堅実のパラドクス(6)透明な境界線
第5章 透明な境界線
新婚の二人は、ある生活のルールを定めた。
『寝室は別。相手の部屋へ入る際は必ずノックし、主の許可を得ること』
みちるは最初こそ難色を示したが、晴仁が論理的に説き伏せた。
「あえて非日常の部分を残しておくべきだと思うんだ。関係の陳腐化を防ぐための仕掛けだよ。試しにやってみて、嫌なら変えればいい」
(実のところ、プライバシーを完全開示しないことで、互いの中に「秘密」という名の聖域を内在化させようということ。)
二人は共働きを選び、子供を持たない選択(DINKS)をした。
みちるに課せられる「女としての重圧」を解除し、常に個人として対等であるために。老後の不安は、情念ではなく冷徹な蓄財によって埋め尽くす。
『結婚しても、子はなさない』
『賢明な個体同士が結びつくと、種を残さない道を選ぶ』
これこそが「堅実のパラドクス」の正体だ。
・・・・・・
Q: 『賢明な個体同士』? 随分と傲慢な言い草ね。単に『自己保存に全振りしたエゴイスト』の間違いじゃないかしら?
A: 自分の始末を自分でつける。他人のリソースを掠め取らず、自立して完結する。それが大人としての最低限の礼儀じゃない? 私たちは「次世代育成」という名目の公金を一円も受給していない。それだけで十分、この社会に対してクリーンな存在だと思わない?
Q: 文明の恩恵をタダ乗り(フリーライド)しておきながら、その維持コストである「次世代の再生産」を拒否するなんて。義務を果たさない権利があると思っているの?
A: 残念だけど、今の社会において再生産は義務(タスク)ではなく、個人の嗜好(オプション)にすぎないわ。他人の人生の選択に口を出すなんて、それこそ前時代的なハラスメントよ。それに、「子供は宝」なんて綺麗な言葉でラッピングされた、教育業界やマーケティング戦略の「カモ」にされる義理もないの。
Q: 結局は蓄財に走る守銭奴。社会全体の未来よりも、自分たちの預金残高が大事なわけね。
A: 好きに言えばいいわ。でも私たちは、配偶者控除以外の優遇措置を捨てて、人一倍の税金を納めている。老後の介護費用だって、国に頼らず自弁する。それに、私たちの貯蓄は銀行の融資原資になり、投資は経済の血流になっている。感情論で喚く誰かより、よほど実効的な形で社会を回している自負があるわ。
Q: そんな強がりを言って。ペアの片方が欠けたら、その瞬間にシステムは崩壊するんじゃない?
A: それ、DINKS特有の問題だと思ってる? 子持ちの世帯なら、片方が欠けた時のダメージはもっと壊滅的でしょ。私たちは元々、一人で生きていけるスペックを持った個体同士。夫が死ねば、その遺産はすべて私のもの。経済的な路頭に迷うことはないわ。……もし別れることになっても、私は元の「独り」に戻るだけ。いえ、むしろ結婚前よりも資産は増えているわね。ふふふ。
Q: ……(言葉を失う)
A: (……もし、自分が受けた教育と同じ質のものを、当時と同じコストで我が子に与えられる世界なら、誰がこんな選択をするものか。子供のためじゃなく、肥大化した大学の経営のために、私たちの人生を切り売りするなんて御免だわ。……産まない無念さがないわけじゃない。でも、現実という鎖の重さは、私たちの愛よりも、はるかに重すぎるのよ)
これ以上、かみ合わない不毛な議論など、もはや記す価値もないだろう。・・・・・・
結婚から数年後。
晴仁が四泊五日の出張に出かけたある週のこと。留守番中のみちるを、職場の同僚が飲み会に誘ってきた。「旦那も出張先で遊んでるんだから、あんたも羽を伸ばしなよ」という、(自称)女子会だ。
みちるは昔からこの手の集まりが嫌いだった。適当な理由を並べて丁重に断り、帰路につく。
彼女の脳内では、堰を切ったように毒舌が渦巻いていた。
(晴仁が遊んでる? ……はあ、おめでたいわね。自分の旦那と一緒にしないでくれる? 『男』なんてデカい主語で括って、安っぽい共感で傷を舐め合おうなんて虫が良すぎるのよ。)
(不倫なんてみんなしてる? ……馬鹿じゃないの。あんたたち、アリバイ工作すらまともにできない無能の集まりじゃない。もし誰かの旦那が探偵を雇ってみなさいよ、芋づる式に全員詰むわ。そんな低能と一緒に泥沼に沈むなんて、冗談じゃない。)
(私なら、やるなら自力で完璧にやる。でも、不倫をした時点で、自分の運命の決定権を『夫』と『間男』に委ねることになる。それって自分の人生の主権を切り売りしてるのと同じでしょ。相手の嫁が出てきた瞬間にゲームオーバー。結局、自分の機嫌は自分で取るしかないの。……ねえ、どうしてどいつもこいつも、男に褒めてもらわないと死んじゃう病気なわけ? 『女だから』なんて主語、デカすぎて反吐が出る。)
(旦那の悪口大会? 自分で選んだ男を貶めるのは、自分の見る目のなさを宣伝してるようなものよ。そんな男にしか選ばれなかった底辺だと自白してるのと同じ。)
(……え? 旦那の夜の生活が下手? 他人を下手と言えるほど、あんたはお上手なわけ? だったら自分が誘導すればいいじゃない。技術を磨く努力もせず、サービスだけ要求して……何様のつもりよ。女王様気取り? 安居酒屋で愚痴を垂れ流す女王様なんて、乞食と変わらないわ。)
(『性の自己決定権』? 『自己実現』? ……頭の弱い人が好んで使う言葉ね。自分で決めているつもりで、実際は他人に搾取されていることにも気づかない。滑稽だわ。)
(住宅ローンに教育費。高い月謝で子供にお稽古事をさせる……まともな経済感覚じゃない。私も親からピアノ教室に行かされたけど、今生きていることに1ミリも役に立ってない!・・・・・・将来その子が、あんたたちの老後の面倒を見てくれる保証がどこにあるの? 優秀な子なら、真っ先に親の性根を見抜いて逃げ出すわ。……私だって、こんな母親お断りよ。同レベルにされるなんて末代までの恥だわ。)
ーー子を育てるという逃れられない重圧は、DINKSや独身を貫く者には一生理解できない。
彼女らとその夫は子育ての傍ら、心の深淵で、「別の道があったのではないか」という疑念に指をかけられながら、それでも他者より優位に立ちたくて、マウントという名の螺旋を上り続ける。家内奴隷としての自らを呪い、債務という鎖で繋がれた現実を忘却するために、かりそめの情熱に縋るのだ。
かつて瑞々しかった恋人たちは、いつしか疲弊した生存者へと変貌し、互いを慈しむ余裕さえ磨り減らしていく。その絶望の淵で、子供の無垢な笑顔だけが唯一の酸素なのかもしれない。
息の詰まる日常からの逃避を、外野が「愚行」や「不潔」と切り捨てる権利などない。
そこには高尾夫妻には決して越えられない、あまりに深い断絶がある。
子をなさない二人は、その代償として、血の繋がりに付随する充実を生涯知ることはない。高尾家の均衡も、一翼が欠ければ容易く瓦解するだろう。
エゴに殉じて孤独を飼い慣らすか、過酷な現実に喘ぎながら愛憎を繋ぐか。その優劣を断じられる天秤など、この世のどこにも存在しない。ーー
晴仁がいない間、みちるは自宅で極端にだらしなくなる。
室内では下着姿でうろつくことすらザラだ。
彼女は主のいない夫の寝室に入り浸り、ベッドを占領する。それどころか、夫の布団の中で自らを慰めることさえあった。
夫の部屋を漁っても、男特有の異臭はしない。彼は家で一人で処理するようなことはしないらしい。エッチな本もDVDも見当たらない。
みちるは夫のPCを起動した。PINコードは共有されている。検索履歴やチャット履歴をチェックするが、完璧に消去されている。
そしてついに、PCの奥深くに「funnyWIFE(おかしな妻)」という、あからさまに怪しいフォルダを発見した。だが、パスワードに阻まれる。
(……これ、釣りよね。絶対に釣り。でも、まさか……中身は何なのよ! 私の写真? 観察日記? パスワードは何? 結婚記念日? 誕生日? ……全部違うじゃない!)
(※正解:晴仁の祖父母の電話番号+実家の車のナンバー+ランダムなアルファベット。計23文字。解かせる気ゼロの鬼畜仕様である)
フォルダは晴仁の仕掛けた罠だった。中身はただの犬猫画像集。必死に解析を試みる妻の姿を想像して、彼は一人で悦に浸っているのだ。
だが、「妻の観察日記」は実在する。彼のスマホの中に。
彼は妻が自分の領域を侵していることを知っており、黙認している。視覚情報の僅かなズレから即座に察知するのが彼の特技だ。一方、彼は決して妻の領域を侵さない。「全部暴いてしまったらつまらない。他人の秘密は、面白くないか、地獄になるかのどちらかだ」というのが彼の美学だった。
金曜の夕方。出張から晴仁が帰宅した。
その日のスマホの『日記』の出だしはこうだ。
『妻の表情がおかしくて爆笑しそうだった。「funnyWIFEフォルダについて聞きたいのに聞けない」という絶望が顔に張り付いている。YouTubeの動画で笑っているふりをして誤魔化した』
夜22時。
自分のベッドに入った晴仁は、違和感を覚えた。掛け布団をめくると、シーツに点々と不可解な染みがある。
(……みちる。お前、俺のいない間にここで何をした?)
晴仁はベッドの上で、ついに大爆笑した。ノックの音が響く。
「どうぞー!」
恐る恐る入室したみちるの目に、笑い転げる夫の姿が映る。
「……っ、みちる! 腹が痛い! なあ、この染みは何だよ! マーキングか?」
「ああっ! 私を殺してーーーーー!!」
羞恥に悶絶する妻を、晴仁は軽々とお姫様抱っこし、彼女の部屋へ運んだ。
「おやすみ、みちるちゃん! ……あーっはっは! 俺はさっきリビングでハグできただけで、十分嬉しかったのになあ」
(・・・・・・あなたのベッドは、私のテリトリーでしょ?・・・・・・でも、やらかしてしまった)
その日の『日記』の末尾。
『危なかった。あれはみちるの罠で、俺が寝た瞬間に「旦那が粗相をした」と写真を撮る魂胆だったのかもしれない。……しかし、面白すぎて笑いに負けた。卑怯な笑いの取り方だ』
この日、新ルールが追加された。
『寝室のドアが開いていれば出入り自由。ただし、室内を汚してはならない』
翌日、二代目の軽バンでドライブに出かけた二人は、棚田を散歩していた。10メートルほど距離を置き、前を晴仁が、後ろをみちるが歩く。
晴仁が「どういじってやろうか」と企んだ、その瞬間。
彼は足を滑らせ、泥に満ちた田んぼへ派手にダイブした。
「うわーーーーっ!」
「ちょっと! 大丈夫!?」
「……サイアクだ。右足が抜けない! 抜けん! ……あ、さらに沈む……!」
情けない顔で苦笑いする夫を見て、みちるは腹を抱えた。
「あはははは! 動画撮るからもう一回! 『funnyHUSBAND』ってフォルダ作って永久保存してやる!」
「えっ、何それ! 俺のPCには『funnyWIFE』ってフォルダがあるのに!」
叫び返したものの、足が動くたびに「ブチャ、ブー」と間抜けな音が響き、威厳は皆無だ。
夫は泥を洗い流し、右足を裸足にして運転席に座った。助手席には、ずっと思い出し笑いを続けている妻がいた。
