復讐鬼からの手紙/宮崎市定先生を慕って―連作「科挙 中国の試験地獄」(8)
本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
また、この話での「●歳」は、「満年齢」です。数え年ではありません。
第八話 始信韶顔為鬼蜮 悔従驀地結鴛鴦(中)
科挙には、枚挙にいとまがないほど煩瑣(はんさ)なルールがある。
それは「才能を採用するため」ではなく、受験生を「ふるい落とすため」のシステムだったからだ。
例えば、不正防止のための「謄録(とうろく)」。
筆跡で個人が特定されないよう、専門の筆写係が答案をすべて別紙に書き写す。
審査員に届くのは、受験番号だけが書かれた無機質な「写し」だ。
どれほど美文を書き連ねても、筆写係が読めないほどの悪筆であれば、その時点で審査対象外。
もし現代日本に科挙があったなら、この役割はAIが担うだろう。
誤字脱字、論理構成、プロンプトに基づいたフィルタリング……。
幾重もの網を潜り抜けた「上位600人」だけが、ようやく人間の査読に回される。
だが、どれほど自動化が進んでも、最後に残るのは「人間の判断」と「絶対的な禁忌」だ。
ここで強調したいルールがふたつある。
一.避諱(ひき)
君主の本名を書いてはならない。違反すれば不敬罪として受験資格を永久剥奪、さらに財産没収や追放という過酷な罰が待っている。
二.汚損の禁止
君主が用意した用紙を汚す、破る、落書きするなどは言語道断。見つかり次第、即刻失格。
科挙制度が存在する日本を仮定したとき、避諱を犯した受験生はどうなるだろうか。
恐らく、本人と保証人は、「科挙受験資格永久剥奪及び受験者名簿からの除籍」として、顔写真や住所付きで官報と公報に永久に搭載され、マスコミにリリースされるだろう。
さらに、ふたりとも財産の半分を没収されるほどの罰を受けるのではないか。
(……なんで? どうして、本番の三日前に急に消えたんだよ!)
(……『ご褒美をあげる』って言ったじゃないか……)
(……『私を四時間、好きにしていいわ』って……!)
俊治の隣の席の女子学生は、異様な空気を感じていた。
右隣の、小太りの青年。彼の貧乏揺すりが、机をガタガタと鳴らしている。
ふと彼の答案用紙を見た彼女は、目を疑った。
君主御製の特製用紙に描かれていたのは、グロテスクな女の裸体。
異様に肥大化した目、光沢を放つ唇、歪なほど巨大な乳房と臀部。
俊治は憑かれたようにブツブツと独り言を漏らし、目はあらぬ方向を見据えている。
そして、彼女は見つけてしまった。
殴り書きされた裸体の絵の横に、×印で消された数文字の漢字。
それは――「陛下の諱(いみな)」。
「試験官殿!」
彼女は迷わず挙手した。巻き込まれたら最後、自分の人生まで終わる。
「受験番号四百五十番、一ノ瀬俊治!」 駆け寄る試験官に気づき、俊治は慌てて消しゴムを動かした。
ベリッ!
無惨に裂ける特製用紙。逃げようとする俊治。
取り押さえた五人の試験官は、その異様な光景に絶句した。
彼のスラックスの股間は、醜く隆起していた。
そして、そこには尿漏れにしては小さすぎる、生々しい染みが広がっている。
試験官たちは冷ややかな視線を交わした。
(……貢士ともあろう者が、なんだこれは。キモすぎる(笑))
(……この土偶みたいな裸体画、これがトレンドなのか? ムリムリ(笑))
宮崎市定氏の「科挙」には、女色による受験生の破滅が頻出する。
特に「素人女子の誇りを傷つけた報い」としての怪異や発狂は、因果応報の定番ですらある。
事態は君主の耳に届き、冷徹な一言が下された。
「法の下の平等を、厳格に適用しなさい」
国が、自治体が、警察が、一斉に動き出した。
エリートの階段を一気に駆け上がっていた一ノ瀬家。
その破滅が「確定」した瞬間だった。
その時、俊治の母は一通の手紙を受け取っていた。
差出人は、三日前に姿を消した、あの完璧な家庭教師。
――成瀬 結衣。
母はその鋭敏な感覚で、家庭教師、子、そして……夫の間の緊張関係を嗅ぎ取っていた。
現場を押さえたわけではない。
ただの家庭教師にしては、結衣は妖艶すぎた。完璧すぎる。
そして、俊治。異様に目が据わっている。
……失望を禁じ得ないのは夫である。
結衣の全身をなめ回すように見ていた。
(本当にコイツは、どうしようもない女好き。……いや淫乱親父だわ……。)
(付き合っている時点で、既に、何人かの女子に中絶手術を強いていた。)
(今になるまで、ずっと使用人からの苦情が絶えない。苦情と言うより、悲鳴だわ。)
(会社でも、年中、セクハラならかわいいもの。……妊娠中絶の噂が絶えたことがない。)
母にして妻は、結衣からの手紙を開いた。
きれいな活字で印刷された手紙と、添えられた直筆の署名。
手紙の内容は次のようなものだった。
――奥様。
私は八年前、旦那様から三年にわたり玩具のように弄ばれ、手切れ金もなく打ち捨てられた女です。
この度、俊治様の家庭教師を仰せつかった際、あの時の屈辱は鮮やかに蘇りました。
旦那様にとって私は、悦びを教える対象ですらなく、単なる性欲の処理場に過ぎませんでした。
私はただ彼の傲慢さに寄り添い、悦んでいるかのように装い続けましたが、その三年間は苦痛以外の何物でもありませんでした。
私には現在、夫がおります。
夫は私の過去も、そして今回私が自ら進んで足を踏み入れた汚濁も、すべて承知しております。
なぜならば、俊治様と旦那様が私に関係を迫ってきた時、私はすべてを夫に告白したからです。
私は夫から離婚される覚悟で、奴らに復讐したいと言いました。
夫は悩み苦しみつつも、「後悔のない選択をしてよい」と私を抱きしめてくれました。
彼らに汚された夜、私は夫に全身をくまなく洗ってもらいました。
夫の愛撫によってそれらを上書きし、魂を繋ぎ止めてまいりました。
旦那様と俊治様は、驚くほど似通っておいでです。
肌質も、汗の匂いも、精液の卑俗な臭気までも。
そして何より、相手を悦ばせていると信じて疑わない独善ぶり
どこをどうすればこれほどまでに無様に、下手になれるのかと落胆するほどでした。
本当の愛を知らぬまま、口先だけで高尚な理屈を垂れ流し、その実は浅ましい性欲で女を貪るだけの、醜悪な「概念」……。
何が科挙の首席、何が名門、何が日本の超一流企業でしょうか。
私から見れば、お二人は「人」ですらありません。
旦那様には指先だけで対処いたしましたが、私の顔やスーツを汚された際の不快感は、耐え難い屈辱でした。
また俊治様は、私の脱いだ下着に殊の外執着しておいででしたが、彼の涎でベトベトになったものを再び身につける際の、あの底知れぬ吐き気が奥様にお分かりいただけるでしょうか。
(続く)
