堅実のパラドクス(7)比翼連理のフラジリティ
第6章 比翼連理のフラジリティ
さらに数年後。
ある平日の朝。みちるは珍しく高熱を出し、ベッドから起き上がれなくなっていた。
「ごめん、晴仁……今日、お弁当無理そう……」
かすれた声で告げると、スーツの袖を通そうとしていた晴仁は、即座にスマホを取り出して会社へ連絡を入れた。
「あ、課長ですか? 高尾です。すみません、今日急遽有給をいただきます。妻が高熱を出しまして。これから病院へ連れて行きますので、本日は看病に専念させてください」
淀みのない口調で電話を切り、ネクタイを外す彼を見て、みちるは目を丸くした。
「……え? 仕事は?」
「休むに決まってるだろ。万が一、深刻な病気だったらどうするんだ。お前一人を置いていけるわけがない」
晴仁の「堅実な看病」には、一切の妥協がなかった。近所の内科の予約状況を秒速で確認し、みちるに上着を着せると、抗う隙も与えず抱きかかえて車まで運んだ。
「……そこまでしなくても、歩けるよ」
「無駄な体力を使うな。大人しく運ばれていろ」
効率と安全を最優先する彼の合理主義は、この時、純粋な過保護へと姿を変えていた。
幸いにもただの風邪と診断され、解熱剤を処方されて帰宅した。
ようやく一安心したところで、晴仁はキッチンで手際よく消化のいい卵がゆを作り、みちるのベッドまで運んできた。
「ほら、少しでも腹に入れておけ。薬が飲めなくなる」
背中を支えられ、ふうふうと冷まされたおかゆを口に運んでもらう。新婚時代に決めた『寝室は別』というルールは、今日ばかりは完全に撤廃されていた。
食後、晴仁はベッドから適度な距離を置き、寝室のドア付近に椅子を持ち込んでどっかりと腰を下ろした。
「どうして、そんなところに座るの?」
「近すぎると圧迫感があるだろう。ゆっくり休みなさい」
「……うつっちゃうよ。自分の部屋に戻ってていいのに」
「いや、ここにいる。何かあればすぐ動けるし、俺は本を読んでいるだけだから気にするな」
「あなた、ご飯は食べた?」
「今は何も心配せず、眠ることだけ考えなさい」
そう言って、晴仁は本当にただ本を開き、静かにページをめくり始めた。
余計な会話は振らない。ただ「そこにいる」という確かな気配だけを供する。その絶妙な距離感が、弱っているみちるには何よりも心地よかった。
熱でぼんやりする頭の中、みちるはふと、二人の資産運用について思いを馳せた。
みちるは複雑な投資理論はわからない。だからNISA口座では、堅実な銘柄だけを選び、あとは完全に「ほったらかし」にしている。
『私たちが五十歳になったら、答え合わせに一緒に口座を開こう』
二人で交わした約束。十数年先の話だ。途方もなく遠い未来に思えるが、彼が本をめくる微かな音を聞いていると、この静かな日々の積み重ねが、確実に「五十歳の二人」へ繋がっているのだと確信できた。
「……ねえ、晴仁」
「ん?」
本から視線を上げずに彼が応じる。
「早く五十歳になりたいね。答え合わせ、楽しみ」
晴仁はそこでようやくパタンと本を閉じ、みちるの熱い額に、そっと自分の冷たい手を当てた。
「馬鹿だな。急がなくても、ちゃんと一緒に五十歳になるよ。……ほら、喋ってないで寝ろ」
「……晴仁の手、冷たくて気持ちいい。……ちょっとだけ、腕の匂い嗅がせて」
「おい病人。こんな時までフェチを発揮してないで、大人しく目を閉じなさい」
呆れながらも、晴仁は腕をどけようとはしなかった。みちるは夫の微かな匂いと安心感に包まれ、深い眠りに落ちた。
次に目覚めた時、既に日は落ちていた。室内は真っ暗で、夫の気配がしない。
「あなたー、あなたーどこ……? ねえ、あなた……!」
返事がない。ふらつきながら寝室を出た。廊下もリビングも、静まり返った闇に包まれている。手探りで照明をつけ、進んでいく。
「……あなた、どこ!? 返事して!」
高熱で過敏になった聴覚が、静寂を恐怖へと増幅させる。リビングへ入ると、窓から差し込む薄い月明かりの中に、ソファに横たわる影を見つけた。
「……! あなた、あなた……!」
反応がない。みちるは恐怖で膝から崩れ落ち、ソファの脇に這いつくばった。夫の肩を何度も揺さぶり、その胸元に耳を押し当てる。
「スーッ……スーッ……」
驚くほど深く、規則正しい寝息だった。
晴仁は、自分用の夕食をゼリー飲料だけで済ませ、妻のおかゆを再び用意する前に、電池が切れたように熟睡してしまったらしい。
「……っ……ああ……」
みちるはその場にへたり込んだ。
死んでしまったのか、あるいは自分を置いて消えてしまったのかと思った。この静寂の中で、自分を繋ぎ止めてくれる唯一の錨を失ったかと思ったのだ。
「……ん、あ……? みちる……?」
耳元でのすすり泣きに、晴仁がようやく意識を浮上させた。
「……寝てなきゃ、ダメじゃないか……」
「目が覚めたら真っ暗だったし、呼んでも起きないから……!」
みちるの両手が、晴仁の袖を必死に引っ張る。彼はようやく事態を把握し、重い体を起こした。
「……悪かった。少し、油断したみたいだ」
晴仁はみちるをベッドへ運び、毛布を肩まで掛け直すと、大きな手で彼女の小さな手を包み込んだ。
「……晴仁。……おかゆ」
「……今から作ってくる。待ってて」
――などという、他愛のない日々を送っている。
DINKSだから、何にも縛られることはない。誰も縛らない。
晴仁は生活費と貯蓄を、みちるは投資を。夫の死蔵されていた資金を二人で運用し、笑っちゃうような額の数字を積み上げていく。
二人はふと思う。
「かつては異端として否定された生き方が、今やこの国で最も贅沢な選択肢となっている。社会の再生産という名のOSは、とっくにクラッシュしていたのではないか」
DINKSはまだ幸福だ。形だけでも「結婚」という既存のシステムにログインできているのだから。
一方で、未婚のまま十分な蓄財を成した者たちは、静かにシステムから「ログアウト」していく。対照的に、持たざる未婚者たちは必死にログインを試みるが、やがて年齢という壁によって強制的にアカウントをバンされる。DINKSでない既婚者は、ログインしたまま窒息しそうなのだろうか。・・・・・・なんという荒漠とした光景だろうか。
もちろん、例外は多いのだろう。多いと信じたい。
