見出し画像

魔物との情事/宮崎市定先生を慕って―連作「科挙 中国の試験地獄」(7)

本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
また、この話での「●歳」は、「満年齢」です。数え年ではありません。
 
第七話 始信韶顔為鬼蜮 悔従驀地結鴛鴦(上)
 
この話のタイトルとなった言葉は、宮崎市定「科挙 中国の試験地獄」(中公文庫)の、九十三頁から九十四頁にわたって記載されている、七言律詩の頸聯――三聯の対句である。
――始めて信ず、韶顔(しょうがん)は鬼蜮(きよく)と為(な)りしことを。
悔(く)ゆらくは、驀地(ばくち)に従(よ)りて鴛鴦(えんおう)を結びしことを――
訳出部分を引用する。
――始めて悟ったが白粉つけた顔は本当は魔物だった
それとも知らず、向こう見ずに契りを結んだ愚かさ――
 
第四話で「郷試に合格し、『挙人』という称号を得た瞬間に、人生は『勝ち組』へと確定する」と書いた。
では、合格できなったとしたら、――実は挙人になれなくても、郷試の直前の試験――「科試」の合格者――「生員(秀才)」という称号を得ていれば、当時の中国では十分にエリート層であった。
彼らは地域の知的な指導者として、税の免除を受け、裁判でも有利な扱いを受けた。たとえ最終試験に受からずとも、地元の有力者や富商が、放っておかないレベルの超優良人材だったのである。
現代風に言い換えれば、「東大・京大などのトップ層が、国家公務員総合職を目指して勉強している状態」に近い。最終試験に受からずとも、その辺の企業や地方自治体が、放っておかないレベルの超優良人材である。
ただし、挙人が「会試の永年受験資格」であることとは異なり、生員(秀才)は学校試の「歳試」を受けねばならず、成績が低下すれば「高卒」に戻されてしまう。
 
さて、昨年の郷試で「挙人」となり、今年、その上の「会試(かいし)」に挑もうとする男子学生がいる。
一ノ瀬 俊治(いちのせ としはる)十八歳。大学一年生である。
「富裕層」「特権階級」あるいは「上級国民」などと評される階層の、お坊ちゃんである。
 
東京都内に広壮な自宅を構える一族の一人で、小中高一貫の超名門高を卒業し、日本で最高峰の大学に現役合格した天才的な頭脳の持ち主で、かつ挙人でもある。将来はバラ色だと、誰もが信じて疑わない。
当然一人暮らしなどする必要はない。自宅から運転手付きの車で通学している。
 
会試は六月上旬、郷試とほとんど同じフォーマットで行われる。
一度、郷試の雰囲気を知り、合格して挙人となった俊治は、当然のように会試を突破した。
郷試の合格者・挙人から、会試の合格者「貢士」にランクアップした。
しかも、首席――会元で、である。最終試験「殿試」――皇帝自らが行う試験――の首席は状元という。
ちなみに郷試の首席は解元という。
 
会試を合格した一ノ瀬家では、もうこれで俊治は進士――政治家になるにせよ、高級官僚になるにせよ、次代の指導者候補になったものと確信した。
殿試では原則、不合格者を出さないからである。
俊治の父はこう言った。
「状元、狙っていけ!」
殿試は八月下旬、宮中で実施される。
 
さて、元々の科挙の最終試験、殿試は宮殿の中で特製の紙を用いて行われるが、結局のところはペーパーテストである。
現代日本で、最初から最後までペーパーテストということは有り得ないので、殿試を皇帝の御前で大臣直々に行う口頭試問試験と設定する。
これは今までの科挙の試験とは違い、その場で当意即妙に回答し、自身の学識と知見を存分に示さなければならない。
 
そこで、一ノ瀬家では殿試対策のために、コンサルタント兼家庭教師を臨時に雇うことにした。
その中で最優秀な者は、女性であった。成瀬 結衣(なるせ ゆい)という。三十歳の美貌の女性である。
背が高い。上品なたたずまい、スーツを完璧に着こなしている。
自己管理が徹底されているので、痩せすぎず肥りすぎでもなく、非常に均整のとれた姿をしていた。
 
彼女を雇用にするにあたって、あまりにも完璧で魅力的な姿に、危惧を持った者が、一部に居た。
俊治の両親もそうだった。特に父親が不安がった。しかし、どうしても言えないようだった。
しかし、一ヶ月程度の短期雇用であるし、邸内には使用人が大勢いるから、間違いはないだろうという楽観論が優った。
また、彼女を超える適任者はいないという事情もあった。
彼女には、担当したすべての貢士を状元及第させた実績があったからだ。
ただし、その貢士はすべて女子だった。
 
――そして迎えた殿試の当日。
 
俊治はとても平常心ではいられなかった。まったく集中できない。
殿試専用の特製の罫紙には、精神が錯乱した者が書いたような、支離滅裂なことが書いてある。
本来はそれに口頭試問を正確に写し取り、論点をまとめて回答しなければならないのに……。
試験の待機時間、ずっとトイレに籠もって、マスターベーションをしたくて堪らなかった。
しかし、一回や二回で鎮まるような欲望ではなかった。記憶は鮮明で、感覚は今でも生々しかった。
 
一ヶ月弱の間に、俊治は結衣に食われ尽くした。才能もすべて吸い取られた。
彼女無しではいられない身体に、造り変えられてしまった。
(……いったい何度、絶頂を味わっただろうか……)
(……なのに、成瀬さんはもう消えてしまった。連絡もつかない……)
 
浮かんで止まない、断片的な記憶。
 
完璧に理想化された女の裸体。全身のパーツはすべて洗練された造形。
熱と重さ。湿り気と滑らかさ。少し生臭い吐息。何かに耐えるような声。
全身を伝う唇と舌の感覚。肌にかかる乱れ髪。潤んだ瞳。口から伝う涎。
淫らに動くシルエット。
耳元で囁く、かすれた声。直後に舐められた。
(……ふたりしか居ないのに、どうして声をひそめるのだろうか……)
香水と混じった雌の匂い。甘酸っぱい匂いと饐えた臭い。
彼女の腰の動きも、下腹部に残る重さも、その重心の移動も鮮明に覚えている。
乳房の揺れも感触も鮮明に覚えている。今でも掌に残っている。
紅い唇で舌なめずりしていたこともよく覚えている。
昂揚した眼、開く鼻孔、陶酔した表情……。
 
彼女が言った。僕の胸に熱い息を荒くつきながら。
彼女の髪が彼女の呼気で宙に舞っていた。
 
「……こうなったのは、俊治クンのお父さんのせいだからね……」
 
(続く)


この記事が参加している募集