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恋せよ乙女。/宮崎市定先生を慕って―連作「科挙 中国の試験地獄」(5)

本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
また、この話での「●歳」は、「満年齢」です。数え年ではありません。
 
第五話 道ふ莫かれ、閒花艶にして且つ香しと。(中)
 
彼女にとって蓮は、単なる「初恋の人」ではなかった。現代の科挙という、残酷なまでの能力主義社会において、正しく勝利し、正しく選ばれた「光」そのものだったのだ。その隣に自分が並ぶ姿を想像するだけで、恐ろしさで足がすくむ。
 
「……怖いよ。兄ちゃん」
「怖い? 怖いのはあいつの『肩書き』だけだろ。お前、アイツのこと――氷室蓮っていう男のこと、嫌いか?」
航が、いつになく真剣な眼差しで紬を射抜いた。
紬は言葉に詰まる。視線を落とし、クッションを強く握りしめた。
「……嫌いじゃないよ。嫌いになれるわけないよ……。でも、だからこそ嫌なの。私みたいなのが隣にいたら、彼が笑われる。私との時間が、彼の貴重な人生の『空費』になっちゃう。私が隣にいたんじゃ、蓮さんが可哀想だよ」
 
「……結局、好きなんだろ?」
航の意地悪な追い打ちに、紬の我慢が限界を迎えた。彼女は顔を真っ赤にして、半ば叫ぶように本音をぶちまけた。
「好きだよ! フランクで、フラットで、あんなに凄いのに一度も偉ぶったことなんてない、世界で一番素敵な人だよ! ……でも! だからこそ、私じゃダメなの!」
 
「……紬」
航が静かに名前を呼んだ。
「蓮は確かに『挙人』だ。それにふさわしい才能の持ち主だよ。死ぬ気で努力して、その権利を掴み取った男だ。……でもな、あいつは挙人である前に、一人の人間なんだよ」
 
航は窓の外、夕暮れに染まる街を眺めた。そこには、共に泥だらけになって遊んだ少年時代の記憶がある。
「あいつは、くだらない冗談で笑うし、たまに独自の感性で変なことを言い出す、退屈しないいい奴だ。……挙人なんてメッキを剥がせば、ただの面白い男だよ。だからさ、とりあえず会ってこい。あいつを『挙人』としてじゃなく、一人の『人間』として見てやれるのは、お前みたいな奴だと思うんだ」
航は少しだけ口角を上げ、確信に満ちた声で付け加えた。
「……俺が思うに、たぶん、お前はアイツの好みだぞ。自信持て」
 
兄妹の押し問答を聞きかねたのか、廊下から母親の恵美子が鋭い声を響かせながらやってきた。
「紬! あんた、こんないい話、もう二度とないよ。とにかく一度は会いなさい。会わなかったら、あんた絶対に後悔する!」
恵美子の勢いに、紬は思わずクッションを抱えたまま身を縮めた。母親の言葉は、現実という名の礫(つぶて)となって紬に降り注ぐ。
「氷室さんなんてね、今だって既に、全国どこに住んでも就職に困ることなんてない。それどころか、もう十分すぎるほどの高給取りなのよ。……これでもし来年の『会試』を突破してみなさい。もう一生、地位から落ちる心配なんてないし、あんたは高級官僚か政治家の妻になれるかもしれないのよ!」
「お母さん、そんなこと……」
「いいから聞きなさい! 行ってきなさい、そして決めてきなさい。……少なくとも黙ったまま、自分勝手な理由でこの話を蹴ることだけは、母さんが許さないからね」
 
恵美子は一度、語気を強めて紬の逃げ道を塞いだ。しかし、娘の怯えたような、それでいて恋い慕う気持ちが隠しきれない瞳を見ると、ふっと表情を和らげ、優しく付け加えた。
「今の蓮くんのままで、十分すぎるほどに紬を幸せにできるわよ。政治家の妻なんて言ったけど、そんなもんになる必要なんてこれっぽっちもない。……それにね、母さんは、蓮くんはそういうことには向いてないと思うの」
「向いてない……?」
「ええ。蓮くんはきっと、誰かに利用されたり、数字で測られたりする世界で生きていくには、心が綺麗すぎるのよ。……紬、あんたなら、そんな蓮くんをどっしりとさせられる。そう思うの。……だから、会うだけ、会いに行きなさい」
 
その言葉は、紬の胸に深く、温かく沈んだ。
お母さんは分かっているのだ。蓮が「挙人」という重すぎる鎧を脱ぎたがっていることも、そして紬という娘が、その鎧の下にある「一人の男」を温められる唯一の存在かもしれないことも。
 
「……分かった。……行ってくる」
紬は小さく、けれど確かな声で答えた。
 
翌日、十四時。 市立図書館のロビー。
現代の科挙という巨大なシステムの陰で、二人の「人間」が再び出会うための舞台は整った。
 
約束時間のとおり航が妹を伴って現れた。
ロビーのベンチで待っていた蓮は、二人の姿を認めるとゆっくりと立ち上がり、どこか不器用な、けれど心の底からの安堵が混じった笑顔で親友を迎えた。
 
「よお、航。……久しぶりだな」
久闊(きゅうかつ)を叙する挨拶を交わす二人。だが、航は親友の顔を間近で見るなり、その表情をわずかに曇らせた。
「……お前、痩せたな。それに眼に……眼に力がないぞ」
「……そうか?」
蓮は自嘲気味に笑った。東京での日々、代議士事務所での神経をすり減らす立ち回り。それらが親友の鋭い眼をごまかせないことを悟った。
 
「……昨日は苦労したんだぞ」
航はそう言って、背後に隠れるように立っていた紬を蓮の前に促した。
「妹が恥ずかしがってな。コイツ、本気でビビってるから、優しくしてやれよ」
「ちょっと、お兄ちゃん!」
紬は顔を真っ赤にして、航の腕をぺしんとはたいた。その様子を、蓮は少しだけ驚いたように、そしてどこか懐かしそうに見つめていた。中学生だった頃の面影を残しつつ、驚くほど美しく成長した彼女の姿が、モノクロだった蓮の視界に色を灯していく。
 
「……後はゆっくり二人で話すといい。気が済むまでな」
航は車のキーを指先で回しながら、不敵に笑った。
「妹はお前が責任を持って家まで送ってこいよ。いいな?」
「ああ。分かった」
 
航はそれだけ言い残すと、颯爽と自分の車に乗り込み、去っていった。
図書館の静寂の中に、取り残された二人。
かつての憧れの人と、その「光」に怯える少女。
 
「……出ましょうか。少し、散歩でもしながら」
蓮の声が、驚くほど穏やかにロビーに響いた。
 
(続く)


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