが同時に実現していること、というこのテトラレンマの公案によって、「空」を自分の中に腹落ちさせることを目指すのです。

この計算機自然の考え方は単なる観念論ではなく、猛烈なAI革命によって変わっていく世界の現実として、広く理解されてきている現状でもあります。AIエージェントや没入型の様々なARやVRが身の回りに実装されてきている中、特にAIネイティブ世代の若い人々の自然観も、これから大きく変わっていくことでしょう。彼らにとって、コンピュータ世界と実世界の間は、よりシームレスになっていくはずです。
ここで量子コンピュータの話をしてみます。量子コンピュータとは、「シュレディンガーの猫」のような量子的な重ね合わせ状態を、その動作原理の中で用いたものです。この技術も最近猛烈に進歩しており、世界中で注目をされています。量子コンピュータは、少なくとも特定のタスクにおいて、従来のコンピュータより高速で計算できると考えられているためです。
量子コンピュータで構成されたAIが未来に登場する可能性も、非常に高いと考えられます。もしそのAIが「意識」を獲得したならば、人間とは異なる世界観を量子AI自らが構築することもあり得ます。それを「量子自然」と、量子AI達は呼ぶかもしれません。
この「量子自然」と従来型のコンピュータでの「計算機自然」の関係性は、単純ではありません。素朴に考えるのならば、量子自然は計算機自然を内包していると思えるかもしれませんが、よく考えるとそうではないのです。
量子自然は、量子力学の原理から出てくる自然観です。また量子力学は決定論的な実在論ではなく、確率概念に基づいた認識論であることが、現在でははっきりしています。量子力学は情報理論の1つなのです。そして、その情報とは、それが記述する対象だけでなく、誰にとっての情報かも定めないと、一意的には決まらない概念です。例えばサイコロの目がどれも1/6の確率で出るという情報も、サイコロの構造の詳細データをもっている人間にとっては、その確率も違ってきます。対象に関する事前の知識の多寡によって、各観測者毎にその確率、そしてその確率が記述する情報は異なるのです。
量子力学に現れる波動関数や状態ベクトルも、物理量の確率分布から定義されるものなので、それらが記述する量子状態も、観測者に依存した概念となります。また特定の物理過程に対しても、観測者毎にその描像が異なってくるのが、量子力学的世界観なのです。
ただ波動関数も状態ベクトルも、その決定には、0か1かの1ビットの問いかけの組み合わせて作られる「測定実験」が必要とされるのです。この方法は、「量子状態トモグラフィ」と呼ばれ、物理学の実験では当たり前に使われています。つまり、0と1の連続的な線形重ね合わせが基礎である量子自然を捉えるには、実は0か1かを基本とした計算機自然が、最初に要求されるのです。この意味で、単純に「量子自然は計算機自然を内包している」とは言えず、むしろ観測者にとっては、「計算機自然こそが量子自然を生み出している」のです。現代的に言うならば、計算機自然が量子自然を創発しているのです。
計算機自然と量子自然の、このあたりの非自明な構造については、様々な形で、今後詳しく紹介していきたいと思います。
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