汝、迷うことなかれ。/宮崎市定先生を慕って―連作「科挙 中国の試験地獄」(4)
本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
また、この話での「●歳」は、「満年齢」です。数え年ではありません。
第四話 道ふ莫かれ、閒花艶にして且つ香しと。(上)
この話のタイトルとなった言葉は、宮崎市定「科挙 中国の試験地獄」(中公文庫)の、九十三頁から九十四頁にわたって記載されている、七言律詩の結句である。
訳出部分を引用する。
――こっそり咲いている花の色と香りに迷いなさるな――
【思考実験:現代日本における科挙システム】
現代の日本に、もし「科挙」があったならどうだろうか。
かつての中国では国が教育を行わず試験のみを課したが、現代日本ならば国は既存の教育機関を存分に利用するはずだ。
ならば、受験資格を得るための一連の試験――学校試(県試・府試・院試・歳試)は、すべての高等学校のカリキュラムに組み込まれるだろう。各校では学力だけでなく、体力、偏差値、生活態度から健康状態に至るまで徹底した選考が行われる。
異性関係も監視の対象だ。一途な交際は加点対象となるかもしれないが、不潔な交友関係は排除される。SNSの炎上は、事実無根ならば国が総力を挙げて鎮圧するが、誹謗中傷の主であればその時点で道は閉ざされる。そして高校三年生の中から、学校の代表としてふさわしい「精鋭」が二十名ほど選抜される。これを科挙の第一段階――「科試(かし)」と呼ぶことにしよう。
この選抜を突破した全国約十一万人のエリートが挑むのが、第二段階――「郷試(きょうし)」である。
合格率は約〇.四五%。二二〇倍という熾烈な競争だ。
実施時期は、過ごしやすい十月中旬である。
会場は大きなアリーナやドーム球場などが使われ、受験生は高さ二メートル程度の簡易なパーティションで区切られただけの個室に、三日間閉じ込められる。カンニング対策は凄惨を極める。性別を問わず全員全裸にされ、医療用スキャナーによる徹底的な身体検査が行われる。持ち込めるのは己の身体のみ。事務局が用意したスウェットと筆記用具だけが、彼らに許された唯一の装備である。
この郷試に合格し、「挙人(きょじん)」という称号を得た瞬間に、人生は「勝ち組」へと確定する。
地方自治体は議員レベルの待遇で彼らを迎え入れ、企業は役員候補として奪い合う。
しかしそれは同時に、官報に親族の職業まで公開され、一挙手一投足に「国家の顔」としての清廉潔白さを求められる、終わりのない監視人生の始まりでもある。
ここで、第一話の晴空(せいら)を思い出して欲しい。
彼女はこの「学校選抜」から漏れた脱落者だった。国は挑戦を拒まないが、選抜から漏れた者に課される合格ラインは、年少者を優先する冷徹なアルゴリズムによって、実質的に到達不可能な高さに設定されている。彼女が買い続けた基本書は、武器ではなく、戦っているフリをするための「現実逃避の薬」だったのかもしれない。
【挙人の帰還】
さて、六年前の郷試で挙人となりながら、その上の「会試(かいし)」に二回落第した男がいる。
氷室 蓮(ひむろ れん)、二十七歳。
彼は東京で地元代議士の事務所に勤務し、権力と利権の渦中で、来る三度目の試験(六月上旬に実施予定)に向けて死んだような眼をして働いていた。五月の大型連休、彼は逃げるように故郷へ帰省した。
ある日の午前、あてもなく街を散策していた蓮に、声がかかった。
「おーっ!久しぶり!……なになに、どうした!挙人さま!そんな顔して!」
振り向くと、小中高と同じ学校に通った同級生、佐伯陽菜(さえき ひな)がいた。ベビーカーを押し、四歳の息子の手を引いている。
蓮の眼に、陽菜が眩しく映った。彼が試験紙の文字と格闘し、利権の駆け引きに辟易していた六年の間に、彼女は結婚し、出産し、確かな「命」を育てていた。
「顔色、よくないよ。氷室くんみたいな人が拗らせたらダメだよ」
陽菜の直球な言葉に、蓮は曖昧に笑うしかなかった。
「……ねえ、結城くんとは今でも連絡取ってるんでしょ? 妹の紬(つむぎ)ちゃん、覚えてる?」
「……いたね。中学校の頃、可愛らしい顔してた」
「彼女、すっかり綺麗になったんだよ。ちょうど彼氏いないし、結城くんに繋いどくから、一度会ってみなよ」
東京で、スペック目当ての女たちから「取引」を持ちかけられることに疲れ果てていた蓮だったが、「親友・航の妹」という言葉には、不思議と嫌悪感が湧かなかった。
「よし、連絡しといた! 結城くんから連絡入るよ。じゃあね!」
親友・結城 航(ゆうき わたる)から連絡が入ったのは、その日の夕暮れだった。
明日の午後二時、市立図書館のロビー。 かつて蓮が郷試のために死に物狂いで籠もったその場所で、二十四歳になった紬と会うことになった。
衆里 尋ねて 他を百度す――。
数多の誘惑と絶望の中に正解を探し求めた蓮が、その「花」に出会うまで、あと数時間。
一方、その前夜、結城家の娘の部屋は、さながら戦場の様相を呈していた。
結城 紬は、ソファのクッションを抱きしめたまま、魂が抜けたような声を上げた。
「……ムリムリムリムリ!……絶対にムリだってば!」
兄――航が事もなげに口にしたその名は、氷室 蓮。この街が誇る「挙人」であり、同時に、紬が少女時代から胸の奥にそっと隠し持っていた、手の届かない憧れそのものだった。
「なんでだよ。会うだけだろ」
「なんでって……挙人様だよ!? 街の掲示板に名前が載るような、住む世界が違いすぎる人だよ。私みたいな平凡な事務職の女が釣り合うわけないでしょ!それに、東京にいるんだもん。絶対、モデルさんとか官僚の娘さんとか、綺麗な彼女がいるに決まってるもん!」
紬の声は、震えていた。
(続く)
