地獄 = 現世/宮崎市定先生を慕って―連作「科挙 中国の試験地獄」(9)
本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
また、この話での「●歳」は、「満年齢」です。数え年ではありません。
第九話 始信韶顔為鬼蜮 悔従驀地結鴛鴦(下)
私は俊治様に試験で失態を犯していただくため、文字通り私のすべてを用いて彼を籠絡いたしました。
一ヶ月の間に十三回の密会、五十回以上の情事。
彼の脳を快楽で焼き尽くすには、それで十分でした。
私を汚した痕跡を見て、夫は何も言わず、ただ私のために泣いてくれました。そんな夫が愛おしくてなりません。
私共夫婦はお二人のために身体の半分を引き裂かれましたが、だからこそ「比翼の鳥・連理の枝」として、より深く、真の夫婦となりました。
旦那様と俊治様の醜態はすべて記録済みです。夫の手によって、私という存在を消した「処刑動画」として完璧に編集いたしました。
明日、これらをネット上に放流いたします。
名誉毀損で訴えるとおっしゃるなら、こちらは「不同意性交」で反訴いたします。
同意があったと言い張るのでしょうけれど――昨日はあっても、今日もあるとは限りません。
奥様なら、その意味がお分かりになるでしょう?
私がはっきり映った動画をご覧になりますか?
それをお見せすれば、彼らは社会的に完全に抹殺されます。
――奥様。
一刻も早く、あの男たちから手を引くことをお勧めいたします。
不倫の慰謝料と財産分与を用いれば、かなりの額をむしり取れるはずです。
一ノ瀬家という虚飾の城が崩れ去るのを、遠くから見守らせていただきます。
さようなら。
結衣の手紙を一読した後。
一ノ瀬家の妻は、熟練の盗賊のような冷徹さで判断を下した。
(一刻も早く、あの男たちから金をむしり取って逃げなければ……!)
だが、外にはすでに「死肉に群がるハイエナ」のごときマスコミと野次馬が屋敷を包囲していた。
――奥様!
俊治とその保証人――父親と伯父。
先に届いたのは行政的な措置であった。
「科挙受験資格永久剥奪及び受験者名簿からの除籍」
「顔写真や住所付きでの官報と公報への永久搭載」
(急がなければ!)
妻は直ちに、顧問弁護士の元へ向かうべく、車の用意を命じた。
時間が残されていない。
俊治は現行犯逮捕。
しかも衆人環視――陛下ご臨席の場で、やってしまった。
これはもう、どんなコネクションも無力だ。
みんな損切りとばかりに、私たちを切り捨てるだろう。
むしろ、過去の悪行を暴露しかねない。
もちろん、私もヤツらを見捨てる。
でないと自分まで社会的に抹殺される。
――奥様。自分だけは免れるとお思いですか?
何処までも判断が甘いようで……。
以降、特に描写することがない。
年表のように時系列だけ示す。
殿試翌日。一ノ瀬家の終焉。
全財産の差し押さえ。
「処刑動画」の拡散。
「フェラされて昇天する会元さまwww」
「親子揃ってアヘ顔w」
「イカ臭い……画面越しに吐き気がする」
ネットの海に放たれた醜態は、消すことのできないデジタルタトゥーとして刻まれた。
過去の悪行の露見。
父親の余罪は、性的暴行から脅迫まで数百件にのぼり、被害者たちが一斉に蜂起した。
母親も泥船への同乗強制。
逃げ切ろうとした母親も、自身のパワハラや夫の部下への加害で告訴され、泥船に引きずり戻された。
夫は関係各社の社長・役員を即時解任。そのまま懲戒解雇となり、一瞬にしてその地位を失った。
預金残高は日時に逆比例でどんどん減っていった。
そして、夫婦は失踪した。
俊治は帰る場所を失った。所持金もない。
クレジットカードの口座は凍結された。
友達だと思っていた連中は、全員、彼をブロックした。
ブロックしないものは、「処刑動画」のURLを送りつけてきた。
一ノ瀬一族は「損切り」を試みたが、世間も、そして役所も、彼らを逃がしはしなかった。
法の執行者たちは仮面を脱ぎ捨て、合法的な「略奪者」として一族を食い荒らした。
成瀬結衣は、夫とともに東京を離れた。
空港のロビー。
ネットニュースが「一ノ瀬夫妻、競売後の自宅で遺体発見」を報じる。
結衣は「ふふっ」と小さく笑い、夫の肩にもたれかかった。
夫はその髪を優しく撫で、愛おしそうに抱き寄せた。
「 淫 近 殺 (淫は殺に近い)」――。
情欲の果ては、必ず血と死を招く。一ノ瀬家の終焉は、古の警句が示す通りの凄惨な幕切れとなった。
――始めて悟ったが白粉つけた顔は本当は魔物だった
それとも知らず、向こう見ずに契りを結んだ愚かさ――
いや、それは違う。 相手を甘く見すぎれば、破滅は時間の問題でしかなかったのだ。
「不知彼不知己、毎戦必殆」 (相手を侮り、己を過信した者が辿る、必然の結末である)
そして、もう一つ。
「 萬 悪 淫 為 首 」 万悪淫を首と為す。
――あらゆる悪行の中でも、不道徳な男女関係や、相手を辱めることが最も罪深いものである。
単なる不倫だけでなく、相手の意思を無視したり、平穏な生活を壊したりする非道な行いを含む。
中国の道徳、これを犯すと「現世で家が滅び、死後は地獄に堕ちる」と強く戒められている。――
結衣はその道のプロというわけではない。
ただ、夫を喜ばせたくて必死に覚えたことを、俊治に全投入しただけ。
夫もまた、不器用ながら妻を愛しているだけの男。
そんな二人が、一矢報いるために、自分たちの「純粋な場所」を削った……。
