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青雲の志/宮崎市定先生を慕って―連作「科挙 中国の試験地獄」(10)

第十話 栄光と陰影
 
第七話から第九話で消耗したので、この話はエッセイ風に書いていきます。
 
宮崎市定先生の名著『科挙――中国の試験地獄』を紐解くと、百五十五頁から百五十九頁にかけて、この物語のクライマックスとも言える「殿試(でんし)の成績発表式」の様子が描かれています。
 
この式典の圧倒的な美しさと迫力は、私の稚拙な言葉で語り尽くせるものではありません。
また、先生が心血を注いで綴られた文章を、安易に要約して引用することも、あまりに畏れ多いことです。
ぜひ読者の皆様には、本書を直接手に取って、その場の空気感を肌で感じていただきたいと願っています。

それでも、ほんのちょっとだけ、恥を恐れず、書かせていただきます。

舞台となるのは、紫禁城(故宮)の中で最も壮大で格式高い御殿、太和殿。
ここは国家の重要な儀式が行われる、まさに中国全土の「中心」と言える場所です。
 
式典が始まれば、そこには日常を忘れさせるような荘厳な世界が広がります。
朗々と奏でられる壮大な音楽。居並ぶ大臣や高官たちの豪華な装束。
そして、雲の上の存在である皇帝から下される厳かなお言葉。
 
静寂の中、合格者たち――新たなる「進士」の名前が一人ずつ呼び上げられます。
孤独な机の前で、何十年ものあいだ文字通り「地獄」のような猛勉強を続けてきた者たちが、ついに人生の頂点に到達する瞬間です。
深々と拝礼を捧げる彼らの瞳には、何が映っていたのでしょうか。
 
それは、努力が最高のかたちで報われる、めくるめく栄光の頂。
宮崎先生の筆致は、その一瞬の輝きを、歴史の重みと共に鮮やかに描き出しているのです。
 
私の拙い文章による表現を捨てて、同著百五十九頁から次の文を引用し、その場面の晴れがましさの描写に替えさせていただきます。
 
「古くから人生に忘れがたい最大の会心事が四つあるとされていた。」
 
「 久 旱 逢 甘 雨  長いひでりのあと、しめりの雨」
「 他 郷 遇 故 知  遠い異国で旧知にあったとき」
「 洞 房 華 燭 夜  新婚の部屋で差し向かいになったとき」
「 金 榜 掛 名 時  進士にみごと及第したとき」
 
この四つの中でも、科挙という過酷な試験を勝ち抜き、金榜(合格者名簿)に己の名を刻む喜びは、当時の知識人にとって何物にも代えがたい「至福の時」でした。
 
発表の熱狂が冷めやらぬ中、合格した進士たちの周りには、公私にわたる宴席や、地位を固めるための儀礼的な往来が途絶えることなく押し寄せます。
息つく暇もないほどの喧騒に包まれ、彼らはその忙しさにうれしい悲鳴をあげたといいます。
これまでの孤独な苦学が報われ、華やかな社交界の中心に躍り出た彼らにとって、それはまさに人生の春を謳歌する時間でした。
 
その中でも状元――殿試の首席のもてようは別格だったと言います。独身者であれば、その配偶者に自分の娘をと、申し込んでくる有力者や大臣がひきもきらないそうです。
状元が既婚者であっても、その妻を離別させてまで、自分の婿に迎えたいとする権勢家もあったとか。
現代でも、成功を手にした途端に長年支えてきた妻を蔑ろにする風潮、有りますよね。
人の業というものは、千年前から変わらないのかも知れません。
 
しかし、一旦、危急存亡の秋になったとき、状元は逃げることを許されません。殉国は義務なのです。
有名な状元には、南宋の文天祥という人が居りますが、脱線するのでここでは触れません。
宮崎先生の著書の百七十一頁に次のような記述がありました。
「状元から宰相にのぼった例を、歴史上に探してみると、思ったほどには多くないのが実状である」
……あれ?
 
第二話の「学校金食い虫説」で触れたとおり、やっぱり試験だけやっていたのでは、実力を判定できないってことなんですね。
 
宮崎先生が指摘される通り、殿試は純粋な学力試験を超えた、極めて政治的な儀式としての側面を強く持っていました。
本来であれば、この最高峰の舞台こそが真の秀才を決定する場であるはずです。しかし現実には、皇帝が自ら答案を親閲(しんえつ)し、その独断で順位が決定されます。
そこには時として皇帝の個人的な嗜好や、派閥争いを背景とした政治的配慮、あるいは気まぐれに近い「ひねくれた選択」が介入する余地がありました。
字の美醜や、皇帝の意に沿うような言辞を弄した者が上位を独占することも珍しくなかったのです。
 
そうした背景を鑑みれば、皇帝の主観が入り込む前の段階、すなわち礼部が主催する会試で首位を勝ち取った会元こそが、実質的には天下第一の文才を証明する存在であったと言えるのではないでしょうか。
 
しかしながら、この選抜システムそのものの妥当性についても、疑念の目を向けざるを得ません。
科挙が求める「型」に嵌まらなかったために、歴史に名を刻むほどの真の天才たちが、その門前で挫折を余儀なくされた例は枚挙に暇がないからです。
 
例えば、中国怪異文学の金字塔「聊斎志異(りょうさいしい)」を著した蒲松齢(ほしょうれい)は、その類まれなる想像力と筆力を持ちながらも、科挙の厚い壁をとうとう突き崩すことができず、不遇な一生を終えました。
科挙社会の腐敗と虚飾を痛烈に風刺した「儒林外史(じゅりんがいし)」の作者・呉敬梓(ごけいし)にいたっては、この硬直化した受験競争そのものに背を向け、受験すら拒否しています。
 
最高の文才を証明するはずの場から、真に創造的な魂が排除されてしまう。
この皮肉な現実こそが、科挙というシステムが抱えていた、逃れがたい限界であったのかもしれません。
 
この話を締めるときが来たようです。
 
宮崎先生の著書百七十二頁から、次の言葉を引用して、今夜はここまでにいたします。
 
――半生の辛苦の末にやっとかちえた進士の地位が、案外見かけ倒し役に立たぬものだ、と悟った時の不遇の老官吏の心境にははなはだ複雑なものがあろう。
特に後進の若者が、せっせと受験勉強にいそしんでいるのを見せられた時、進んでこれを励ましてやるべきか、あるいはいっそつまらぬことだと水をかけてやるべきか、と戸惑うことも多かろう。――
 
――しかし、受験生にいわせれば、科挙を通っても失意があるほどなら、もし通らなければいよいよ失意に落ちこむほかないと答えるだろう。
そうだ、若者はやっぱり青雲の志を大きく抱いて、どんな苦労にも打ちかかっていこうという意気があってこそ尊いのだ、とこの老官吏も相槌をうったにちがいない――
 
本当は今回、科挙をめぐる興味深いエピソードを、おもしろおかしくエッセイにしようと考えていましたが、そこに辿り着く前に紙幅が尽きてしまいました。
それはまた、機会を改めて、そう遠くないうちに書きたいと思います。


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