堅実のパラドクス(8)終 虚無と静謐の記録
終章 虚無と静謐の記録
思考実験の終着点――虚無の先に見える「愛」の輪郭
「思考実験」という冷徹な器の中に注ぎ込んだのは、皮肉にもどこまでも穏やかで、牧歌的とも言える夫婦の肖像であった。
ペンを置き、改めて自らが紡いだ物語を俯瞰してみる。そこには、激しい情熱に身を焦がす恋人たちの姿はなく、ただ静かに、淡々と日々を積み重ねる二人の営みが描かれていた。
しかし、書き終えた今もなお、序章で私の肌にじっとりと張り付いたあの底冷えのする虚無感から、私は最後まで逃れることができなかった。
この拭い去れない冷たさは、一体どこから来るのだろうか。
ふと、自問する。人間にとって、情緒的なつながりとは、生きる上で「邪魔」なものなのだろうか。
世間一般が語る「愛」は、得てして情緒の熱量で測られる。
だが、私がこの思考実験で見出したのは、それとは対極にある「経営的」な結びつきであった。
それは、情緒で惹かれ合うというよりも、まず個として自立し、健全な財務状況と黒字経営を維持できる二人の人間が、「この人ならば、自分を赤字に転落させない」と相互に理性的・実務的な確認を交わし合うプロセスである。
そうして盤石な信頼の地平を固めた後に、彼らは「家族」という名の共同経営体へと進化を遂げるのだ。
こうしたドライな関係性は、世の異性関係の規範に照らせば、あるいは「異端」や「打算」と切り捨てられるかもしれない。だが、そこには現代社会が見失った極めて強固な誠実さが宿っている。
二人ともが心身ともに健康であり、誠実に仕事を続け、互いの生活基盤を毀損しない。その規律があったからこそ、彼らは生活の困窮に追われることなく、質素ながらも精神的な豊かさを享受できた。
そして、その静かな凪のような日々の中で初めて、本物の情緒と愛情が静かにその姿を現したのだ。
これこそが、実は最高に誠実な「愛」の形なのではないだろうか。
入り口はどこまでもクールでドライ。しかし、利害の一致を超えた先に残るものこそが、真の意味での情緒的なつながりとなる。
いわば「愛の加点方式」とも呼ぶべき夫婦の在り方だ。赤字経営に陥るリスクを徹底的に排除した、その冷徹な選択の果てに、温かな愛情が逆説的に浮かび上がる。
このパラドクスに、私は一種の救いを感じずにはいられない。
時代の潮流に抗い、堅実に、そして誠実に生を営んだ物語の中の二人だけは、救われたのだと思いたい。彼らのみならず、この不確かな世を懸命に生きるすべての親に、そして迷いながらも歩みを止めないすべての人々に、幸あらんことを願わずにはいられないのだ。
――だが、祈りだけでは済まされない現実が、私たちの眼前に冷酷に横たわっている。個人の努力や覚悟だけではどうにもならない、現代社会の歪な構造である。
未婚化や少子化という、この国の根幹を揺るがす難題。
その糸口を解く鍵は、増えすぎた大学を大胆に淘汰し、浮いた国費を教育費に集中的に投入して家計負担を抜本的に減らすことにあるのではないか。
たとえば、現在の授業料と同等のコストを維持しながらも、WEB講義を全面的に導入するパラダイムシフトはどうだろう。
そうすれば、学生は大学近辺に高額な家賃を払って居を構える必要がなくなる。
親が必死に工面する「仕送り」の大部分を占める賃貸料をゼロにできれば、家計の圧迫は劇的に改善されるはずだ。
さらに、子供が都会の喧騒や誘惑、治安の不安に晒されることも減るだろう。
都市はたまに訪れる場所としては刺激的で面白いが、多感な時期の学びの場、あるいは生活の拠点としては、必ずしも適しているとは限らない。
そもそも、誰もが「大学」という名の、あまりにも高価なモラトリアムを享受する必要がどこにあるというのか。真に専門を究めんとする学徒が、果たしてこの国にどれほど存在しているだろうか。
少なくとも私の記憶を遡ってみても、周囲にそんな純粋な探求者は一人もいなかった。もちろん、私自身も例外ではない。社会に出る前の、責任の伴わない空白の時間をただ貪っていた、浅はかな愚か者の一人に過ぎなかった。
大学で指定された単位を揃えたところで、現実に立ち向かうための「実利」という名の門が開くわけではないのだ。
自らの道を切り拓くために必要だったのは、結局のところ、予備校の冷たい教室に通いつめるか、独力で難解な問題集と解説書に齧りつくことだけだった。
大学が私に与えてくれたもの。それは、卒業式で手渡された、たった一枚の卒業証書という「紙切れ」に過ぎない。
その紙切れを手に大学の門を出た瞬間、私は自らが歩んできた道のりの空疎さを突きつけられ、あまりの虚しさに眩暈がしたのを覚えている。
「あいつみたいに自分を律せる奴は、予備校なんていらないんだよ。俺みたいな意志の弱い人間は、金を払って退路を断つしかないんだ」
かつて学生の誰かが、自嘲気味に吐き捨てたあの言葉を、私は今も冷めた心地で思い出す。
知力も意志も持たぬまま、ただ「学歴」という呪縛に怯え、不安を煽られ、肥大化した教育産業にいいように搾取されていく若者たち。
その構図は、あまりに空虚で、あまりに哀れであった。
幸いにして、私には彼らが言うところの「自律」があった。
模試などの最小限の利用を除けば、予備校に一銭も落とすことなく自力で道を切り拓いたという自負はある。
もっとも、その自律でさえも、生活基盤のすべてを親に依存していた以上、「守られた中での反抗」に過ぎなかったのかもしれない。
そう考えれば、自らの歩んできた道さえもが頼りなく思え、指の間から砂のように零れ落ちていく感覚に陥る。
「ダブル・スクール」という歪な言葉が平然と流通する現状は、滑稽を通り越して悲劇ですらある。
既存の大学では望む進路さえ選べないというのなら、いっそ機能不全に陥った大学を廃し、実利を教える予備校が大学を名乗ればいい。
学歴社会のパスポートを発行するだけの、形骸化した教育機関。
自律を知らぬ者たちが、ただ時間を浪費するだけの遊び場。
名門を気取った、高額なレジャーランド。
サークルという名の「青春ごっこ」、あるいは「若さの浪費」。
世間知らずの「こども」を甘い言葉で誘惑し、堕落させ、罠にはめて搾取しようとする輩が渦巻く場所に、高い金を払って送り出される。
それを「青春」という情緒的な言葉で糊塗し、正当化しているのが今の大学の実態ではないか。
私自身、学生時代には正体不明の異性から誘惑を受けた経験がある。今思えば、それは宗教かマルチ商法へ引き込むための、典型的なハニートラップだったのだろう。
そんな安っぽい罠が仕掛けられた場所へ辿り着くために、私は高校の三年間、まるで呪われたかのように机にかじりついていたのか。
こんな空虚な場所に私を送り込むために、親はいったいどれほどの重荷を背負わされたのか。
自分がその負担に見合うだけの存在ではないことを痛感するゆえに、心の底に沈殿した罪悪感は、いつまでも消えることがない。
今、社会の一翼を担う身となって思うのは、「あの頃に戻りたい」などとは断じて思わないということだ。
蘇ってくるのは、無為で怠惰な日々に身を投じていた自分への、焼けつくような自己嫌悪と羞恥ばかり。
青春を懐かしむ声は世に溢れているが、私にとってのそれは、自身の愚かさと脆弱さを突きつけられる、耐えがたい「未熟の記録」でしかない。
私は断言する。怠惰で空虚な青春など、懐古に値しないと。
……唯一、大学の図書館で友と無言で切磋琢磨した、あの静謐な時間だけは、豊かであったと信じたい。
広大なキャンパスという名の砂漠の中で、そこだけが剥落せずに残った、唯一の美しい記憶として。
あの沈黙の空間で、インクの匂いと古びた紙の感触に包まれながら知識を渇望した瞬間だけが、私を唯一、本物の「大人」へと繋ぎ止めていたのだから。
(完)
本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
