待ち人は君の傍に。/宮崎市定先生を慕って―連作「科挙 中国の試験地獄」(6)
本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
また、この話での「●歳」は、「満年齢」です。数え年ではありません。
第六話 道ふ莫かれ、閒花艶にして且つ香しと。(下)
二人は他愛もない話をしながら、坂道を上っていった。
小学校、中学校そして高校の頃を懐古していた。航の話で盛り上がったりもした。
神社の境内に出た。
手と口を清め、賽銭箱に小銭を投げ込んで、二人は祈った。
(泥沼から抜け出すには、どうすればいいのか、教えてください)
(私は彼に、どんなふうに手を差し伸べればいいの?教えてください)
折角来たから、二人しておみくじを買った。
蓮は「中吉」だった。
願望(ねがいごと): 急げば破れる恐れあり。一度立ち止まり、己の心に問えば道は開かれん。
学問(がくもん): 知識のみに頼るは危うし。古きを温ねて新しきを知るべし。
待人(まちびと): 来る。意外な姿にて現れる。
恋愛(れんあい): 高き望みを捨て、足元の花を愛でよ。
【一言】: 始めて信ず、韶顔(しょうがん)は鬼蜮(きよく)と為(な)りしことを。外の虚飾を剥がせば、真の宝が見えてくる。
紬は「大吉」だった。
願望(ねがいごと): 誠実な心を持って接すれば、大きな助けを得て成就する。
学問(がくもん): 努力は裏切らず。自信を持って進め。
待人(まちびと): すぐそこまで来ている。恐れる必要なし。
恋愛(れんあい): 身分や肩書きを越えた絆が結ばれる。案ずるな。
【一言】: 暗き夜を抜けて、光の指す方へ。あなたの優しさが、疲れ果てた旅人の魂を救う。
二人は、境内の端にあるベンチに、隣り合って腰を下ろした。
紬は避けては通れない質問を、勇気を振り絞って、口から出した。
「……氷室のお兄ちゃん、彼女とかいるの?」
一瞬、蓮の顔に険が現れたが、すぐに消えた。
「……ええ、頼みもしないのに、勝手に隣に腰掛けて、勝手にアピールして、勝手に私の将来を決める……彼女気取りがいます……いや、いました」
紬は、あーやっぱりかと思い、落胆した。玉砕したかと思った。しかし、蓮の言葉遣いにひっかかるものを感じた。
「彼女気取りですか……?」
紬の声は、期待と不安で少し震えていた。
「ええ。……私が『挙人』と知ると、態度が一変する女に嫌というほど会いました。初めは喜んで彼女らと付き合っていました。……でもね、誰もが私のことを、高性能AI搭載のATMとしか思っていない……そういうふうにしか思えなくなってしまって……。だから、スマホにも女の人の情報はまったく入れなくなりました」
蓮は自嘲気味に笑い、手元のおみくじを見つめた。 そこには「高き望みを捨て、足元の花を愛でよ」と書かれている。
「……女の人、嫌いなんですか?」
「まさか(笑)。女の人は大好きですよ。ははは。でも、計算高く人間関係を選ぶような人は大嫌いです」
「……じゃあ、私は合格ですか?」
紬はハッとして口を噤んだ。顔が火が出るほど熱い。
蓮は目を見開いたまま、隣に座る小さな幼馴染を凝視している。
おみくじに書かれた『足元の花を愛でよ』という言葉が、今の二人の間に静かに降り積もっていく。
「……随分と久しぶりに見た気がする」
「え?」
「きれいな瞳の女の人を」
「お兄ちゃん、私が?」
「……ええ、澄んだ瞳をしていますよ。小学校のときから変わらない」
「……」
「アドレスを交換して欲しいんだけど……」
紬は目を丸くして、ただコクコクと頷いて、バッグからスマホを出した。
結局テンパって何もできす、蓮から操作してもらった。
二人はその後も、時を忘れたように話し込んでいた。
やがて、時計が午後四時を回った。
「……そろそろ送っていきますよ。家は前のままですか?」
「うん」
「では、参りますか。三〇分がかりだけど(笑)。帰りは歩きかな」
「あはは」
坂道を下り、平坦な道を少し進むと、すぐに緩やかな上り坂になった。上りきると後は下るだけだ。
紬の家まであと五分を切ったとき、不意に蓮の首に二本の腕が巻き付いた。
そして、左顎に何かぶつかった。柔らかいものに覆われた硬いものだった。
驚いて左を見ると、今度はそれが唇にあたった。鼻にも何か当たった。
当たったものは紬の唇だった。
「お兄ちゃん、歯が、歯が痛い……」
そう言いながら、顔を真っ赤にして紬は笑っていた。
そして、顔から笑いを消してこう言った。
「……つ、つ、次は、い、いつ会えるのかな?」
「……歯が、歯がマジで痛い。……明日、東京に帰るよ」
「やっぱり?……」
「東京の住所を引き払って、こっちで職探しをすることにした。だから、遠からず会えると思う」
「……!」
「……こっちに戻ったら連絡しますよ」
「ダメ!毎日、連絡して!簡単でいいから……」
「……紬ちゃん」
「いや、やっぱりダメ!……詳しく、詳しく、お兄ちゃんが何をどう感じたのか、詳しく教えて!」
「長い文章は、嫌われるよ(笑)」
「でも……」
「慌てないで。私は逃げも隠れもしないから。それに……」
「……何?」
「少なくとも今、私はあなたを嫌いじゃない。……むしろ可愛らしいと思う」
紬は再び飛びつく態勢に入ろうとしたが、兄の気配を感じた。
航が坂道を上がってきていた。
紬はとっさにハンカチで、蓮の顎と唇を拭った。
航はちょっとニヤニヤしながら、近付いてきた。
「……もう正妻になってる。やるなお前」
「もう、兄ちゃん!黙っててよ!」
妹をからかった後、蓮を見た。
「……お前、眼が生き返った!生き返ってるよ!」
「なあ、航、こっちで求人を出してる会社、何処か心当たりないか?」
「お前、今の仕事は……辞めるのか?」
「二十七歳だから、もう潮時だよ。今日、そう思った。こっちに帰ってきて、働きたい。……どこかないか?」
「……あるよ!あるに決まってるよ!お前、取り合いになるくらい、就職先あるよ!」
「そうか?それは嬉しい。妹さん、ここで引き継いでいいか?」
「家までって約束だよな。晩飯、一緒に食べよう」
「……そうか、それは有り難くいただきましょう」
蓮は自宅に電話し、その旨を母に伝えた。
夜八時、蓮は自宅に戻った。航が車で送ってくれた。紬も同乗した。
「お兄ちゃん、連絡待ってます!」
「うん。詳細は難しいかも知れないけど(笑)。航、送ってくれてありがとう」
「……早く帰ってこいよ!」
「ああ」
自宅の扉から両親が出てきた。
「わざわざ送っていただいて、ありがとうございました」
「いえ。義弟候補ですから(笑)」
「……義弟って(笑)」
航と紬は家路に就いた。
蓮は親に話した。
「……というわけで、こっちに帰ってきたい。しばらく、家に置いてもらえないかな」
「遠慮するな。ずっといてもいい」
「……就職先を探したいけど」
「心配要らない。さっき、結城さんのお父さんから電話があった。さっそく知り合いの社長連中に話してみるって。市役所にも話しておくって」
「田舎は、本当に話が早いね」
「だけど、お前、紬さんを泣かせたら、追い出すからな」
――こっそり咲いている花の色と香りに迷いなさるな――
いや、この場合、迷って正解だった。絶対にそうだ。
